「これ、兄さんにも話したことないのよ」
「話した方がよかったかもしれないね。マクシミリアンなら、きっと分かっただろうから」
ルーカスは微笑を浮かべ、遠くに向かって呟いた。
「僕たちは、相手の言葉を心から信じることができないように生まれついた。すべて頭から信じては社交や外交にならないからね。その中で数少ない真実を拾い上げていく。でも、本当は誰でも同じなんだと思う。富める者も、貧しき者も。老いも若きも。みんな、少しずつ信じられるものを見つけ出して、心から大切な人、愛する者を見つけるんだろう」
月の光に照らされる横顔は聖人のように安らかだった。「あなたにも、信じられなかった過去があったの?」小さく問いかけると、笑って指を立てられた。秘密を結ぶ合図だった。「僕の過去を少し話すとね」と彼は囁く。
「みんな、いつしか僕の言葉を真実として受け止めてくれなくなるんだ。真実すぎる真実は、人にとっては偽りに思えるらしい。これまで、どれだけ心から愛を口にしてきただろう。でも、みんなそれを次第に信じなくなっていく。だから、僕のその愛も潰えていく。相手からの愛がなければ、花は枯れてしまうから」
愛を口にしているのに、信じてくれない。差し出しても偽物だと断じられるそのむなしさを、足掻いても抜け出せない迷宮を、彼は彷徨ってきたのだという。
急に、自分が恥ずかしくなった。責任から逃れ、それを認めてくれた父たちに申し訳なかった。クイールカントから出て行くことを許してくれたすべてのものに、感謝と、自分に対する責任を覚えた。
ここで逃げることは止めにしない? アンは胸の内で呟く。心を委ねてもいいんじゃない? 私の痛みを受け止めてくれる……知ったかぶりではなくて、分かったような顔もしないで、この人なら一緒に越えてくれるのではない? だったら私は、責任を果たすべき身分に戻ることを恐れないで済む……。
もう隠す理由はない。過去を告白し、受け止めてくれたのなら、アンの築いた壁は内側から崩れ去ったに等しい。否、破壊ではなく、彼はアンに門を開けさせたのだ。そしてアンがその砦の中から出てくるのを待ってくれている。踏み出しさえすれば、ルーカスは彼女をその手で抱きしめるだろう。最初からそうだった。彼は、ユースアに現れたときから、アンに猶予を与えたのだ。もし、ここでアンが、「あなたを愛していない」という答えを出して背を向けたなら。きっと、彼はそれでもアンを連れていくのだ。最初からそのつもりで、彼はアンの前に時間を置いた。
「『何故』を聞くことは許される?」
「僕が君を愛している理由?」
頷く。彼はちょっと笑い声を立てた。
「きっかけは簡単。ジュニア・プロムで君を見た。あのプロムは仮装ありで、結構きわどい格好の子たちがいた。そうなると、お酒も入るし、悪さする馬鹿どもがいて。女の子が泣いているところに、君がさっと割って入って、自分のショールをその子に巻き付けると、彼女を連れ出しながら、『この子に触れられるのはね、大切にすると誓った人だけよ!』って一喝したんだ」
緩やかに彼は語るけれど、アンの記憶には確かな感触はない。あったような気がした、よく覚えていない、という程度だ。
「君に触れられるのは、君が許した人だけなんだと……そう思うと、なんて誇り高い女性なんだろうと思ったんだ。後日、マクシミリアンに妹の写真を見せてもらって、あれが君だって知ったんだ。それから、マックスに君のことを色々聞いて、焦がれた。それこそ、お伽話のヒロインに恋をするみたいに……。ただ、あの日君に何があったかというのは、知らなかったけれど」そして心配そうに付け加えた。「一目惚れは信じない口?」
どうかしら、とアンはよく考えてから答えた。「でも、あなたはさんざん私の嫌なところを見たはずだもの。それでも愛していると言えるのなら……」その続きは、心の奥から現れた箱が、中に封印してしまった。静かに言葉を待つルーカスを前に吐き出されたのは、ため息だった。
「私は素直じゃないの。図星をつかれると怒るし、自分の気持ちを認めるのも苦手。だから――あなたが好きだって、はっきりとは言えない」
「仕方ない。君は傷付いたその時間に、恋する勇気を置いてきたんだ。真実の恋人を見つける勇気をね。ただ……そんな可愛いことを言うと、キスするよ? 覚えてるよね、僕が言ったこと」
