――炎。世界が赤く染まっていく。
悲鳴すらもかき消される焔の海を臨み、セレスレーナは風に黒髪をなぶられながら指が真っ白になるほど窓枠を握りしめた。今見ているものが間違いではないのかと思うのに、熱風と悲鳴と怒号、その赤と黒の色はこれがまぎれもない現実だと知らせてくる。
(城下が、火に呑まれていく)
誰がそうしたのか問うまでもない。
(イクスの者が火を放ったのだ)
このジェマリア王国は先頃まで隣国イクスとの交戦状態にあった。近隣諸国を平らげて強国となったイクスが、ついにこの国にまで手を伸ばしてきたのだった。その戦争でジェマリアは前線に出ていた王を殺された。父王を失ったセレスレーナは王位継承者として白旗を挙げ、イクスの属国となることを誓って戦を終わらせた。――そのはずだった。
(ジェマリアが滅びる……ああ、私は、国を救うことができなかったんだ……)
イクス王国のサージェス王子とその父カルマン王の性格を考えれば、この攻撃は見せしめだと考えられた。何故かあの王子は執拗に、立太子の祝いの夜会で一度会っただけのセレスレーナを手に入れようとしていた。停戦条件のひとつにサージェスとの結婚があったくらいなのだ。
ジェマリア側は、セレスレーナが第一王位継承者であることを理由にその条件を緩和するよう働きかけていたが、ここに至ってイクス側はしびれを切らしたかのように攻撃してきた。
サージェスのセレスレーナへの執着を知っていれば、捕らえられたセレスレーナの末路はおのずと分かる。
――王族に生まれた私たちは国を守る義務がある。だからお前は誰よりも強く、気高く、揺るぎなくなければならない。
父の声が聞こえ、悔しさに涙がにじむのを感じた。
(宝玉を光らせることができなかった私は、やっぱり王位継承者にふさわしくなかった)
出来の悪い世継ぎだった。早世した母に似て病弱だったから、周囲は父王に再婚と後継者づくりを勧めていたらしい。だが父はその要求をはねのけてセレスレーナを鍛えた。周りを黙らせるほど強くなってくれという父の強い意志がそこにあった。それだけ亡くなった母を愛していたのだろう。
その期待に応えようと努力してきたつもりだった。他国の世継ぎたち――体力にも体格にも恵まれた男たちに引けを取らぬよう、これからの国のため、人々の未来のため自分を磨いた。強くなればきっと認めてくれる。そう信じて。
なのに――立太子の儀において王族が手にすることで輝く宝玉は、光を宿さなかった。
そして今こうして国が終わっていくのだから、セレスレーナは自らの無力になぶられるしかなかった。
だがただ打ちひしがれているわけにはいかない。
夜着の裾を翻すと、こちらを探していた侍女や衛兵たちに早く逃げるよう告げた。
「戦える者はそうでない者を守ってやりなさい。女性はなるべく複数人で逃げること。決して一人にならないで」
「姫様はどうなさるのです?」
涙目になる侍女に微笑んで「宝玉を持ったらすぐに逃げるから」と伝え、早く行くよう促した。
薄暗い廊下で一瞬振り返った彼女たちは知らない。セレスレーナが近衛騎士たちにもここから逃亡するよう命じたこと。
騎士たちもまた置いてはいけないと言ったが「誇りを持ったまま逝きたい」と告げると項垂れるしかなかったようだった。
(サージェスのような男の所有物になるくらいなら死んだ方がまし)
人の気配の薄れた城を進み、セレスレーナは王族しか鍵を持たない宝物殿に足を踏み入れた。逃亡する者たちの中に宝物を狙った者がいたのか鉄製の扉は何かで殴られた跡があり、鍵穴はこじ開けられようとした形跡があったが、その封印は破られることなく沈黙を保っていた。
鍵を開けて内の明かりを灯す。室内の宝物は国の終焉など興味もない様子で静かにそれぞれ輝いている。この国の王位の証である空銀石(くうぎんせき)もその清い光を白々しいほどに放っていた。
それが収められた中央の台座の足元に座り込み、セレスレーナは目を閉じた。何も見たくないし、ここから出たくなかった。
(……私のやってきたことは全部無意味だった。周りが言うように、見苦しく足掻いているだけだったんだ)
いつも自分だけが空回っている――子どもの頃からそんな感覚があった。
必死になればなるほど、動けば動くほど、周りは笑っている。唯一の王女として研鑽を積み、重臣たちに意見し、王族としての期待に応えようとするのに、返ってくるのは生暖かい歪な笑みばかりで。
――そんなに認めてもらいたいの?
