―― 第 12 章
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 夜遅くにイリアからメールが送られてきた。読まないかもしれないけれど、と前置きながらも、都市の状況を知らせるものだった。
 そこには、都市の上空に未知の生物が飛来し、数分ほど留まった後、姿を消したことについて触れ、ほぼ同時刻にリリス最高機関を名乗る謎の団体の使者による声明が発表されたことを受け、リリス側に確認を取ったことが書かれてあった。
 少なくとも都市側は、キヨツグをロストレコード時代の存在に近しい種族の血を引く者として認識したらしい。それがリリス族にどのような影響を及ぼすか確認した上で対応を協議することになるそうだが、現状、キヨツグの存在の影響力は凄まじいだろうと推測されており、アマーリエに話したキヨツグへの疑いはほぼ払拭されたはずだ、というのがイリアの見解のようだった。
『だから都市があなたを連れ戻すことはないと思うわ。安心して』
 そう結んであった。
 なお、声明の真偽について尋ねたところ、キヨツグは。
 ――是。
 と、それを肯定しながらも多くは語らなかったそうだ。
 父の反応については書かれていなかった。きっとあの人は表に出さなかったのだろう。父にはそういう、娘のアマーリエにも何を考えているかわからないところがあった。携帯端末の契約を解除することなく、けれど何の連絡をしてこないということも、理由がよくわからないままだ。
 アマーリエは携帯端末を終了させた。
 誰かに関係を引き裂かれる恐れは解消されつつあることに安心はしたけれど、新たな心配事も生まれてしまった。命山の行動を受けて、キヨツグが何を思ったのか想像がつかなかったからだ。
 いくら想像してもわからないのならば、直接会って聞かなければならない。アマーリエの勝手な行動を断罪してもらうためにも、キヨツグが何を思い、感じたのかを知りたいと思った。


       *


 キヨツグの帰還が待ち望まれているために、リリス全体がどこか浮ついた空気の中、その知らせは女官からもたらされた。
「真様、大変です。リオン様が発たれるそうです」
「え?」
 改めてその意味を理解して腰を浮かせた。このままキヨツグが戻って来るまで逗留するものと思い込んでいたのだ。
「そんな。急すぎる」
 まだ認めてもらっていない。それに指環も彼女が持ったままだ。
 支度する時間が惜しい。最低限の身なりだけ整えて、リオンがいるという表庭に向かった。すでに武士たちが支度を整え、リオンの号令を待っている状況だった。まさか出発直前とは思ってもみず、急いで女官たちと手分けしてリオンを探す。彼女は先頭近くで部下と打ち合わせをしていた。
「リオン殿!」
「おや、真殿」
 それに割り込むようにして声を上げると、リオンはこちらに飄々と手を挙げた。せっかく整えた衣装も、裾を絡げて走ればぼろぼろだ。肩で息をするアマーリエを、凛と涼やかに輝く目でリオンは見下ろしていた。
「もう発たれるって……」
「ええ。そろそろキヨツグも戻るでしょう。その前に私も行こうと思ってね。ああそうだ、これを」
 リオンは無造作に首の紐をぶつりと切った。そこから転がり落ちた指環をアマーリエの手のひらに乗せる。
「あなたが取りに来ぬなら持って行ってやろうかと思いましたが、来たのだからおとなしくお返しする」
 恐る恐るそれを指にはめた。そこにほっと熱が灯ったように感じられて、心の底から安堵の笑みが漏れた。
「ありがとうございます……」
「礼を言ってどうする。私が元凶だろうに」
 呆れた様子だがちっとも悪いと思っていない口振りだ。そこで笑えてしまったのは、やっと指環が戻ってきた安心感のせいだろう。微笑んで首を振った。
「いいえ。リオン殿には感謝しています。あなたがいなければ、私は命山に行こうなんて思わなかった。行動を起こさないまま、不安ばかりに囚われて無為に過ごすだけだったと思います」
 心の中にどのような思いがあったのかみないふりをしたまま、悲しみと苦しみをキヨツグにぶつけるだけだったかもしれない。自分の醜いところを隠したまま、もっと汚く愚かになっていただろう。
