聖堂に入ると、しんと静まり返っていた。ただ、奥の祭壇の前に人の姿があり、敬虔に跪いているのはハーレン・リカード公爵その人だった。声が響かないのは、その祈りの声があまりにも小さいからだろう。アンは少し待ち、わざと靴音を響かせた。反響した靴音は、熱心に祈っていた彼を驚かせるに十分だったらしく、彼は響くくらいに息を呑むと、疲弊した表情で振り返り、目を見開いた。
「こんにちは、叔父さま」
「ああ……アン」彼は微笑んだが、病身のように力がなかった。「どうして、ここへ?」
「聖堂を見たくて」昨夜の一件で、叔父に対して疑いを持っているアンは、慎重にそう答えたが、叔父はふっと笑った。
「もしかして、耳飾りの手がかりを探しにかい?」
言われれば仕方がない。正直に頷いた。「ええ……叔父さまも?」
「耳飾りを保管していたのは、リカードが管理していたサンの聖堂だからね。副司教たちにも確認したけれど、耳飾りはずっとここにあったそうだ。一体、どこへ消えたんだろうね……」
昨日のぎらついた態度とは打って変わって、叔父はすっかり抜け殻のように頼りなく、ミシアの星に照らされて消えないのが不思議なくらいに疲れきっているようだった。
「アン。キャサリンのことを気にかけてやってくれないか?」
不意に言われて面食らった。
「あ、いや、その……最近、どうやら昔のボーイフレンドが押し掛けてきているようでね。危ない目に遭わないといいんだが……」
思い当たることがあった。「昨日、キャサリンが男の子と言い争っているのを見ました。もしかしてあの子だったのかも」そうか、と叔父が苦悩で顔をしかめた。その様子を見て、疑問を抱く。キャサリンは、彼のことを伝えていないのか? どうして。つきまとわれているなら危険があるのに。何か、後ろめたいことでもあるのだろうか。
「私はこれで失礼するよ。さよなら、アン。気をつけて」
「はい。叔父さまも、お体には十分お気をつけて」アンが言うと、ハーレンの顔には悲しさがよぎった。なんだ? と思う間に、叔父は背を向けている。そうして、聖堂を後にしてしまった。
「お一人でいらしたのね。キャサリンもそうだったし……リカード家に、何かあったのかしら」
「聖堂に拝するとき、人の目的は、祈るため、願うため、そして告白するためです」キニアスが言った。「耳飾りのこともあります。公爵閣下、キャサリン様、それぞれ何かあったのは間違いないでしょう」
「追いかけるわ」アンは早足で聖堂を出た。
「叔父さま――」
アンが外に行くと、子どもたちに囲まれた叔父の姿があった。古着らしい服装の、十歳未満の少年少女たち。
「おじさんだ! ずっと探してたんだよ!」
「俺たち、お礼が言いたくて」
「毎日ご飯が食べられるんだ、おじさんのおかげで」
子どもたちの顔はきらきらと輝いて、まるで聖人に対するようにリカード公爵に信頼の目を向けている。だが、公爵はその子どもたちに妙な顔色で、どうすればいいか分からない右往左往とした態度のままだ。
「き、君たち、その話は……」
「失礼します、アン様。手をお貸ししてまいります」
キニアスは素早く公爵と子どもたちの間に割って入った。すると、公爵は動けるようになった途端、すぐに車に乗ってしまった。子どもたちの残念そうな声に見送られて、忙しない運転で、車はあっという間に見えなくなる。
「あの方があなたたちに何かしたの?」
アンが近付いて尋ねると、年長らしい少年は凛とした目で頷いた。
「僕たち、孤児院でお世話になってるんだけど、寄付だって言って、あの人が宝石を置いていってくれたんだ。お礼を言おうとしたのに、すぐにいなくなっちゃって」
「あなたたちが感謝していたって、ちゃんと伝えておくわね」アンはにっこりした。
しかし、変だった。寄付をしたなら当然の義務だと受け止めればいいのに、あんなにまごついて。まるで悪いことをしたような態度にならなくてもいいだろうに。子どもたちが傷付いていないといいのだが、と思ったが、彼らがアンに「お願いします」と頭を下げてあっさりと解散していく様子を見て、杞憂だったかと笑う。その顔でキニアスを振り向いたのだが、彼はじっと考え込んでいるようだった。
「キニアスさん?」
彼は目を上げ、アンを見た。
「宝石、と言っていましたね」
そうね、と頷く。それが一体どうしたのだろう? 首を傾げるアンに、キニアスは微笑み、「ルーカス様にご報告申し上げねばならないことができました」とだけ言った。
それからさんざん聖堂内部を確かめてみたが、おかしいところは見つからなかった。どちらかというと、椅子の下まで覗き込んでいるアンの方が、参拝の人々に不審者と思われなかったかどうかの方が気になった。
そうしている内に、鐘が鳴り、お茶の時間になる。聖堂はすっかり昼の光で満たされ、外はもっと明るいのだろうと思わせた。聖堂にいるのが馬鹿らしく思えてしまうくらいに、いい陽気だ。キニアスを誘って、カフェに行くことにしたのは自然の道理だった。冷たい飲み物か食べ物を口にしたい。
「昔、よく通ってたカフェがあるの。アイスクリームが絶品だから、一緒に行きましょう」
キニアスは思った通り断らず、アンの指示でそのカフェに向かった。外の椅子にはちらほらと休息を取っているお客がおり、そう混んではいないようだ。少し離れたところに車を停め、歩く。街を流れる水路には鴨が泳いでいて春めいていた。空から鳥が降りてきて、水路の踏み石に立ち、水をついばむ。考えることは、みんな同じのようだ。
「何を頼まれますか?」キニアスが尋ねる。
「じゃあ、バニラアイスクリームを」
「お飲み物は?」
「また後にするわ。多分、後で寒くなっちゃうから。あなたは?」
「私は飲み物を。……では、バニラアイスクリームとアイスコーヒーをお願いします」店員がとても気持ちのいい笑顔でオーダーを受けた。きっとキニアスの微笑みのせいだろう。
いつも控えているけれど、彼もとてもハンサムだ。ルーカスと並んでいると、白と黒、といった風情で、タイプが違う、女性の人気を二分しそうな、とても素敵な二人組に見えるのだった。彼の顔を見て笑うアンに、キニアスはゆっくりと目で聞いたので、アンは首を振った。
店内は、少し内装が変わっているが、アンがハイスクール時代に友人たちと寄り道した頃と同じだった。けれど時間を経て、椅子は少し古びて、テーブルはつるつるになっていた。けれど光景はいつもと変わらず、近所の住民が新聞を広げていたり、学生がレポートをしていたり、カップルが隣り合って座っていたりする。その光景を見たアンの顔色が変わった。
「お待たせしました、バニラアイスクリームです」
アンが身を翻したため、アイスクリームは受け取られることなく下に落ちた。
「お客様!?」
店内の目が集まる。アンは店を飛び出した。
頭の中は混乱で占められている。足下がおぼつかない。熱いような冷めたような意識で、心臓が忙しなく、早足で行く今も全身ががくがくと震えている。やはり落ち着かない身体で急いでいたために、よろめいた。それを支えたのは、強い男の手だった。
「アン」
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