祝福の冠   
    


 肩を揺すられて目が覚めた。
 顔を起こしたエルザリートは、ぎしぎしと軋む上半身の痛みに呻いた。視線の先には書類が、手元には落ちた筆記具があり、机の前で眠りこけていたことが明らかになっていた。
「お目覚めか?」
 冷えてしまった指先で額を押さえ、声の主に向かって首を振る。
「わたし……意識をなくしていたのね……」
 この一週間ほど、政務が立て込んでいて、その処理に睡眠時間を削っていたのだ。起床した時から眠気はずっと背後にあったが、机について書類を見始めた途端、それが覆いかぶさって、エルザリートをさらったらしかった。
「それで……わざわざ起こしに来たの、エジェ」
「違う。定時報告に来たら、お前が寝こけてたんだ」
 時計を見る。ああもうそんな時間なのか、とげっそりした気持ちで立ち上がるが、うまく立てずに足が震えた。
「あーあー、もう立つな、座ってろ。ちょっと休め」
 そう言って、勝手に鈴を鳴らしてお茶を頼んでしまう。エルザリートは、意識せずに寄ってしまう眉間の皺を揉み解し、次に顔を覆って呻いた。
「頭が痛い……」
「仕事持ちすぎなんだよ。誰かに振れ」
「そういう人材も少ないのよ……仕事を持たせすぎて逃げられたら本末転倒じゃない」
 お茶を飲むのも気を使う情勢だ。食事に関しては、アーナをはじめとした何人かが細心の注意を払っている。この時も、茶器一式を持って現れたのは彼女だった。
「顔色が真っ白ですわ、エルザリート様。暖かいお茶です、どうぞ」
 礼を言って受け取ると、触れた場所から温度が沁みて指が痺れた。一口飲んで、息を吐く。胃の中が温まっていく感覚で、ほっとする。
 エルザリートを案じつつ、摘めるものを置いて、アーナは部屋を出て行った。少し話すのも難しいくらい多忙な彼女は、女官の中で要職につけられることが決まっている。
「こうしていると、つくづくお兄様の有能ぶりを思い知らされるわ……あの人、やっぱり人外だったのね。同じだけの仕事をこなしながら、わたしに構ってたなんて、馬鹿じゃないの」
「まあ、それが唯一の潤いだったんだろ。目の前の人参ってやつだ」
 目が痛む。毎日こういう仕事に加えて、精神的負荷をかけられていたら、確かにどこかおかしくなるだろう。エルザリートが今、口が悪くなっているのなんて、前兆にもならない。
 こなしてもさばいても減らない仕事。訴え。不満。反対に反発。言葉だけならまだいい。それが実際に暴力につながることが恐ろしい。ただでさえ弱っている国だ。自分が受け止め、守ってやらなければならない。
「定時報告は、お茶を飲みながらでいい?」
「報告も審議事項もないから、休憩に当てておけ。すぐに仮縫いなんだろ」
 う、と思わず声が漏れた。
 国王代理であるエルザリートが正式に戴冠する日が決まった。国内の事情が落ち着き、首都が復興してから、と先延ばしにしてきたが、それがついにやってくるのだ。このために、教会をはじめとした組織の連携から、諸官の配置、そして、エルザリート自身の準備が行われている。その即位式のドレスはルブリネルクの権威をかけた一大事業だ、というお針子たちの言葉の重みは理解しているが、それでも立ちっぱなしの上にまとわりつかれ、その状態で書類を読んだりする状況は、疲労が蓄積するのであまり嬉しくない。
 お茶を飲み干し、席を立つ。
「おい」
「眠ってしまったし、もう十分休憩したわ。仮縫いに行ってくる。その方がはやく終わるでしょう? あなたも忙しいでしょうけれど、準備をお願いね。一応、配偶者なのだから」
「……それ、未だに信じられねえんだよなあ……」
 エルザリートは笑う。それで、少し、気持ちが軽くなった。

