やがて船が旋回した。すると別の雲の間から現れた光に、セレスレーナにとって懐かしい景色が映し出される。
ジェマリアの夜の森。月の光を照らし返す湖。そして炎に包まれた街と城。
胸をぎゅっと掴まれた気がした。焦げた大気と熱を思い出せば足が震える。父を失ったときにも感じた、突然何も持たされずに放り出されてしまったような不安と、自分を奮い立たせながらももう嫌だと叫びだしたくなる恐怖。
戻らなくては。王位継承者としての義務を果たさなければならない。でも、戻りたくない。
震える肩に上着がかけられた。
見上げると、ディフリートの青い瞳が光っている。
「俺は部外者だが、あんたを拾った責任がある。だから言うぞ。――逃げちまえ、そんなに傷付くくらいなら」
強い言葉にセレスレーナは心をぐらつかせた。漏れた拒絶の言葉は弱々しい。
「あ、なたに、何が……」
「分からんさ、何も。けど部外者だからわかることもある。あんた、戻ったら死ぬぞ」
瞳の青い光は次第に強くなっていく。
「戻ったら侵略者に捕まって死ぬ、自ら命を絶つことになる、死なないまでも心を殺される、なんてくらいは想像がついてるんだろう? だったら選べるのは逃げることだ。死ぬくらいなら逃げろ。自分と他人なら、自分を選べ」
揺れる視界を船のへりをつかむことで耐えた。
「そんなこと……そんなこと、できるわけない……!」
「なんで」
「私は王族なの。国と民を守る義務があるのよ!」
「だったらその王族は誰が守る。神か?」
言葉を失うセレスレーナに、ちがうだろう、と彼は笑って切り捨てた。
「王族は、国と民と、自分を守らなければならない。自分が守られなければ国と民を守れない。だからあんたはまず自分を守る、そのために逃げるんだ。簡単な理屈だろ?」
「…………へ、屁理屈よ、それは」
力なく否定したが、心の天秤は傾きつつあった。そうできたらと思いながら、しかし天秤を平行に保とうとする力が働いている。父の言葉が聞こえるのだ。
――だからお前は誰よりも強く、気高く、揺るぎなくなければならない。
その言葉に従うなら、国に戻り諸侯に助けを求めて状況を立て直すのがセレスレーナの義務だ。イクス王国の蹂躙を許さず、先頭に立って戦う。たとえそれを認めてもらいたいがための演技だと揶揄されても。
長く沈黙して考えを整理した後、改めてセレスレーナは首を振った。
「……やっぱり、私は」
王女としての自分を捨てられない。船から下ろしてほしいと告げようとした、その腰を引き寄せられた。
「っ!? なに……!」
「聞き分けのないお姫様だなあ、あんた」
低いうなり声を含んでいるようなささやきが鼻先を掠める。
「さっきも言ったが、あんたは自分を捨てた。それを俺が拾った」
青い目に射すくめられてしまって、動けない。
それでも何か言おうと唇を震わせるのに言葉を被せて。
吐息がかかるほど、近く。彼は言った。
「戻ることは許さない。命を無駄にすることもだ。何故なら――あんたは俺のものだからだ」
「…………っ!!」
セレスレーナは渾身の力でディフリートを突き飛ばした。
頭がくらくらする。鳥肌が立った。低い声。厚い胸板。怖いくらいに輝く瞳。何よりそれらに対して自分のか弱いさまを思い知らされたことに。
にやりと笑うディフリートに怯えを見透かされたことに気付いて、セレスレーナの顔は憤激に染まった。
「私はあなたのものじゃない!」
「自分の命を放棄するやつにその台詞はふさわしくない。悔しかったら、自分は何があっても生きる、自分の命を粗末にしないってことを証明してみせるんだな。でないと、あんたにあんたを返してやることはできない」
次の瞬間、ディフリートの表情は賊のように獰猛なそれへ変わった。
「自分を買い戻してみろ、お姫様」
「……!」
これではまるで悪党だ。空を飛ぶ船だから空賊だろうか。優しい言葉を使いながらその裏に悪人としての顔を持っている。異世界を渡るにはそういう素質が必要なのかもしれない。
どう言えば丸め込めるかはわからないが一つだけはっきりしているのは、この男は現在セレスレーナを離すつもりがまったくない、ということだった。
考えを巡らせる。つまり彼がセレスレーナを手放していいと思えるものがあればいいということだろう。彼の望みや求めるものを与えればいいのか。
「……あなたの旅の目的は何。我が国の宝玉が《天空石》だと言っていたけど、回収ってどういうことなの。各国の宝を狙っているの?」
「それじゃあ盗賊と同じだが、そうじゃない。《天空石》は《蒼の一族》と呼ばれる神々の力の源で、あることをきっかけにばらばらに砕けて世界のあらゆるところに散っていった。多くの世界ではそれが《天空石》だと知られないまま、あんたの国のように宝玉として祀られていたり、誰かの所有物になったりしている。俺たちはそれをいろんな手段で回収する任務についているんだ」
「回収しなければならない理由は?」
「世界が滅びる」
セレスレーナが黙り込むとディフリートは唇を歪めた。
「ひとつふたつの話じゃない。言っただろう、世界がつながってるって。《天空石》が元に戻らなければ、枝分かれしたすべての世界が滅ぶんだ。この虚空域みたいに何もかもが雲に飲まれて自分がどこにいるのかわからない場所になる。いや、もしかしたら誰一人自分のことを認識できないようになるかもしれない」
