アーリィと別れたリカシェは、ロディの小屋の扉を叩いた。はい、と返事があった。
「リカシェです」
 中から「開いているよ」と声がかかった。扉を開けると、今日もロディは矢を作る仕事をしていたようだった。椅子に座った身体を捻って「やあ」と笑う。
「こんにちは、リカシェ。散歩かい?」
「アーリィと出掛けて帰ってきたところ。こっちまで来たから顔、を………………」
 続く言葉が消えたのは、リカシェの目があるものに吸い寄せられたせいだ。
 長く作業を続けていたからなのか、ロディは服の襟を緩めていた。そして恐らくリカシェが来るまで誰も訪ねてこなかったのだろう。いつもなら服の下にしまっているはずの守り袋が表に出ていた。
 彼がそれを大事に扱っているところを、初めて会った時、正確には窓から覗いた時に目撃していた。そしてリカシェは、同じような守り袋を手にしている人を知っている。
 いやまさか。似ているだけでは? 守り袋は特別でもなんでもない。針仕事を覚えた少女でも作ることができる些細なものだ。でも。そう思ってリカシェが凝視するものにロディは気付いた。守り袋をつまみ上げる。
「これは妻が作ってくれたものなんだ。といっても結婚する前、お互いに子どもだった時のものなんだけど。初めて作ったからあげるって、お揃いでね」
「奥様の名前は?」
 詰問調になったせいか「え?」とロディは面食らっている。
「名前を教えて」
「ルビナだけど……うわっ!?」
 ロディが答えるや否や、リカシェは彼の腕を掴むと、引きずるようにして小屋の外に連れ出す。呆然としていたロディは何度も躓きそうになっていたが、ようやく体勢を立て直して抵抗し始めた。
「リカシェ!? いったいどうしたんだ。ルビナが何……」
「ルビナさんを知ってるの! 一緒に来て!」
 雷が落ちたかのようにロディは棒立ちになった。その顔から一切の表情が消えたかと思うと、かあっと興奮の色に染まっていく。穏やかな面立ちはきりりと引き締まり、目は燃えて、掴まれていた腕を振りほどき逆にリカシェの方をつかみ返した。
「どこ」
 リカシェは頷き、門に向けて走った。二人分の慌ただしい足音が響き渡る。顔色ひとつ変えない門番も駆けていくリカシェたちに不審を覚えた様子だったが、構っていられなかった。それよりも、体力が少なくなったために萎えそうになる足を動かさなければならない。
 騒々しさとは無縁の街を駆け抜け、路地に入って飾り物屋を目指す。まどろんでいるかのように静かな人々も目を丸くしてリカシェたちを見送る。その異変に気付いていたのだろうか、最後の角を曲がると、戸締りしようとしていたらしいルビナがこちらに顔を向けていた。リカシェの姿を見ると目を大きく見開き、慌てて駆け寄ろうと一歩踏み出した足は、しかしそこで止まった。
「はあっ……はあ……は……」
 限界まで息を切らせたリカシェが倒れ込みそうになった後ろから、ふらついた足取りでロディが現れる。彼は吸い寄せられるように進み、それを見つめるルビナは、何が起こったのかわからない様子で彼を凝視している。
 その目から、みるみる涙が溢れ出す。彼女自身も理解しないところで、無意識にあふれた感情の発露だったのだろう。あ、あ、と言葉にならない声を漏らし、震えている。
「ルビナ……」
 ロディが名前を呼んだ瞬間、ルビナは弾かれたように駆け寄った。一瞬すら惜しいとばかりに、彼もまた地を蹴った。
 二人は固く抱き合った。青年と老女、夫と妻だった二人は死者の都でようやく再会したのだった。
「ロディ! ああ、あんたなのね!」
「ルビナ。ルビナ……」
 むせび泣くルビナは、夫の首に腕を回した。その腕は白く光り輝き、ほっそりと、だがしなやかな肉に覆われている。まるで年若い娘のようだと思っていたら、緩やかに曲がっていた背骨がしっかりと伸び、しぼんでいた胸は膨らみ、頼りなかった足腰はゆったりとしていた衣服を押しあげる。髪は艶を取り戻し、背を覆うほどの長さになった。その白髪は、やがて目が醒めるような青に染まっていく。
「馬鹿ねあんたは! さっさと冥府の門をくぐればいいのに、あたしがこんな婆ちゃんになるまでぐずぐずしてるなんて!」
「ルビナ、歳をとったんだね」
 抱きながらしみじみ言うロディに、そうよ、とルビナは笑う。
「あんたが死んでから、あたしは未亡人のまま一生を終えたの。村の女の子たちに裁縫を教えて暮らしていたせいかみんな親切にしてくれて、葬式も出してもらったみたい」
「裁縫? あんなに不器用な君が?」
 人生の中で一番面白い冗談を聞いたみたいにロディは泣き笑い、ルビナはなによと言いながら彼の胸をどんと叩いた。
「痛いよ、ルビナ」