 エジェは、エルザリートの騎士だったクロエの弟だ。そのクロエが死に、復讐のために襲ってきたエジェを処刑から救ったことが始まりだった。
 エルザリートを憎みながら、命を拾われた借りを返すために騎士となったエジェは、様々な事情を経て、エルザリート側についた。そして、かつての復讐者、虐げられていた騎士など、彼の境遇を美談として活用できると考えた者たちによって、エルザリートの配偶者に選ばれた。結婚式は挙げておらず、その存在も周知されているというわけではないが、結婚証明書は発行されているため、エルザリートとエジェは一応夫婦だ。
 しかし、元は身分の低い家の出身で、なおかつ内乱の混乱によって立場を得たエジェのことを、悪し様に言う者は多い。それでも彼が腐らないのは、もともと持っている気質と、これまでの経験がそうさせるのだと思う。
(彼のそういうところに救われているのよね……)
 苦しい道行きだ。エルザリートの歩むものは、誰かを道連れに、犠牲を払っていくものだと宿命づけられている。市民の望むものと、王宮側が進めたい政策によって、気持ちが引き裂かれることはすでに経験済みだ。
 そうした道を共に歩めと、エルザリートと周囲はエジェに強制した。
 彼はそれを必要なことだからと受け止めたようだったけれど、きっと、本当はもっと平穏な幸せが彼にもたらされるべきだったと思う。
 エジェは現在、新設された騎士団の長として務めてもらっている。比較的人懐っこく面倒見のいい彼は、宮廷式に慣れない騎士たちには慕われてはいるものの、実力のほどで年上の者たちに軽視されているらしいと聞いている。そうしたところもエルザリートが気を回すべきなのだが、すべては『人が足りない』ということに尽きた。結局、助けてやってくれ、と部下になる騎士領出身の者たちに頼むしかなかった。



「女王陛下にはご機嫌麗しく……。この度は、ご即位、おめでとうございます」
「ありがとう。まだわたくしは国王代理だし、戴冠式の日程が決まっただけだけれど、祝福の言葉、感謝します」
 相手の顔が引きつったのを見て、いけない、と気を引き締める。気分が滅入っているとつい攻撃的になってしまう、悪い癖が出ている。
 書類の確認や押印に加え、謁見もまた政務の一つだ。正午の鐘がなるまでの数時間は、この仕事に割くことになっている。予約をした者にはすべて会うという取り決めを敷いているが、どうやら賄賂の気配があった。新王に取り入りたい貴族が、他の者を押しのけて順に割って入るのだ。
 そうして聞かされるのが、語彙の少ないおべっかなのだから、エルザリートの苛立ちも募る。これで、領地を広くしてほしいだとか、誰それと結婚したいので力を貸してほしい、なんて素直な話ならば、さっくり返答できて時間も無駄にならずに済むのに。
「戴冠式で、麗しいエルザリート様のお姿を拝見できることを、楽しみにしております。エルザリート様は龍王家の血を引く者ならではの、華麗な美しさをお持ちです」
「どうもありがとう」
「その様子なら、ご存知ありませんね? エルザリート様は、若い者たちの噂の的でございます。凛々しく美しい立ち姿と差配、そして壮麗なドレスを身にまとった可憐さ……そして、この国のために我が身を捨てた、その結婚……」
 話の向きに鋭さが加わった。エルザリートはゆっくりと瞬きをし、にこにこと、無害そうな笑顔を浮かべる男を見つめ返した。
「前王に対抗すべく、望まぬ結婚をされた悲劇を、我らは重々承知しております」
 表情を凍らせたのを、図星を衝かれたからだと勘違いして、男はそっと側ににじり寄ってきた。呼気が臭ってきそうだ。ねっとりと見上げる醜悪な視線に、なぶられている気がする。
 エルザリートは、これから愚かなことを言うであろう男の顔を、じっと刺すように見る。
「エルザリート様も戴冠なさるのですから、是非とも、ふさわしい伴侶をお選びになるべきでしょう」
 エジェが新王の伴侶にふさわしくない、という意見は、無視できないほど大きい。離婚し、立場と実力を備えた貴族を据えるべきだと言ってくる者は、すべて国政に食い込んだ大貴族たちだ。
 夫すらあてがわれる立場になることを受け入れたのは、エルザリート自身でもある。自分は、オーギュストのように国を担うことはできない。ある程度関わることはできても、飾り物としての価値の方が大きいということも、知っている。そのために結婚と離婚を繰り返すことは、悪し様に言われることがあろうとも、有効な手段であることは認める。
 けれど、自らに捧げられた剣を手放すことができると思っているのか。
「どうか、本当の恋をなさいませ。わたくしが、」
「――刻限ではないが、退出する。気分が悪い」
 わたくしがそれになりましょう、と続けようとした男を、叩き伏せるようにして、エルザリートは真っ直ぐに立ち上がった。豪奢なドレスの裾を斜面に、転がるようにして引いた男は、エルザリートの眼差しに「ひっ」と短い悲鳴をあげ、去っていくのを見送った。
(腹立たしい)
 軽んじられる自分たちが、悔しい。
 わたしたちはあんなにも真剣に、憎み、捧げ、許し、こうして一緒にいるというのに、他の者たちから、そんなもの、意味も価値もないと笑われている気がする。
 愛なのかは分からないけれど、エルザリートはエジェが大事だ。彼に苦労させたくないし、苦労させるならそれ以上のものを与えたい。彼が自分にしてくれたのは、そのことでは代えられないほどのものだったからだ。
 エジェは、エルザリートを許すことはできないだろう。彼の兄を間接的に殺したのはエルザリートであり、それ以外のものを見捨ててきたことを嫌悪されているのも分かっている。今こうしてなんでもないふりをしてくれるのは、エルザリートがこれからどうやってその償いをするのかを見定めるためだ。
 愛してはいないけれど傍にいてくれる、その大きさを、どうして誰も分かってくれないのか。

