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 土牢というものを、初めて見た。土と何かが腐敗する匂いがしてとても衛生的とはいえない環境だ。だがその中に自分がいるとは思いもしなかった。なんてことだ。呟きが洩れた。なんてことだ。がくがくと震えが全身に走り、壁にもたれ、座り込む。
「なんでなんでなんで」
 爆発的に広がった感染症は、この小さな大陸の勢力図を書き換えようとしていた。ヒト族以外の種族に感染するそれは多くの犠牲者を出し、種族間の戦いは停止せざるを得なくなり、彼らはヒト族に助けを求めた。そしてルーイは密命を帯びた一人として、リリス族の支援のために草原にやってきていた。
 どうしてわかってくれない。どうしてわからない。
 アマーリエ。みんなが君を求めている。それが正しいのだとどうしてわからない。
「なんで、どうして……なんで、なんで……」
 誰よりも、君の父よりも夫よりも君を求めているのは僕なのに!
「リリス族よりヒト族が劣っているわけがない。リリス族にヒト族がいて幸せになれるわけがない。僕が幸せにするのに。僕だけが幸せにできるのに」
 すべて本心のはずなのに、口にする端から乾いた土塊のように崩れていく。想像の中でその土塊を握りしめてぼろぼろにするのは、うっすら涙を溜めてこちらを責めるアマーリエの姿だった。
 彼女は責めた。喜ばなかった。そしてルーイをこんなところに閉じ込めた。暗く、狭い、罪人の場所。
「僕が、間違って……間違って、た、のか……?」
 日の射さない場所で、考える時間は山ほどあった。ともに捕まった医療従事者たちのことを考える余裕はなく、ひたすら自分のしたこと、何を望んだか、何を求めたかを考えた。昼も夜もない場所で、自分を追い続けた。

 ある夜、高級料理店の個室で、グラスに入った酒を見つめながら「アマーリエはきっと辛い思いをしている」とコレット市長は悲しそうな顔をした。
「あの子は強いけれど、まだ二十歳そこそこの娘だ。異種族に囲まれて、慣れない暮らしを強いられて、心身を削らないはずがない。そんなところにこの病気だ。アマーリエを守るためにこちらに連れ帰る必要がある」
 そして市長はルーイにだけ、真実を明かしてくれた。
「実は、市長たちの中に攻撃的な者がいてね……かなり非道徳的な手段を用いたらしい。エリーナ・カッツェという女性を知っているかな、第二都市大学に在籍していたことがあるんだが」
 ずば抜けて賢いが変人だという噂があった人物で、直接話したことはないがいつも楽しそうに振る舞っている女性だった。確か、アマーリエと親しかったはずだ。それを伝えると、市長は目を伏せた。
「実行部隊なるものに強制的に組み込まれて、リリス族長一行を襲ったらしい。そのせいでいまリリス族長はこの病に倒れている」
 リリス族はこの事実を隠しているが、と言われてルーイは驚いた。マスコミはそんな報道をしていない。ネットワーク上も静かなもので、人々は都市の支援や対策について議論めいた一方的な主張を叫んでいる。
 だが、この人が言うからには真実なのだろう。
「ああ、心配しなくていい。そんな惨い真似はもう二度とさせない。だが、君の任務に危険が多いのも事実だ。何かあれば君たちの身が危ない」
「大丈夫です。リリス族はヒト族について明るくない。医療の分野なら当然。発覚するわけがありません」
 エリーナはどうやら失敗したようだが、自分なら上手くやれるだろう。直接戦うわけではなく、ただ時間を稼げばいいのだ。そうすれば準備を整えた市長たちが上手くことを運んでくれる。アマーリエのためなら、できる。
 ここで断ったらどうなるんだろう、という考えがちらりと掠めた。そうすれば、きっと終わりだ。ルーイは得たものをすべて失うし、間違い(・・・)も明らかになる。あの電話(・・・・)のように、震える声で台詞を読み上げなければならなくなる。
(違う、僕はアマーリエのために行くんだ)
「行ってくれるんだね?」
 そう尋ねられて、頷かないわけがなかった。