認識できないと聞いたセレスレーナはぞくりと背筋を震わせた。
それは今の私のように自分を見失っているということだと思ったからだ。
だが震えているだけではいられない。拳を握り、きっとディフリートを睨んだ。
「その《天空石》回収の手伝いをするわ。見たところ、人手が足りていないんじゃない?」
操舵室にいたのは彼を含めて三人だった。城に現れたのはディフリートだけ。ということはかなりぎりぎりの人員で動いているのではないだろうかという推測だ。その《天空石》がどれほど回収されなければならないのかわからないが、人員は多いほうがいいだろう。
するとディフリートは目を丸くし、そしてにやりと笑った。
「《天空石》回収の旅は危険が多いぞ。あちこち行くし、食料と寝床の確保に必死になる。命を粗末にするような輩には務まらない仕事だ」
「でもあなたを認めさせなければならないんでしょう? だったら物差しが必要だわ。あなたの側で私はあなたと同じ仕事をする。そうすれば能力が測れる」
「国はどうする」
それにはぐっと胸を押されたような気がした。
だが冷静になれと言い聞かせる。策がないまま戻ったところで、サージェスに捕まって言いなりにさせられるだけ。だったら外の世界で国を救う手段を見つけた方が絶対にいい。
「……あなたの言う通り、今戻っても私にはなす術がない。時間を置いて状況が俯瞰できるようになってから国に戻るわ」
「なるほどな」
相槌が笑っているようでむっとなった。
だから言ってやった。顎を上げて、いっそ傲慢なくらいに。
「拾われたなら拾われたなりの矜持がある。――何もかもあなたの思い通りにならないわ」
ぶはっとディフリートは噴き出した。
「はははっ! そうこなくちゃな!」
セレスレーナは驚いた。
(なんて明るく笑うんだろう……)
まるでこの暗色の世界に差し込んだ太陽のような笑顔だった。
宣戦布告されたことが心底嬉しいかのように思えて、呆然と見とれていたセレスレーナだったが、ふと、視界の端に何かを捉えて顔を向けた。
右舷側の雲の向こうで何かがひらめいた気がする。
「どうした?」
セレスレーナは黙って船の反対側へと移動し、目を凝らした。
雲はまるで川の流れのようにこの空を覆っているらしい。大小の雲の波が常に押し寄せる。
「……見えた! あそこ、何か飛んでる」
ディフリートは右目に片眼鏡を装着した。セレスレーナが指差した先に、小さな船の影を捉えることができたはずだ。灰色の世界の中で見失ってしまいそうな小さな黒色だが、耳をすませば叫び声めいたものも聞こえる。
「まずい」
ディフリートが呟き、操舵室へ走った。扉を開け放つなり休息していた仲間たちに叫ぶ。
「三時の方向に船影あり! 虚鳥(きょちょう)に襲われてる。船を寄せてくれ!」
「はあ!?」
休息していたふたりが飛び上がった。それだけ言ったディフリートは再び甲板に引き返し、船が近付くのを待ちながら腰に帯びていた持ち手のついた筒を手にしている。
「どういう状況なの」
「空船には守り火っていう明かりを掲げる習慣がある。これがないと虚空域で遭難するか、虚鳥と呼ばれる化け物に襲われる。普通の船なら掲げて当たり前だが、どうやらあの船に何かあったらしい」
「何かできることは?」
船室にいろと言われるに決まっていたのですぐ尋ねた。ディフリートは目を見張り、呆れた様子でふっと息を吐いた。
「早速命を粗末にするつもりか?」
「自分の価値を証明しようというだけよ。剣なら使えるわ」
言い合いは続けられたし、そうなったら恐らくディフリートが勝っただろうけれど、この事態に彼はそんな無駄な選択はしなかった。
「操舵室にいるシェラかカジに言って、守り火の洋燈をもらってきてくれ。この船の備蓄分があったはずだ。それから護身用に武器を……」
少し考える間を置いて、彼の腰にあったものを手渡された。
「これを使え」
革の鞘に収まった長剣だ。船乗りたちが使うような剣を想像していたのだが、まっすぐな刀身の剣らしい。彼の愛刀らしく柄には持ちやすくするための布が巻かれていた。
「お借りします。それから洋燈ね。すぐ戻るわ」
踵を返して操舵室に飛び込む。シェラは操舵に忙しく装置に張り付いている。するとカジがこちらを振り向いてくれた。
「守り火の洋燈をください! 備蓄分をもらってこいと言われたの」
「こっちだ」
カジは操舵室から出ると、セレスレーナが先ほどは気付かなかった左舷側の階段を降りていく。船の真横にあるので雲が吹き付けてかなり苦しいのだが、彼は平地を歩くようにすいすいと移動していった。彼はもしかしたらなんらかの武術の達人なのかもしれない。
開けてくれていた扉の中に入ると、主甲板の下の部分に当たるらしい場所に廊下と部屋の扉が続いている。さらに下の層へ行く階段もあった。
「ここで待っていてくれ」
そう言ってカジは降りていき、すぐに戻ってきた。確かに洋燈だった。側部のつまみを回すと一瞬青い火が灯り、やがて赤く落ち着いた。
ふと、カジの視線に気付いた。その目はセレスレーナの左手、ディフリートから渡された剣に注がれていた。灯火に照らされた彼の黒い目は不思議な色に揺らぎ、こちらをまっすぐに見る。
「ディーを頼む。私もすぐ行く」
なんだろうと思う時間はなかった。セレスレーナは頷き、階段を駆け上った。