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 ――目を開けば、窓の向こうの街は、暗く、青く、沼の底のような暗色に沈んでいる。
(ああ……やっぱり、夢だったのね)
 ここから見える塔や旗は、どれも不揃いな形をしている。平らかな大地に気まぐれに石を積み上げ、迷宮のように入り組んでしまった、砦とも、玩具ともつかない、不安定で不格好な街だ。
 人々は、曇り空が与える濃い影を引きずって、褪せて乾いた道に汚れをこすりつけるようにして歩く。たしなみである帽子をかぶらず身を縮めて歩く老女。路地裏には男たちがたむろし、迷い込んでくる世間知らずの若者から、身ぐるみを剥がさんと待ち構えている。道の角にいる痩せ細った女は、春を売ろうと薄着で立ち、それらを横目に、貴族たちは安穏と毛皮にくるまれて箱馬車に揺られている。
 たーん、と銃声が響く。
 下層にある刑務所で、罪人の処刑が行われたのだ。流れ込む死を恐れるかのように、窓という窓が素早く閉じられたことだろう。
(凍れる要塞。これがエカルトリアの首都)
 街が、季節に関わらず氷や雪で覆われたかのように見えるのは、石の屋根や壁の摩耗した部分が白く浮かび、ひび割れで生まれた影が黒いからだ。年中を通して晴れの日が少ないことで首都周辺は冷え込み、初夏だというのに生き生きとした緑はどこにもない。
 だから、あの夢は、決して実現しない。
「顔色ひとつ変えぬとは、さすが氷の女よ」
 兄王の侮蔑は、リサの白く滑らかな額から滑り落ちた。
 窓から目を離し、埃を落とすような瞬きをしただけの妹に、ファルロスは大きく舌打ちをする。
「分かっているのか、エリーゼリサ」
「――我が国エカルトリアの王家の血を絶やさぬよう、先々代国王であったエカルトーン家のカイルーゼス様と私の結婚をお命じになったのでしょう、陛下?」
 高貴な緑。かつて自分をそう例えたある男の審美眼を信用しているリサは、濃緑色のドレスを着こなし、襟元のレースと同じく繊細に磨き上げられた両手を重ねて立っていた。細かに巻いて左右に一房残し結い上げた茶色の髪は、首を傾けたことで優美に揺れた。
「理由もよく存じております。現在、王位継承権という順序は無いに等しい。短命な王が続いている現状、少しでも正しい血を継いでいかねば、純血の王家は絶えてしまう。しかし、子どもが生まれたとしても、王家の意を純粋に示すものとなるのか、それとも臣下の傀儡になるのかという別の問題が、」
「その口を閉じろ、エリーゼリサ! お前のその賢しいところが鼻につく!」
「ご気分を害したのなら申し訳ありませんでした」
 微笑みを浮かべて、丁重に謝意を示す。宝石を着けずとも、そうして威風堂々と笑み、胸を張る姿を、まるで女王だと揶揄する者もいる。
 兄を始めとした家族は、リサのそういうところを憎んでいた。
「それでは、婚礼の準備は整ったのですね」
 家族は、さぞかし清々することだろう。媚びることもできず、口ばかりが回る、女として欠陥品である娘。ファルロスの周りでは、面白みのない氷の女、と評判だった。
「可愛げのない女め」と兄王は吐き捨てた。あとは花嫁が花婿の屋敷に運ばれていけばいいのだという。何もかもすでに決定されたことなのだった。
 一礼して部屋を後にする。リサにはミアという侍女がついているが、淑女らしからぬところのあるリサは単独行動を恐れずにいて、このときも、ひとりだった。
 足を止める。大きく取られた窓の、冷えた曇天が、曖昧な光と影を投げかけている。
 リサの口元が綻ぶ。唇は春の色となり、白い頬は薔薇色に、豊かな果樹の幹の色をした瞳は、星を散らした天鵞絨のようにきらきらと輝き始めた。この空の向こう、遠い土地を思い描いて。
「ようやく、あの人に会える――」
 裾をさばき、大股で部屋に戻る。自室の引き出しに収めた小袋の中身を手のひらに受けた。緑色の飾り玉(オーナメント)が、微笑するリサを映し出している。
