ダイニングをノイに任せ、イリスはキッチンの壁にもたれた。さあ、何を作ろう? 食材はある。早く使ってしまわなければならないものもない。せっかくだから、洋食を作りたかった。トゥイではなかなか口に出来ないようなものを。ノイとの食事で、どういうものがトゥイ人に好まれるか大体分かるようにはなっていたが、口に合わないとお礼にはならない。
「ミスター、何か食べられないものはある?」向こう側に声をかけると、彼は向こうから大声を張り上げるのではなく、こちらにやってきて、答えた。キッチンに立った彼に、思わず仰け反りそうになってしまう。この人、エイジア人にしてはずいぶん身長が高くて、しなやかな黒猫が大きくなったよう。
「いいえ。何も。苦手なものもありません」
「じゃあジャンバラヤにしようかしら。スープはコンソメ。サラダをつけて」
「あなたが作るのですか?」あまりにびっくりしたような声に、イリスこそびっくりした。
「ええ。どうして? そんなに驚くようなことかしら」
「家政婦はいないのですか? ノイは」
「家政婦も使用人も雇っていないわ。ノイは、ただのお手伝い」答えてから、トゥイ人の彼には、私たちの関係は奇妙に映るでしょうね、と胸の内でひとりごちた。白人の女が、トゥイ人の少年に部屋を与えて一緒に暮らしていることは、人によれば住み込みの使用人をいいように使っている風に思えるのだと、隣人の言動で確認済みだ。家族同然の、家族でない他人。でも、イリスはノイのおかげでここでの暮らしが助かっているから、結局は主人と使用人の関係の変形なのかもしれないけれど。
「食事も掃除も、あの子に手伝ってはもらうけれど、私の仕事だから」
じっとこちらを見ていたフラムは、ぱん、と合わせたイリスの手の音に、夢から覚めたように揺れて、瞬きをした。
「さあ、お客様は座っていてくださらないと。ノイ、お湯が沸いたから、お茶の用意をしてくれる?」
ノイが飛んでくる。机を拭いた布巾と交換で、茶器を持っていってもらう。トゥイのお茶は、紅茶をおいしく入れられるイリスでもまだうまく入れることはできなかったから、本格的なトゥイ式のお茶を飲みたいときにはやはりノイに任せてしまって、イリス自身は今はこっそり勉強中なのだった。
「お茶をどうぞ、フー・ラム様!=v
フラムはイリスの顔を見て、イリスが肩をすくめて促すと、ノイの後についてリビングに向かっていった。イリスが眠っている間に、親しくなったのだろう。ノイは物怖じすることなく、にこにこと笑顔を浮かべたままトゥイ語で何か話しかけていた。トゥイ語は日常会話程度のイリスには細々と聞こえてくる話の詳細は分からなかったので、お客様のお相手はノイに任せて、冷蔵庫から食材を取り出した。
「君は雇われているわけではないのか?=vフラムが尋ねると、はい、と少年は素直に頷いた。
「住まわせていただいて、お給金もいただいていますが、レディは僕を家族のように扱ってくださるんです。雇われているようでそうでない、という感じでしょうか=vと、フラムが尋ねようとしたことを察して答えた。頭のいい子だ、とフラムは感じた。そもそも、リビングにフラムの姿を見つけたときから、寝起きだったはずの彼は真っ先に「こんなところで何をしていらっしゃるんですか?=vと丁寧に、大人のように訊いたのだ。万が一、相手が客人では、イリスの面子をつぶしてしまうと危惧してのことだろう。もちろん、もし暴漢であればいつでも応戦できるよう、距離を取ったままで。知り合いらしい男に追い回されていたことを伝えたときの礼の言い方も、フラムの気に入るところだった。
「彼女がユースア人で、ここに長期滞在するつもりだということは聞いていたが……どういう素性の人物なんだ? どうやらたちの悪いのに追い回されているようだったが=v
ノイは悄然と肩を落とした。「資産を狙われているようなのです。莫大な遺産を相続して、親戚の方々に更なる取り分を要求されていて。ユースアからトゥイランドに来たのは逃げるためだったようですが、従兄弟たちが彼女を追い回しているんです=v
「それは、彼女が君に話したのか?=v
ノイは首を振る。浮かんでいる表情は苦笑だ。とても大人びている。「僕が彼女のそばにいるのを知っているので、彼女の従兄弟たちが色々話して聞かせてきました。そんなことしたって僕がレディを裏切るはずないのに=v
どうぞ、と差し出された茶はいい香りがした。香しいそれを飲むと、深い息が内側から漏れる。
「君は茶を入れるのがうまいな=v
褒め言葉は本心だった。ノイはくすぐったそうに笑う。その仕草は、少しイリスに似ている。ともに過ごすうちに似てきたのだろう。
「この家には、君たち二人だけなのか?=v
「はい。でも、男手が欲しいから手伝いを雇うかもしれない、ということは言っていました。今のままでは、力仕事に不安がありますし=v
「そうだな=vとフラムも同意した。目の前に座っている少年は十歳だと聞いたし、今大きくフライパンを振っているイリスの腕は、見るからに力仕事に向いていない華奢さだ。昨晩抱きとめたときも、折れそうなほど細く感じられた。しかし首筋から香っていたのは年頃の女性の甘さで、トゥイの香と異国の風のにおいが混じって、思わずくらりとしたのを回想する。だからここで一晩明かしたのかもしれない、とフラムは思う。家に満ちるにおい、イリスの残り香は、彼にとって離れがたいものを含んでいた。懐かしく、遠い、何かを思い出させるもの。
今は肉と野菜を炒めているにおいがしている。食欲をそそる強いにおいに誘われたわけではないが、キッチンに立つイリスをしばらく見ていた。冷蔵庫を開け、鍋を覗き、手早くフライパンを動かす。名前の通り、小鳥のように敏捷に動くんだな。
「彼女は料理が得意か?=v
「僕はおいしいと思います。彼女の料理がとても好きです。フー・ラム様のお口に合えばいいんですが=vよどみない賛辞を交えた返事に、フラムは不敵に笑った。
「お手並み拝見といこう=v
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