 鬱々とした気分のまま、戴冠式が近付く。エルザリートの心を裏切って、天候はよく、秋の金色の太陽が、眩く世界を照らしている。枯れて濡れた落ち葉のみずみずしい香りに心を安らがせる暇もないまま、毎日が暗色に塗りつぶされて過ぎていく。
(ああ、これでは、呪いに弱らされていった歴代の王と同じだ……)
 ままならぬこと、望むとおりにならないことに憤り、自責に駆られ、他者に怒りをぶつけるようになり、傷つけることを厭わなくなる。そのことに気付いた時には取り返しがつかなくなっていて、沼に落ちていくようにして、身動きができなくなっている。
(お兄様……)
 オーギュスト、苦しいわ。あなたを助けるためだといったのに、わたしはもうこんなところで音を上げそうになっている。
「――……おにいさま、」
 自分の口がそう言った瞬間に覚醒した。ばっと顔を起こすと、顔を歪めたエジェがいる。
 絞られた灯火。香るのは、鎮静効果のある薬花の甘いもの。寝台のそばに置かれた椅子の上で、うたたねをしていたところを飛び起きた、ここは、エルザリートの寝所だ。
 どうしてエジェが、と考え、そういえば自分が呼びつけたのだと思い出す。夫婦でも寝所が別のままなのは、結婚式をしていないからだ。そうしたことが、彼に対する批判を呼ぶのだと思ったから、こうして来てもらうようにしたのに。
「……寝るんなら寝台で寝ろよ。椅子で寝るのが好きなら止めねえけど」
「あ、ちょ……っ、どこへいくの!」
「疲れてるんだろ。さっさと寝ろ」
 冷たい背中。半覚醒だったところに口走った「おにいさま」という言葉が、彼の逆鱗に触れたことは明白だった。
「……エジェ」
「俺は戻る。付き添ってないと眠れない歳でもねえだろ」
「エジェ」
 何度も呼びかけるけれど、それ以上の言葉が思いつかない。
 縋れない。側にいてとも、一緒にいたいとも言えない。
「エジェ……」
 同じ名前を呼ぶだけなのに、声の調子がどんどん落ちていく。最後には泣くのを堪えているみたいになって、情けなかった。唇を結んでいると、扉に向かっていたエジェが、肩で大きくため息をした。
「…………ったくよお! 弱々しい声で呼ぶなよ! いつも通りつんけんしてろ! 疲れてるからそうなるんだよ!」
「なっ、だって、わたしはね……!」
 あなたのためを思って。
 そう続けることを知っていて、エジェはエルザリートを睨み、容赦なく遮った。
「とりあえず俺に気を使うのやめろ。お前たちの邪魔にならない程度に好きにやるから、余計なことで神経すり減らすな」
「余計なことじゃない!」
「旦那を寝室に呼びつけておいて居眠りこいてるやつに言われたくないな。その上、寝言が『お兄様』だ。……うんざりするんだよ」
 本当のことなので、何も言えない。
 去っていくエジェを見送ることしかできず、寝台に飛び込むようにして横になる。ばか、と呟いたけれど、それは自分にも向かっていたし、エジェにも投げつけたいものだった。
 彼は本当にばかだ。わたしなんかに、此の期に及んで、優しいなんて。

