「父さんは、私を憎まずにいられなかったんだと思う。ただ、おかあさんの娘だった私を直接的に殺せなかっただけなんだよ。殺される謂われがない、なんて、嘘。私、ずっと、嘘ついてた」
ずっと分かっていた。彼らの大切なものを奪った自分自身のことを。
人殺しをした自分は、許されることはないのだと。
「私は自分の命を守った。殺されたくなかった。でも愛してた。愛してたの、エリシアを。殺されそうになっても、私は、今でもあの子を愛してる。でもあの子は絶対に、私を許さない」
お願い、誰かを殺すなんてこと、しないで……!
彼女の言葉に従えずに、今もこうして銃を握っている。一度捨てたと思った自分が、いつの間にか戻ってきていた。感覚が冴えていく。銃の、グリップに親しみを覚える。ナイフの輝きが落ち着く。そんな紗夜子を、エリシアは許さないだろう。
「私は、おかあさんが憎かった。助けてくれなかったあの人が憎かった。でも、私にはあの人をどうにもできなくて、だから代わりに、父さんを恨んだ。私を憎んでくれていて、憎みやすかったから」
本当は、私は。
私が、殺したかったのは。
空は暮れ、夜がやってくる。風が強くなり、雲が立ちこめていく。輝き始めた星は薄い雲に隠れ、沈み行く太陽に照らされたそれは、熾き火のような灰と赤の色をしていた。指先も爪先も冷たくて、光に暖められはしない。この身に通う血は女神の血。心を摩耗させ、善悪の境界を曖昧にする。世界との繋がりは希薄になり、孤独に陥る。
トオヤの言うことが正しければ、だから、セシリアは紗夜子を待っているのだ。Sランク遺伝子、彼女の細胞を継いだのは、紗夜子だけ。宿命づけられた孤独を血に潜ませているのは、私たち二人だけ。
(おかあさん)
あなたの罪を贖えるのは、きっと。
「――……紗夜子」
心を落ち着かせ、視線を向けた。痛む。心が、焼け付く。自ら広げた傷が、じわりじわりと血を滲ませているようだ。
トオヤの目に笑みもなく、容赦もない。紗夜子は鉄の柵にもたれ、目を閉じた。今もしここで自分を支えるものが壊れてしまうとしたら、紗夜子は落ちていくだけだ。それでも、手を伸ばすことは止めない。誰に誹られても、死ねと言われても、生き続ける。生きてやる。紗夜子が傷つけた人たちの分だけ。生きなければならないと考える分だけ。
そして誰かが「もういいよ」と言ってくれた時に、命を返す。
胸に手を置いた。
「これが、高遠紗夜子」
光を望みながら手を血で汚して、美しいふりをしている私。
醜く、罪深い、許されない私は、それでも。
それでも、あなたのことが。
思いは胸に秘めた。言うべき許しを紗夜子は持っていない。
私には、いつか罰してくれる人が現れる。そのときまで生きよう。精一杯。
「トオヤ」
何も言えないであろう彼に、紗夜子は願う。
「すべてが終わったときに、『もういい』って言って。あなたは、それだけでいいの」
――だからあなたが、私の神様。
何も望まない。トオヤが、ここにいるだけでいい。だって、トオヤは今、憎んでもいないし、嫌悪もしていない目をして、紗夜子を見てくれていた。彼の瞳に映る私はきっと良いものなのだと、信じられた。私はまだ、闇に浸りきっていない。
トオヤが一歩近付く。その足音に、まぶたが反応した。眉間に皺を寄せ、ぐっと目を閉じて呼吸を整える。怯えている。逃げ出したい気持ちが起こる。それでも堪えて彼を見据えた。
向かい合った時、抱きしめたい欲求と、突き飛ばしたい衝動が、嵐のように吹き荒れた。
トオヤの左手が冷たく紗夜子の頬をなぞり、右手が暖かく紗夜子の頬を撫でた。ぐっと腕を伸ばしたかと思うと、抱え込むようにして紗夜子を収める。
「そうしてお前は」と耳元でくぐもった声がした。
「自分を許さずに死ぬつもりなのか」
許されると思ったことは、一度もない。
トオヤに、未来を考えろと言われたことがある。望む未来に向かって歩めと。
