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 彼女自身、異変に初めて気が付いたのは、そう最近のことではない。かなり早い段階で、おや、と思ったという。
 揺り籠のなかで昼寝をしていたコウセツが目を覚まし、声を発した。それくらいは、特別変わったことではない。独り言のようなものだから、ああ起きたのか、とリーファは揺り籠に近付いた。
 そのとき、周りには誰もいなかった。他の乳母は一時的に席を外していて、何か用事はないかとコウセツの顔を見がてらやってくる女官や侍従たちもちょうど絶えていた。部屋の外には護衛官がいるが、顔を見せるのは取り次ぎがあるときくらいだ。ゆえに、室内には、眠っていたコウセツと、肌着や防寒具の点検をしていたリーファだけ。
「……うぅあ。…………あきゃっ、うあー、きゃっきゃっだぁあっ!」
 コウセツは、リーファが覗き込むより早く、甲高い声で笑い始めた。
 あまり不機嫌なときがないコウセツだが、誰もいないのに突然笑い出したのには、さすがに度肝を抜かれた。しかもその笑い方は、目の前に誰かがいて、あやしてくれるのに反応した嬌声によく似ていた。
 揺り籠の周りには誰もいない。さっと振り返ったが、元より自分以外の姿はない。
 では、コウセツは誰に向かって笑っているのか?
 少し気味が悪いと思ったものの、リーファはそっと揺り籠を覗き込む。何かあっては乳母として示しがつかない、様子を見るべきだと思った。そして、むにゃむにゃ言っていたコウセツはしばらく黙ったかと思うと、覗き込んできたリーファに向かって、満面の笑みを浮かべたのだった。

 赤ん坊は、ごく稀に、大人に見えないものを見て反応することがあるとは、アマーリエも知っていた。不明瞭な言葉で「部屋の隅におばあさんが座っている」などと言った友人の従姉妹の話など、大抵幼児期までの力のようだとも聞いたことがある。
 そして、リーファもまた、よくある話のように、コウセツが赤子特有の特別な目でもって、見えないものを見ているのだ、と理解した。
「御子様のような反応は、他の赤子でも起こりうることだと、わたくしも乳母たちも知っています。ただ、御子様の場合……」
 言い淀むリーファに、アマーリエは身を乗り出し、キヨツグは口を開く。
「聞かせてください」
「ありのままを述べよ」
 リーファはこくりと頷いた。コウセツの不思議な言動は、それだけに止まらないのだという。