 エルザリートとエジェが寝室で仲違いしたという噂が尾ひれをついて広まったことを知ったのは、エルザリートに関わってくる青年貴族たちが数を増したからだった。おしゃべりな女官が面白おかしく吹聴したようで、二人が殴り合ったとか、そもそも夫婦として満足していないとか、結婚したのはエルザリートがたまたま手を出した挙句責任を取った形だとか、語る者によって内容が異なるのだから、人の願望というものは恐ろしい。
 自分ならあなたを満足させられますよ、と怖気をふるうようなことを言う男を蹴り飛ばし、美しいが頭の中が空っぽな男と引き合わせた貴族に冷笑を投げつけ、そうして潜り抜けた戦いも、エジェが近付いてこないという現実には何の意味もなく、やがて白銀と青と金を用いられた戴冠式のドレスが完成し、エルザリートは、ついに戴冠式を迎えることになったのだった。

 金糸と銀糸の飾り編みが施され、光沢のある布地で作り上げた重厚な裾。身動きするたびに、刺繍と、縫い付けられた金剛石と真珠が輝き、虹色の光を放つ。細い腰を強調し、胸を押し上げて丸みを作り、首と耳には宝飾品を飾る。
 短い髪に翼を模した髪飾りをつける。耳の付け根から生えるそれは、鏡を見ればまるで幻想種の生き物のようだ。
 龍宮もその他の城の建物も修復が終わっていないため、式は、龍宮前の広場に仮設された舞台で行われる。そこにいるのは政権交代劇に関わった者たちが主だが、抽選において選ばれた市民も多数参列している。その他の者たちは、城の外に集まって、戴冠式が終えた後、エルザリートが姿を現わすのを待っているはずだ。
 式を執り行うのは、教会の大司教、ジュレス・ユズル・ファンティリア。この時は杖も介助もなく、しっかりとした立ち姿で、王冠に向き直るエルザリートを優しく見ている。
「ご立派なお姿です」
「ありがとうございます。これも、教会の助けがあったおかげです」
 密やかに言葉を交わす。
 ジュレスが、台座をささげ持った小姓から王冠を受け取った。エルザリートはその場に跪く。
 目を閉じる。
 わたしは王になってしまうのだ、と、冷たいものが波のように押し寄せる。
(美しい飾り物であろう。人が憧れるような、国の象徴となるような……人々の心の中に住めるものになろう)
 その心の中で、汚れていたとしても、美しいものであったとしても。
 本当のわたしがそこにいなくとも。
(そういうものになるための王冠なのだから)
 ふと、エルザリートは目を開いた。
 不思議な風が起こっている。天から、地上に吹き付けるような流れだ。ドレスの裾が慌てたように泳ぎ、同じようにして聖職者たちの導衣や旗も、ばたばたと音を鳴らしている。
「――……っ!」
 空に翼を広げ、風を起こしている竜がいた。
 白銀の竜だ。そして、その背に乗っている者がいる。
 竜はどよめく人々から少し離れたところに降り立った。竜の背からゆっくりと降り立った彼女は、ぱたぱたと裾を払って姿を整えている。
 見たこともない衣装だった。白い衣に、赤い脚衣。その脚衣はかなり幅広で、引きずるみたいに長く、脚が見えない。そしてなにより目を引くのは、上着のように身にまとっている、金襴の衣装だ。眩い光を放つそれは、異国の民族衣装なのだろう。
 裾を引いて近付く彼女を、近衛兵が止めようとする。
 エルザリートは手を振ってそれを止め、目の前に立つ異国の友人、キサラギを、信じられない思いで見上げた。
(どうして……)
 しばらくやってくることはなさそうだと、みんなが思っていた。手段を講じれば連絡を取れたかもしれないが、ようやく平和を得た彼女たちを呼ぶのは酷なことだろうと、そっとすることを選んだのだ。
 けれどこうして来てくれた。それも、まるで図ったかのように礼装らしき格好で。
 キサラギは、エルザリートににこっと笑い、そして、ジュレスを見上げた。
「それ、私が被せてもいいですか」
 指したのは、王冠だ。
 ジュレスはもちろん、頷いた。
 ルブリネルクの血塗られた王冠がキサラギの両手に持ち上げられる。無骨な輪に巨大な青色金剛石をあしらった冠は、何人もの頭上を飾り、汚れた手で触れられてきた。けれど今このときは、その宝冠も、運命を宿した者の手に鎮められて厳かな光を放っている。
 見つめられて、エルザリートは慌てて跪いた。
 そっと、頭の上に重みがかかる。
 両手を添えられて立ち上がり、声が上がってようやく、自分が戴冠したことを知った。
(意外とあっさりだわ……)
 キサラギの乱入のせいだろう。それまでの息苦しい緊張感が消えてしまった。こうして両手を握られたままでいることも、ほっとする。
「――世界の守護者が祝福する」
 だから、キサラギが言った常の彼女らしくない仰々しい言葉を、自然と受け止めることができた。
「あなたたちが私たちを忘れないかぎり、私たちはあなたたちを守る。このことを継いでいくかぎり、私たちはあなたたちの子孫をも守る」
 ぐっと、手を握る力が強くなる。
 エルザリートは理解した。
 キサラギと自分はいつか隔てられてしまう。彼女は途方もない時間を生きていき、自分は短い命を終える。過去は次々に押し流され、世界は未来へ進む。その時に、これまであった数多くの出来事、悲しみや喜びや怒りが消えてしまわないように、彼女たちはここにきたのだ。
 ――忘れないで。
 それが、彼女の願い事であり、エルザリートに差し出された約束だ。
「――……」
 エルザリートは再び跪く。この世界の護り手に畏敬の念を示して。
「――ルブリネルクは、龍の号をお返しいたします。ここは人の国、わたくしたちの故郷であり、あなた方に守護される大地であるために……」
 かすかな驚きが波のように広がる。それがはっきりとした驚愕になるのは、まだしばらく先のことだろう。しかしこれより、ルブリネルクは龍の名を取った、ルブリネルク王国として、再び歴史を歩むことになる。
 これは、世界の守護者が見る歴史の最初の変遷だろうと、エルザリートは一人、ひそかな優越に浸った。