――優越感に浸りたいんでしょうね。
――目立ちたがり。
――出しゃばり。
剣の腕を磨いて騎士のように強くなっても。図書室の本を読み、何ヶ国語を習得しても。虐げられている者を庇い、間違っていることを糾そうとしたこともすべて、みんなにとっては押し付けがましい、あるいは自らを誇示するような振る舞いでしか思えなかったのだろう。
(私が宝玉を光らせる正しい王位継承者ではなかったから)
――私の存在に意味はない。
国を助けられない。誰にも望まれない。私のすることは無意味なことばかり。
悲しい。悔しい。苦しい。――生きていたくない。
(もう二度と目覚めなくていい。こんな思いをするのなら)
ここから逃げることができるのならば。
「へえ? この国は、生きた人間を宝物庫に入れておくのか」
明るい声が響く。
驚き目を開けると、見慣れぬ風体をした見知らぬ男が立っていた。
腰に長い布を巻き、分厚い革の靴を履いている。長い上着。軽くはだけた胸元。風変わりな帽子と浮かれた無頼者の様だが、長身に加え、雰囲気が華やかなのでよく似合っている。何よりも印象的なのは、青い瞳と白い髪だった。まるで春の空と雲を合わせたような、優しいけれど怖いくらい鮮やかな美しい色彩。
彼は呆然とするセレスレーナの前に座り込んだ。ついと手を伸ばし、触れるか触れないかまで指を伸ばし、目を細めて笑う。
「かわいいな、あんた」
「なっ……、だ、だれ、あなた! こんなところで何を」
「俺はディフリート。職業は翔空士。ここに来たのはその石をいただくため」
(とくうし?)
聞き覚えのない職業だったが、続く言葉に納得した。彼が指し示した石――セレスレーナがもたれかかっていた台座に収まっているのは、王家の証である宝玉だ。
(ああ……盗人なのか)
セレスレーナは息を吐くと空銀石を手に取る。そして唇を噛みしめた。
(やっぱり、光らない)
自嘲を吐き出し、宝玉を男に突き出した。
「あなたにあげる。ここにあってもどうせ灰になるだけだから」
「なら、ありがたくいただこう。――そう言えるってことはつまり、あんたはこの国のお姫様かなにかなんだな?」
「いずれ女王になる予定だったけど、もう戴冠することはないでしょうね」
セレスレーナは力なく笑った。
「欲しいものがあったら全部あげる。だから早く逃げて。じきにここも炎に呑まれるか、イクスの兵たちがやってきてめちゃくちゃにする。捕まえられたらきっとひどい目にあわされるから」
「あんたはどうするつもりなんだ?」
王女なら逃げるべきだろうとでも言いたげで、ここにいない騎士たちを非難するようでもあった。セレスレーナは首を振った。何を言っていいのか分からないまま口を開くと、一言、零れ落ちた。
「もうつかれた」
彼が去ったらこの部屋に火を放とう。そうすればジェマリアの王族は誇り高いままでいられるに違いない。何も出来ないセレスレーナは、そうすることでしか自分と歴代の王たちを守ることができなかった。
相手がどんな顔をしているのか見ることができず、自分の冷たい指先をぼうっと見ていると、彼の両手がこちらへ伸びた。
「え、っ!? っな、なにするの!?」
彼はセレスレーナを抱き上げると、自らの肩に担いだのだった。
「離して! いったいどういうつもり……」