 この辺りの国々では、冬の聖誕祭で、針葉樹を飾る風習がある。聖女を模した人形、星や、翼、こういった飾り玉(オーナメント)を樹につるすのだ。リサの手の中にあるものは、木の実に箔を張った、きんと鮮やかな輝きを放っている。
(ずっと、決めていたものね。あなたにしよう、と)
 そうして座り込んでいると、声が聞こえてくるのに気付いた。飾り玉(オーナメント)を元通り引き出しに納める。同時に、妹たちの来訪が告げられた。
 五歳年下のセレーラとミオールは、ごきげんようと挨拶を置くと、早々と本題を切り出した。
「それで、お式はいつ?」
「いつ発たれるの?」
 娘たち特有の情報網で、リサと退位した元国王の結婚はすでに耳に入っているらしい。
「式はしないそうよ。あちらのお屋敷で司祭様を呼んで、誓いを立てるだけ。相手は退位された方だから、華々しくしては、お兄様が結婚なさるときに困るでしょう」
『抑え』の意味がある結婚に、大きな投資をする意味がない、とファルロスが判断したということだ。
 傍流だったアディントーン家のファルロスが王位に就いたのは五年前。先々代国王カイルーゼスの臣下だった者の即位に、アディントーン家は他家から、純血統であるエカルの一族を蔑ろにするのか、と非難を浴びた。その彼らを抑えつつ、エカルトーン家を尊重するための行事。それがエリーゼリサの結婚だ。
 リサにとってはそれだけではないのだが、セレーラの眉はひそめられ、ミオールは大袈裟に目を見開いている。
「お姉様は王女なのよ。もし他国に嫁ぐなら素晴らしく豪勢な結婚式をする立場なのに、そんな、式すらろくにしないなんて。私たちはどうなるのよ」
「カイルーゼス様はひどい暴君だったんでしょう? お茶に糸くずが入っていたから、女官の首を切るよう命じたことがあるんですって!」
 よくそれらしい噂を聞いてこられるものだと感心する。
「それから、魔女を呼ぶことができるんだそうね。先代の陛下が亡くなったのも、カイルーゼス様が、魔女に王家を呪うようにお命じになったから、とか」
 その瞬間、エリーゼリサの顔つきが変わったことに、セレーラが気付く。
 だが、リサは表情を解き、ため息をついて首を振った。
「あなたたち、おしゃべりもいいけれど、噂に振り回されてはだめよ。もう私がいさめることはできないんですからね」
 セレーラが、はっと笑い飛ばした。ミオールもまた、堪えきれないといった様子でくすくす笑いをする。まだ髪を結い上げていない妹たちは、すでに小さな貴婦人として振る舞っているが、自分たちもまた、父や兄の道具となって結婚させられる日が遠くないことに気付いているのだろうか。
「お兄様や、女官長の言うことをよく聞いて。何かあったら、手紙を出していらっしゃい」
「お姉様も、離婚されないよう気をつけてくださいな」
「そうそう、『氷の女』などと呼ばれないよう、従順になさった方がいいわ。口が立つところや、泣かないところが、可愛げないと言われるところなんですのよ」
 忍び笑いする妹たちに、リサはふっと息を吐いた。
 その途端、妹たちは硬直し、すっくと立った姉から目を逸らせなくなる。
 エリーゼリサの笑みが、刹那、銀空の光を受けた。
「私は、あの方を愛する。そして、愛されてみせるわ」
 少女たちの顔が嘲笑に歪む。
 しかしリサの胸は期待に膨らんでいた。

 馬車に乗り込めば、遠ざかっていく街。凍れる要塞。あるいは、青い牢獄。歴代の王たちが、石の檻を積み上げて、堅牢に我が身を守ろうとしたもの。
 追うように聞こえてきた銃声に、目を閉じた。
 もう振り向かない。戻らない。
 私が愛されない場所には、二度と。
(愛されてみせる――魔女の呪いに、勝ってみせるわ)


 ………… 続きは製本版をごらんください。





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