でも、自分を許せない人間に、自分の未来なんてないのだ。誰かのために生きるしか、ないのだ。
「トオヤに、あげる」と吐息をかけて紗夜子は言った。
「私の全部。あなたにあげる。あなたの未来を私は作る。そうしたいって、ようやく思えたの。ただ生かされるんじゃなくて……ただ殺されるのを待つのでも……生きなくちゃいけないって思うだけでもなくて……私の命が、誰か、大切な人のために使えるのなら。そのために私は、戦っていける」
世界を救うなんて言えないから。私にできるのは、罪を贖うことだけ。一生許せない自分のために、永遠に償うだけ。
生きていくだけ。
だから、最後に、自分を許せない私を、あなたが許せばいい。
「すべてを――生も死も、愛も憎しみも、善も悪も、罪や罰、宿命も運命も、すべて受け止めて、私は、生きていく」
「ひとりで?」
「ひとりで」と紗夜子は答えた。
トオヤが離れる。
紗夜子は見つめる。笑った。
紗夜子の生まれや、血縁や、辿ってきた過去の罪でさえ、彼女をまばゆく見せるためのものにすぎないと感じた。どうしてそんな風に、輝いて見えるのかが分からなかった。慕われる理由も知らない。私をあげるなんて、そんな言葉を聞いたことがない。どんな言葉を並べ立てたって、胸に飛び込んできた真実の思いを的確に言い表すことはできないだろう。
解放したかった。
抱きしめて、ここにいていいと言ってやりたかった。
すべてを忘れさせたいと思ったが、そうすると今の紗夜子は消えてしまうだろう。罪を背負い、見えない血で手を汚し、許されないと理解している紗夜子こそ、自分は。
階段を下りる紗夜子を羽交い締めにしたのは、自分でも分からない衝動だった。首に顔を埋め、噛みつくように抱きしめた衝動的なそれは、しかし自分でも腑に落ちるくらい自然なもののように思えた。
長い髪が、首元に押し付けた顔に、乱れてかかる。
「と、トオヤっ……?」
胸や腹部を自分に押さえつけるようにしているため、紗夜子が苦しさと戸惑いの声を発する。「黙れ」とトオヤは命じた。一言も許さない。名前も呼ばなくていい、そういうつもりで。
「――お前を殺したら」と囁いた瞬間、紗夜子の背中が硬直し、反り返った。
「お前が救われるっていうならそうする。撃てば許されるって言うなら撃ってやる。ひとりになるな。ひとりで戦うな。人を殺したのは許されない。絶対に、許されない。それでも、ひとりになるな」
もっと他に言いようがあるはずなのに、ひとりになるなということを繰り返した。それ以外の言葉が出てこなかった。簡単に背負ってやれるほどの重さではないと知っていたために、許すとも言えなかった。紗夜子の「もういい」という言葉は的確のように思えた。
この命を消さないためなら、今、自分はどんなことだってする。
「お前が十分に償ったと思ったら、もういいって言ってやる。でも、もし本当に、お前が俺にくれるって言うなら」
覚悟は決まった。
「残りの時間全部、俺のものにする」
お前に、光をやる。
お前にとって、俺は見上げ続ける光であり続けよう。お前が望む道の先の、目指す光に。
腹の中に力が湧き、熱い固まりになった。そんなことしかしてやれない自分が悔しいと感じた。
(例え、お前が本当に親父の娘で、俺の妹でも)
この決意は真実だ。
腕の中で、紗夜子は顔を覆った。何を否定するのか首を振り、肩を震わせる。腕の力を緩めた途端に、トオヤの手を振り払って階段を駆け下りていった。その行く先はひとつしかなく、それでも、どこか一人になるところで、紗夜子は、一人で泣くのだろう。
・
(馬鹿)
馬鹿、馬鹿! と、それこそ馬鹿の一つ覚えのように紗夜子は唱え、叫び続けた。
彼が好きだと改めて感じて、自分の醜い傷を暴いて、決して本当の顔では笑えず、自分も彼も痛めつけて。それで、デートはおしまいのはずだった。
なのに、あんな言葉。
その時、ちり、とスピーカーが入る音がした。
『第一階層第一区、ポイントEにおいて【魔女】発見! 至急迎え撃たれたし!』