 やはりコウセツは特別な子どもなのだろう、と、見えないものを見る能力について、乳母同士で共有してから、そう経たないある日のこと。
 乳母の一人が、調子を崩していると報告してきた。遠縁に、金の無心に来る者がいるのだが、普段両親が追い返しているその者が、彼女の婚家を突き止め、押し掛けてきた。追い返すと、今度は義実家に行ったのだそうだ。義父母は気の良い人たちで、金銭を渡してしまった。乳母とその家族は、義両親や夫にひたすら申し訳なく、遠縁の消息を追ったが、借りた金を返す気はなく、現在揉めている最中だという。
 非常に個人的な事情を聞いてしまって、悪い気がしたリーファだが、乳母に採用されるに当たり、身辺調査が行われているので、天様と真様はご存じだと彼女は説明した。
 しかし、心労ゆえに寝不足が続き、実家と義実家と話し合いが連日続いているため、ゆっくり休めていない。このままでは本当に体調を崩し、御子様のお世話に影響が出てしまう。それに万が一、遠縁の者や、同じように金の無心に来る者が現れたらと思うと、とても心が休まらない。
「御子様が少しずつ大きくなられるのを見守るのを、楽しみにしていたのですが、このままではお役目を退いた方がよいかもしれません……」
「大変でしたのね。休めていないのは辛いでしょう。お役目は退かずとも、一月ほどお休みをいただくのはいかがですか? その間、代わりの者を手配していただくようお願いしましょう。せっかく乳母に選んでいただいたのですから、辞してしまうのは勿体ないと思いますの」
 瞳を潤ませる乳母を励ましていると、もう一人の乳母が「御子様?」と驚いたような声を出した。
 離れたところで遊びに興じていたコウセツは、両手足で這ってきて、乳母の顔を覗き込むようにしてくる。衣服を掴みながら立ち上がり、不思議そうな顔をするので、乳母も泣き笑いの顔になった。
「どうされましたか? もしかして、乳母やをご心配くださるのですか?」
「うぅあー」
 コウセツは、にこっと笑って、小さな手で乳母の腕をとんとんと叩いた。それは、乳母たちが泣く彼を、あるいは不機嫌な彼をあやすときのそれだ。まあなんて可愛らしい、お優しいお子様なのだろう、とリーファたちは笑み崩れた。
 だがそのとき、不思議なことが起こった。
 コウセツが乳母を励ました途端、彼女がまとっていた「何か」が、ぶわり、と霧散したのだ。
 実際に風が起こったわけでも、光を発したわけでもなけれど、リーファにはそのように感じられた。それまで誰も、本人すら気付いていなかった見えないものが、コウセツが触れることによって消えた。そんな風に。
 何かが起こったことは、乳母も感じたようだったが、リーファほどでなかったようだ。ただ後に、コウセツを抱き上げたとき、ずいぶん身体が軽いし、頭のなかがすっきりした気がする、と思ったらしい。そしてその日は、それで終わった。
 事態が動いたのは三日後だ。
 晴れ晴れとした顔で乳母が「聞いてくださいますか」と声をかけてきた。
 なんでも、問題の遠縁が捕縛されたらしい。仲間とともに、モルグ族の領域から木を切り、伐採したそれをリリスに運んで高額な値段で売り付けた罪だが、領域侵犯の罪が重く、また、次から次に余罪が明らかになっていることから、二度と世の中には出てこられないだろう、と言うのだ。
「けれど、それだけではないんです。いままで当家の遠縁を名乗っていましたが、実際には血の繋がりがなく、縁も所縁もない他人だったんです」
 犯人は「遠縁」を名乗り、顔があまり知られていない親類に成り代わり、彼女だけでなく多数の人間を謀る詐欺行為を働いていたらしい。すなわち、彼女は被害者であり、遠縁と名乗る人間に血縁関係はなく、その行動によって周囲の人間に被害が及ぶ可能性はなくなったのだ。
「まあ、まあ! それはよかったこと! これからも御子様にお仕えできますね」
 リーファは彼女の手を取って笑い、乳母も微笑みを浮かべた。
「聞けば、その者はわずかばかり呪(まじな)いを使う者だったそうなのです。話し相手に、吹き込んだ嘘を少しばかり信じやすくするのだとか。どうやらわたくしや家族のように呪いにかかりやすい人間を騙していたようでした」
「まあ。それは……」
 リリス族の使う呪いは、主に神職に携わる者が使う者とされる。神官や巫女に備わった力、俗に第六感や霊感と呼び表されるものを利用したものだというが、その力はほとんど秘されていた。公になっているもので有名なのは巫女ライカの夢見の力だったり、勘が鋭かったり、占いができたり、というものだ。
 詐欺を働いた者は、自分の言葉を信じさせやすくする呪いを用いていた。力を持つ者は大抵神職に就くか、占術師や治療師として師に付いて学ぶが、時々自らの能力を己のためだけに行使して悪事を働く輩がいる。それゆえに力を持つ者は差別の対象となりがちで、俗世と深く関わらない生業に就く。奇妙な循環だ、とリーファは思う。
 乳母はわずかに表情を曇らせながら、そうっと様子を伺うように言った。
「ですから、わたくし、もしかしたら御子様に助けられたのではないか、と思っていて……」
 彼女もまた、コウセツが見えない何かを見ていることに薄々気付いていたらしい。そしてもう一人の乳母も、やっぱり、と目を見張って同意したのだそうだ。
「リーファ様に悩みをお話しているとき、御子様がいらして、わたくしに触れられた瞬間。なんだか不思議な感じがしたのです。急に縛めを解かれたかのような。視界を遮っていたものを取り払われたような。ですから……」
 コウセツは、能力者なのではないか。
 そう彼女は言い、ぎゅっと唇を結んで、役目を辞したい、と話したのだった。

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