 間違っていはないと繰り返し呟くと、その脳裏で「でも」という言葉が閃いて、たまらず頭を掻きむしった。自分のしたことが正義か悪かという問いが尽きず、世界から消えてしまいたかった。自分が消え去れば、自分のしたことがすべてなかったことになる、そんな妄想までした。
 もう何日も答えが出ない。すべてが曖昧で暗く影を落していた頃、ルーイに声をかける者があった。
 見覚えがある。アマーリエの護衛をしていた女性だが、名前を知らない。彼女はなんと呼んでいたのだったか。
「あなたにだけはお伝えせねばならぬと思って参った次第」
 どこかで聞いたようなことを前置きにして、彼女は告げた。
「真様は都市に対して特効薬を要求をしました。感染症患者の血液をご自身に輸血され、自らを人質にして」
 時が止まる。
「なん……だって……?」
 ヒト族リリス族間での輸血は、理論的に言って可能だろう。だがそれをやった事例はない。あったとしても広く知られてはいないのだと思う。その上、現在流行している新型感染症を発症している人物の輸血など。
 そんな危ないことを、何故。
「配偶者たる我らが族長をお守りするために、ご自身を犠牲になさろうとしておられます」
「自殺行為だ」
 死ぬつもりなのか、と思った瞬間、ざあっと不快な音を立てたと思うくらい血の気が引いた。
 ――彼女がこの世からいなくなる。
 助けるつもりが、この手をすり抜けて消え去る。それはルーイの思い描く上で、最悪と言っていい結末だった。
「これが何を意味するか、あなたに命を下した人物とともに、よく考えられるがいい。私が伝えたいのはこれだけです」
 そうして彼女は去った。名前も告げずに、ルーイにはその価値もないとでも言うように。
 ルーイは呆然と座り込んで、震える拳を握った。
 ヒト族の血に、リリスの血を入れた。それが何を意味するか。
 つまり彼女にはもう、ヒト族であるという誇りはすでにない。リリスにはなれないとぶつけた言葉に、彼女は何と答えたのだったか。傷つけようと放ったそれを、どうして冷静に叩き切ることができたのか、ようやくわかった。
 アマーリエはすでに心に決めていた。だから他人の言葉に揺らがずにいられたのだ。
「……は、はは……あはは……」
 発作的に笑った瞬間、封じていたものが溢れ、ルーイは頭をかきむしった。
 アマーリエは都市を求めない。都市は彼女の中でもう何の価値もない。
 都市と市長は単純に異種族を滅ぼしたかっただけ。手を汚したくないから、ルーイたちを選んだ。エリーナはその犠牲者だった。きっと彼女も何か弱味を握られたに違いない。ルーイがかつての恋人の妊娠をなかったことにしてもらった(・・・・・・)ように。だから「君のため」と言いながら自分を誤魔化すのに必死だった。
 コレット市長がどう考えたのかも、このときやっと自覚した。もしアマーリエにあてがうなら、自分の言うことを聞く男がいい。その気になれば、アマーリエが父親と一緒にいることを、夫よりも長く時間を過ごすことを疑問に思わず、むしろ推奨するような男が。それがルーイだった。用済みになれた簡単に捨てられる駒。
 ああ、なんという道化だろう!
 しかし道化よりもたちが悪い。ルーイは、リリス族やモルグ族にとって憎き犯罪者なのだ。感染症で多くの異種族が死んでいる。犯罪者という言葉よりもっと悪を示す言葉があるのなら、ルーイはそれに該当する。
「あ、あ……あいして、愛していたんだ……」
 愛していたのだ。歪んだ形であれ、アマーリエを愛していた。彼女の存在は、ルーイが手に入れるはずだった幸福の象徴だった。安定と、富と、栄光。ありふれた幸せと、人が羨むあらゆる幸いは、市長の娘の彼女から享受できるものだった。
 否、違う。
「どうして、市長の娘だったんだ……」
 震える身体から吐き出されたのは、心の底で渦巻いていた問いかけだった。
 どうして君はコレットだったんだ。初めて口に出して、世界に問いかける。
「君が市長の娘じゃなきゃよかったのに」
 綺麗だね。
 共通の知り合いがいて、そいつが授業かなにかで席を外した。その場に残されたのはお互いをよく知らない者同士だった。
 綺麗だね。思ったことをそのまま口にした。
 手持ち無沙汰で会話もうまくなく、気まずさがあって、逃げるように彼女が見上げていた空。
 雲間から下りる真昼の光。雨が遠ざかり、光が射す。目を奪われて、その風景を心楽しんでいるとわかったのは、ずっと彼女を見ていたからだ。
 ああ、この子はそういう、世界が美しく移り変わる様を、その場にいる人々よりも愛しているのだ。
 だから「綺麗だね」と、そう言った。
 遠くのものに焦がれる君はとても清らかだ。そんな君自身に気付くべきだ。君は愛されていいんだ。こんなにも、君は綺麗。
 ルーイにとっての最初はあの空だ。綺麗だねと告げたあの場面。彼女が市長の娘だとは知らなかった。そこにいたのは、裕福な家庭に生まれた大学生の男女で、お互いのことを知らなくて、ちょっとだけ気まずくて、相手が楽しんでいるか不安だった、まだ大人ではないただの二人だった。
 その時間の、純粋で愛おしく、大切であったこと。
 彼女がいなくなって、未来を失ってしまったように思えた。けれど本当の喪失は、彼女が傍らにいないことよりも、その心が遠ざかること、そしてこの世界から消滅してしまうことだった。
 殺しきれない涙と嗚咽は叫び声に変わった。ルーイの選択と行動は、アマーリエを自分の世界から遠ざけてしまった。だからもう、取り返しがつかない。
「ごめん。ごめん。アマーリエ。ごめん、ごめん……!」
 輝き美しかった時間、それまでとこれからの、すべてを失ったことを思い知った。