「あんたがいなくなって、あたしがどれだけ胸を痛めたと思ってるの。それを思えばこんなの蚊に刺されたみたいなものでしょう」
「それについては、ごめん。本当に、すまなかった」
 少し距離を置いて、ロディはそっとルビナの頬に触れる。
「……君がどうか幸せであるようにと、毎日祈ってた。新しい夫と子どもがいる家庭で笑っていてほしいと思ってた。まさか再婚しなかったなんて思いもしなかった」
「ニルヤに誓いを立てたの。死を越えてもあの人を選ぶ、再婚はしないからどうかもう一度あの人に会わせてください……って」
 そう言って微笑み合った二人の目がリカシェに向けられた。
 リカシェは笑みを返したが、すぐにあっと目を見開いた。彼らの髪と目は青に変わっていき、その足元からは、白い光が天に昇る泡のように立ち上っていく。
「ありがとう、リカシェ」
「ありがとう」
 リカシェは首を振った。
「ニルヤの御力です。私は、何も」
「誓ったのはあたし。紡いだのはニルヤ。でも繋いだのはあなただった。どれが欠けてもあたしたちは再会できなかった」
 そう言って、ルビナはこちらにやってくると、首にかけていた守り袋を外し、リカシェの手に握らせた。
「あなたにあげる」
「僕のも、君に。中身をどうするかは君の好きにしていいから」
 リカシェの手には、ロディとルビナ、二人の守り袋が託された。よく見てみると、彼らが話していたように、ルビナが拙いながらも懸命に手を動かして縫い上げたものだとわかった。
 もう二人を繋ぐものは必要ないと告げられているようで、言葉が出なかった。ロティという名の男と、ルビナという名の女、今世で夫婦として結びついた二人の魂の旅はここで終わる。この先は、また別の、新しい誰かの人生だ。
 すると一瞬、深いところを覗き込んだような遠い目になったルビナが、リカシェに焦点を合わせ、ああ、と吐息をこぼし、微笑んだ。
「あなたは『繋ぐ者』なのね。神と人、生と死、途切れそうになる時間に継ぎを当てて未来に繋ぐ……その役目を忘れなければ道が開ける。ニルヤがそのようにあなたに運命を与えたから」
 長い髪の美しい女性は、戸惑い、眉間に皺を寄せるリカシェに、教師のような口調になった。
「針だけでは穴が開くだけ。糸だけでは沿うだけ。あなたが針に糸を通さなければ、縫われるべきものは縫い上げられない。だからあなたは誰かの願いを叶えるために力を尽くしなさい。願いを叶えられない弱者のために生きなさい。繋ぐのよ、消え去ってしまうものを未来へと」
 迎えの灯火に包まれる彼女は、すでにリカシェの知る彼女ではなかった。冥府の門に足を踏み入れつつあるルビナの目を通して、誰かがリカシェに語りかけている。冥府にいる者、その名はひとつ。
 だが彼女はその名を言わせない。一つのものとして二人寄り添い、手を取り合っていく。灯火ですら同じ色をして、彼らをその場所へ導く。
「さよなら、リカシェ。ありがとう」
「ありがとう、リカシェ。本当に、本当にありがとう……!」
「……さようなら!」
 寂しさを振り切ったリカシェが告げた時、ひときわ眩い輝きが放たれた。
 気付いた時には二人の姿はなかった。残されたのは、彼らを追っていく光の泡。それすら消えてなくなると、路地は深い藍の色になっていた。人の訪れも声もしない夜の時間だった。
 彼らから受け取った守り袋の、きつく縛られていた封を開ける。中身を押し出してみると、黒くて細長い小さな粒がいくつか転がり出てきた。
「……種だわ」
 緑のないこの都市で種を見ることになるなんて思わなかった。大事にそれを元どおりにしまい、なくさないよう首にかける。服の下にしまい込むと、主人の去った店の中に足を踏み入れた。
 店内はいつも通り整頓されている。こういう時のために必要以上のものが置かれていなかったのかもしれない。ルビナがいつも座っていたところには鍵があり、下に何か置かれていた。折りたたまれた古ぼけた紙片だ。開いてみると、流麗な文字で「次の店主へ」と書かれていた。
 恐らくルビナの、それよりもずっと前の店主が書き、引き継いできたものなのだろう。店の主人が冥府の門へ迎えられる度に、次に店主たる資格を持つ誰かがこれを読むのだ。
 だからリカシェが読むべきものではない。ルビナが置いた通りにそれを戻し、店を一度ぐるりと見回すと、扉を閉めた。多分そう遠くないうちに次の店主が現れるにちがいなかった。
 さあ帰ろうと歩き始めてしばらく進んだ時、行く手を誰かに塞がれた。声を上げる前に壁に押し付けられる。運悪くそこは人気のない路地の、あまり明るくない場所で、リカシェは鋭く息を飲んだ。



 

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