 そして、キサラギがやってきたのは、戴冠式のためだけではなかった。
 王者の外套を脱ぎ捨て、キサラギはどこだ、彼女を探して、と会う者全員に頼み込んで、ようやく彼女を見つけた。戴冠式の祭礼の最中には誰も近づかない、修復途中の工事現場にいたのだ。
 以前キサラギはエルザリートのドレスを指して、重そうで身動きが取れないだろうと言ったことがあるが、確かにこの時のドレスは機動力を最低にしていて、理性が止めなければ、短剣を使ってこの豪奢な裾を引き裂いてしまうところだった。
「キサラギ!」
「エルザ!」
 お互いに慣れない格好のせいか、もたもたと抱き合う。
「突然で驚いたわ! どうしたの、いったい」
「戴冠式をするって連絡をもらって、急いで来たんだ。慌てたよ。この衣装、着るのすごく大変でさあ」
 エルザリートの想像通り、草原の民の民族衣装だという。
「……巻き込まないようにって、いろいろ手を尽くしてもらってたこと、知ってたから、ちゃんと返そうと思ってたんだ。せっかくの式なのに、演出してごめん。でも、無事に終わってよかった」
「演出……」
「筋書きはオーギュストだよ」
 エルザリートは息を飲み込んだ。
 オーギュストのところに、竜人が出入りしているのは知っていた。リュウジという名の、草原の民の姿をした男だ。そのリュウジを使って、オーギュストはキサラギに連絡を取っていたという。世界の守護者がルブリネルクの新女王を祝福する、その演出によって、これからエルザリートの執政が楽になるだろうと言ったらしい。
「エルザのこと、心配してた。かなり無理をしてるって聞いていたみたいだ。最近会えてないし自分も会いに行けないから悩ましいって。エジェが色々言ってるけど、エルザがどう思うか聞きたいって、伝言を頼まれてきた」
「エジェ? どうして彼がそこに出てくるの?」
 あれ? とキサラギは首を傾げた。
「オーギュストとブレイドに、報告がてら、意見を聞きに行ってるって聞いたけど……もしかして秘密だったのかな。まずいな、エジェに怒られる」
 好きにやると言っていたのは、もしかしてこのことがあったから、なのだろうか。
(知らなかった……。確かに、オーギュストは国政に関わってきた人だし、ブレイドも、剣の師としても、騎士たちをまとめることも得意な人物だわ。意見を求めるには適した人材……かなり危険だけれど)
 だから言わなかったのだろう。前王とその側近に関わりが深いと知られれば、エジェに反逆の意思があると騒ぎ立てる者が出ないとも限らない。
「それで、オーギュストの伝言なんだけれど」
「世界の守護者を伝書鳩にする神経、お兄様らしいわ……それで?」
「執政顧問として来てくれないかって、エジェがオーギュストに誘いをかけてるらしい。城に入ることもできないし、式典の出席もできない、こき使われるだけの立場だけど、エルザの助けになってくれって。同じように、ブレイドとヴォルスにも騎士団の相談役として来てほしいって言ってるんだって」
 頭痛と、涙がこみ上げる熱さで、エルザリートは唇を結んだ。
「……お兄様は、なんて?」
「エルザにもしそのつもりがあるなら協力するって言ってる。それを伝えてくれって」
 倒れこみそうになるのを堪える。