「拾ったんだ。捨てたあんたにどうこう言う権利はないね」
「……え?」
「あんたが捨てた命を、俺が拾った。だからあんたは俺のものだ」
――言葉が見つからなかった。
何を馬鹿なとか、気でも違ったのとか。ぶつけられる台詞はいくらでもあったはずなのに何も言えなかった。口を開けて、息を呑み込んで、ただ呆然とすることしかできない。
「行くぞ」
「な、ちょっと! 下ろしなさい! 下ろして!」
彼は人気のない道を知っているかのように迷いなく足を進めていく。だがどういうつもりなのか、どんどん奥へと入っていくのだ。このままでは逃げられなくなってしまう。
「あなた、死ぬ気なの?」
「まさか。あんたみたいに諦めが良くないんだ、俺は」
言いながら、近くにあった窓を蹴り割った。音高く割れた硝子に、再び足技を繰り出すと窓枠ごと外に蹴りだした。セレスレーナを下ろし、身軽に窓を乗り越えた彼はこちらに手を差し出す。
「ほらよ、お姫様」
「私はセレスレーナ。『お姫様』なんて名前じゃない」
「そりゃ悪かった。じゃあ、セレスレーナ。足場が悪いだろ、捕まりな」
つんと言い放ったのに、怯みもしなければ手を引っ込めることもなかった。しぶしぶその手に捕まって外に出る。
外には煙の臭いが流れていた。町の方の空が赤いのを目にして、胸の奥がずきりと痛む。みんな無事に逃げただろうか。死傷者が出なければいいと思うけれど叶わない望みだろう。攻め込んできたイクス兵に大人しく投降してくれることを祈るばかりだ。
「……ここからどうするつもり? 隠し通路を期待しているなら残念だけれど」
「迎えを呼ぶんだよ。――空船オーディオン。応答してくれ」
そう言うなり自分の腕にはまった腕輪の宝石に話しかけ始めた。この人、妄想癖か何かがあるんじゃ、と身の危険を感じたセレスレーナだが、直後どこからともなく女性の声が応答し息を飲んだ。
『こちらオーディオン。――ちょっと、ディー! あんたそこがどこだかわかってんの!? 状況見てから降りなさいよ! その街、焼け落ちるところなんだけど!?』
「見たから降りたんだ。《天空石》が灰になるとは思えんが、この状況だと見失いそうだったからな」
姿のない女性はどこかで呆れた息を吐いたようだった。
「おかげで《天空石》を回収できた。座標確認して、上げてくれ」
『了解。――座標を確認。船の障壁を解除して、転送準備に入るわ』
「いったい何をしているの? 誰と話しているの」
「ん? ああ、そうか。この世界は《半天石》の文化がないところだったか」
「『この世界』?」
「説明は後な。見ろ、来たぞ」
彼は煙の渦巻く空を指し示す。それに従って夜の雲に覆われた空を見上げ――。
「うそ……」
思わず言ってしまったのは、ありえない光景だったからだ。
三本の帆柱を持つ船が空に浮かんでいる。海を渡るように、夜空に白い帆をはらませてゆっくりと旋回していた。
これは、現実? 幻覚を見ているんじゃ?
「あれがオーディオン。俺の空船(ふね)だ」
告げた彼の腕輪の宝石が光を放ち始める。何がなんだか分からないセレスレーナが棒立ちになっていると、彼はその腰を引き寄せた。悲鳴や怒りの声を上げる前に視界が白く包まれる。
足が浮く。急速に地面が遠ざかる。庭木のてっぺんが、城の尖塔の先が、炎の海が遠ざかり、そして何も見えなくなった。