覚えている。反芻し、日記としてパソコンに打ち込みもしたから。
――君のそのままの心が欲しい、でも、隙を見せれば連れていく……。
「私……そうされてもいいと思ってる、今だけは」
ルーカスは刹那、笑みを消し、アンの頬を撫でた。覚悟させる時間を、こんなときにでも置いたのだ。アンは緩やかに目を伏せた。額が合わさり、鼻先がこすれあう。そして、唇をゆっくり、ついばむようなキスが降ってきた。
「……君はチョコレート? それともワイン?」彼の息は掠れている。「甘くてくらくらする……」
アンだってそうだった。これほど熱くて、中にたくさんのものが秘められたキスを知らない。頭がぼうっとする。ものすごい熱とアルコールに浮かされるより、ずっとふわふわと心地よく、甘い香りがする。いつしかそれに酔って、気付かぬうちに彼の胸にもたれかかるようになっていた。
「アン」寄せられた唇が低い声で囁いた。「もう逃がさない……」彼のすべてが恐ろしかった。まるで魔性だった。ミシアを誘惑した悪霊は、至上の美しさでもって彼女を追い詰める。アンに、契約に似た言葉を迫る。たった一言、『愛している』という言葉を……。
鋭い言い合いの声が聞こえてきたのはその時だった。
「キャサリン!」
アンは咄嗟に腕を伸ばして彼から離れた。突き飛ばすのと同じ素早さだった。交わした瞳にはお互い驚きがあり、アンは後悔で叫び出しそうだった。
私、まだ素直になれないの!?
従妹を呼んだのは男の声だった。喧嘩をしているようなきつい呼び方で、キャサリンの短い悲鳴が聞こえた。離して、と聞こえる。アンは自分のことを今は隅に追いやり、声のする方に駆けていった。
テラスの柱の影にいたのは、少女のように青ざめたキャサリンと、見るからに招待客ではない服装の男だった。ぎらつく目で彼女を睨み、すっかりキャサリンは竦み上がってしまっている。テラスという場所の性質からも、この騒ぎに気付いている者はいないようだ。そこでアンが最初に取った行動は、靴を咄嗟に脱ぎ捨て、投げつけることだった。ハイヒールは、男のすぐそばの柱にがつんとぶつかり、男の手をキャサリンから離させることに成功した。
「どうやって忍び込んだの、不埒者!」
男は獣のように唸ると、テラスからさっと飛び降りた。どさっと落ちる音がし、茂みを掻き分ける音が遠ざかっていく。静かな夜が戻ってきて、崩れ落ちたキャサリンをルーカスが抱きとめた。
「大丈夫ですか。怪我は?」
「平気です……」そう言うキャサリンの顔は白い。
「今のは一体誰です? リカード邸に忍び込むなんて、無茶なやつだ」
キャサリンは首を振った。彼の腕の中で、淡い金髪は妖精のようにきらきら光った。今にも輝きを放って消えてしまいそうな。
「……取りあえず」と吐き出したアンの声は震えた。「侵入者がいたって報告しましょう」踵を返すヒールの音が怯えている。彼の顔を見ることができない。どれだけ傷付けただろう。自分を受け入れようとした女が、不意に背を向けて逃げ出そうとしている。そして彼は今、別の女性を抱きとめている。
キャサリン。キャサリンの前で、ルーカスと二人ではいられない。傷付けたくない。彼女はきっと自分の思いを呑み込んでしまう。でも、だからといって彼を傷付けていい理由にはならない。キスまでしておいて、アンも己の気持ちに歯止めがきかなくなっている。
耳飾りを。戻ってきたのはそれだった。耳飾りを見つけなければ。耳飾りが見つかったとき、それでも彼が結婚を望んでくれたなら、もう何も迷わずにいられるから。
「立てますか?」
キャサリンを支えたが、足に力の入らない彼女は、立っているのがやっとだった。ルーカスはそれを素早く見て取って、彼女を抱き上げた。驚きと、喜びの赤みが彼女の頬に戻ってくる。愛する人に笑いかける従妹は、特別綺麗だった。対してアンの中に満ちるのは、彼に対する後悔、罪、恐怖の心と、袋小路になってしまった自分の気持ちだった。紳士的な笑顔でルーカスはアンを振り向こうとしたが、アンはそれよりも早く、明るく騒がしい広間へと足を向けていた。
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