 もし本当にオーギュストが手を貸してくれるなら、これ以上ないことだ。情報収集や根回しは彼の方がずっと得意だし、判断も的確だ。エルザリートがつまづいてしまうところを、正しい方向に導いてくれるはず。
 それに加えてランザー兄弟もいてくれるなら、エジェもずっと楽になるだろう。
 反発は大きいだろうし、警戒を怠ることはできないが、それでも、努力する価値はある。
「……あとで、お兄様に手紙を書くわ。教えていただきたいことがたくさんあるから」
 キサラギの顔が輝いた。
「よかった! 余計なことしてるかもなあって心配になってたんだ。もう大丈夫だね?」
 エルザリートは頷いた。
「それじゃあ、そろそろ行くね。あんまり長居すると悪いし」
「また来て。今度は、もう少し長く」
「もちろん。今まではあんまり王国を見て回れなかったし、旅行ついでにまた来るつもり。その時に、この国が明るくなってることを期待してる」
「言うわね。見てなさい。草原よりも綺麗だって言わせてあげる」
 笑ったあと、別れる。
 そして、その背中にふと思いつきを投げかけた。
「ねえ、あなたのところはどうなの」
「うん?」
「戴冠式じゃないけど、式、するのではないの?」
 遠まわしに言ったせいで分からなかったらしい。どういうこと? と聞き返される。
「結婚式。しないの、あなたたち」
 キサラギは目を丸くし、何か言いかけ、みるみる真っ赤になりながら口を閉ざした。それはぁ、と間延びした口調で、どう誤魔化そうか考えているようだ。
 彼女たちは彼女たちでいろいろあるのだな、と自らのことを棚に上げるエルザリートだった。恋人同士という甘さはなく、夫婦という親密さでもなく、もっと深いところで結びついている二人には、普通の人々のように結婚式を挙げるというのは違和感があるものなのかもしれない。
「もし挙式するんだったら、呼ばないと承知しないから」
「わ、分かってる……ごめん……」
「仲が悪いってわけじゃないんでしょう? ちゃんと話し合っている?」
「いや、最近……って、それエルザに言われたくないんだけど!?」
「まあ、それもそうね……」
「それじゃ行くから」とこれ以上詮索されないために、顔を赤くしながらキサラギはそそくさとそこを後にする。エルザリートは「また」と手を挙げ、キサラギも「またね」と手を振った。

 その後も色々あったが、キサラギと再会したことが一番大きかったせいで、戴冠式当日だというのにすでに記憶が褪せている。深夜になってようやく部屋に戻ったエルザリートは、椅子に座り、顎をあげるようにして眠っているエジェを見て、くすりと笑い声を漏らした。
 慣れない彼には、今日は相当気苦労したことだろう。そして寝室に押し込まれて、律儀にエルザリートを待っているのだから、本当に優しい人だ。
(毎日少しずつ変わっていくわ。この国も、わたしたちも)
 だからこの関係も変わるのだろう。エルザリートが、最初にかける言葉を間違えなければ。
 なんと言おうか。どう言えばいいだろう。なんだそれ、と顔をしかめることが想像できて、エルザリートは一人で笑っている。
(やっぱり……あなたのことが結構好き、ってことから、かしらね?)


 ――ルブリネルク新王国、女王即位。
 そして、その王配による騎士団の歴史の始まりでもあった。

    


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