       *


 異種族を滅ぼそうとしたこと、そのウイルスがヒト族にも感染し多数の死者を出したこと。そして、その運命がたったひとりの少女から始まったこと。ヒト族がウイルス兵器を開発し 唯一、都市を、人を、世界を責めたのが、そのひとりの少女だったこと。
 誰も、責めなかった。誰も知らなかった。すべては秘され、一部の人間のみが握り、外交に転がした。一時それらしい噂が報じられたが、都市政治部の手回しによって噂程度に留まったようだ。
 捕虜だったルーイたち医療従事者は解放されたが、アマーリエに別れを告げられるわけもなく、移送と受け渡しは役人たちによって速やかに進められた。
 都市に戻ったルーイは口止めの形として多くの恩恵を受けた。大学を退学した後は、用意されていた会社に就職し、早々と有力な地位についた。手切れ金めいた高額な報酬ももらったが、まったく手付かずだ。使う気もない。
 けれどもし利用するのだとしたら、新薬を――人を助けるための薬を開発する資金援助、くらいならば許されるだろうか。
 コレット市長は未だ在任中だが、穿ち過ぎでなければ後始末と準備をしているようだった。よりよい都市のためにではなく、リリス族ら異種族と共存するよりよい未来のための政治。一度取り戻した彼女を手放したのだから、アマーリエはきっと、彼のやりようを当たり前に責めたのだろう。
 そうしてルーイは日常に戻った。
 ふと目を止めれば、様々なメディアで都市のこと、リリス族のことや彼らの源流だというドラゴンについてなどオカルトめいたニュースが駆け巡っていたが、意図的に、あるいは無意識的にそれらから目を逸らした。
 大学のかつての友人たちの中ではノルドから頻繁に連絡が来る。以前なら応じた誘いは、ずっと断り続けている。けれど彼は懲りずに誘って来るのだった。
 携帯端末でやり取りをして、それが途切れたとき、ふとアマーリエのアドレスを呼び出すことがある。だが、結局は開くだけで、何もしない。それをする勇気もない。こうして別れることこそ謝罪と決別の証だろう、と自分を納得させる。
 自分には誰も幸せにできない。誰を愛してもいけない。
 出世が約束されたポジションにいるとはいえ、新人の仕事は多い。深夜を過ぎて帰宅したルーイは、部屋に放り投げたダイレクトメールの中に、そうとは思えない真っ白の封筒が紛れ込んでいるのに気付いた。
「なんだ、これ」
 切手も消印も宛先も差出人もないそれを不気味に感じるよりも前に、いますぐ開けなければならないと思った。
 出てきたのは一枚の紙片だ。
 細い字で綴られた文面を読み、震える手で何度も繰り返し目で追い、やがて、床に崩れ落ちた。

「あなたのしたことを忘れません。
 そしてあなたへの仕打ちを決して忘れはしません。
 ごめんなさい。
 どうか元気で。
 さようなら」

 どんな地位や価値があっても、それらはその人の要素でしかない。対するのは、いつも心なのだ。第二都市市長の娘、リリス族長の妻である彼女は最後に、個人としてルーイに手紙をくれた。でも、これがアマーリエ・E・コレットとしての最後だと、認めないわけにはいかなかった。
「さよなら。……さよなら……」
 嗚咽まじりの声が、彼女が目の前にいたとしてちゃんと届いたかどうかは怪しいところだ。しかし、ルーイはずっと忘れないし、覚えているだろう。都市が愛した少女は、それまでの世界に別れを告げたのだ。そしてルーイは、残されたそこで生きていく。



初出:101029
改訂版:200919

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