 行動した自分を、綺麗だとも真っ直ぐだとも言えないけれど、少なくとも何もしなかった自分よりは胸を張っていられる。
 そんなアマーリエをリオンは静かに見つめ、不意ににやりとした。
「まあ、感謝してくれても良いですよ? 私があなたを命山に連れて行ったおかげで、あなたやキヨツグにとっての不安要素が取り除かれたでしょう。小うるさい愚か者どもがキヨツグを族長から引きずり下ろすことはなくなるはず」
 アマーリエは目を瞬かせたが、すぐにしれっと言い返した。
「それはリオン殿もでしょう。その小うるさい人たちがまとわりついてくることがなくなって、清々していますよね?」
 族長に担ぎ上げられることをリオンは厭っていたのではないか、という推測を元にした発言だが、これを聞いた当の本人は大笑いした。
「まさしく! 阿呆どもに担ぎ上げられて言いなりにさせられるのも御免だし、そもそも族長なんてしち面倒臭いものを誰が好き好んでやるものか。キヨツグのような変態ならともかく」
「変……」
 それはさすがに言い過ぎでは、と思ったが、リオンは翻すつもりはないようだったので、それ以上聞くとどう反応していいのかわからないアマーリエも黙った。
「……いつか、もう少し話が出来れば良いな」
 ぽつり、とリオンが漏らした。彼女は微笑んでいた。
「キヨツグは気に食わんが、あなたはなかなか面白い。また飲みましょう。それまでに下戸をなんとかしておいてくれ」
 下戸だということを誰が言ったのだろう。背後に目をやると、女官たちが何人かそろっと目を逸らした。きっと酔いつぶれたときに口に出してしまったのだろう。それを見てリオンが大笑いをする。高らかに響く、気持ちのいい笑い声だ。
 そして、ああ、ともう一つ呟いた。
「そういえば、聞きたいことがあったのだった。なあ、真殿。恋とは素晴らしいものですか?」
 面食らって、まじまじとリオンを見つめてしまったアマーリエだった。
 彼女の微笑みには、優しく真剣な意思が宿っている。リオンにとって何か意味のある問いなのだとわかった。
 そうして考え、首を振った。
「わかりません。でも、恋に出会えば、出来なかったことを出来るように錯覚してしまうようになりました。それまでと違った自分を知ることになるんです」
「リリスに来る前といまのあなたは違う?」
「はい」
 彼女のような人と話すこともなかっただろう。噂も敵意も悪意も、守りたいもの、守られること、己の醜さと、抱いている本当の心を、知ることもなかっただろう。その変化を喜ばしく思う。生きている。一時も同じものはない。変わっている。
 以前のアマーリエと聞いて何を想像したのだろう、リオンは笑みをこぼす。
「あなたはリリスではない。だがリリスであろうとしている。容易に乗り越えられるものではなかろうが、あなたの気持ちはわかった。だが覚えておかれよ。道がひとつしかないときもある。そのときの障害を、世界や、運命や、物語と言い表す」
 生命の道筋を決める至上の力を、リオンはそう表現した。
「道がひとつのときは、どれだけ目指すものに近付けるか、何をすれば最良の選択となるかを考えるがよろしい。自身の望みに忠実なまま、善き道を、選ばれよ」
「……はい」
 アマーリエの答えを受け取って、リオンは腕を掲げた。
 控えていた武士たちが一斉に動き出して馬上の人となり、先発が門に向かって動き始めた。リオンも愛馬に騎乗した。
「姿や血は違えど、あなたは我らが真夫人。あなたの愛情の理由は、もう問わないでおこう。あなたの生き様を楽しみにしている。壮健であられよ、――」
 囁くような声が紡いだ呼びかけに、驚いて呼び止める間もなく、リオンは馬を駆って行ってしまった。続く軍勢は勢いを増してあっという間に広間を去り、その軍も、瞬く間に地平の向こうへと見えなくなった。
 幻でない証に、砂埃がもうもうと立ち、彼女のまとっていた爽やかな香りとともにやがて消えた。
「……義姉上、かあ……」
 リオンが別れ際に呟いたのはそれだった。そう、アマーリエにとってもリオンは義妹に当たるのだ。
 自分に新しい家族が出来ているなんて、今更ながら妙な感じだった。本当に、もうここはアマーリエの居場所なのだ。あなたが生き、私が生きる国という意味での、故郷。
 今度は名前を呼んでもらえるように、下戸を克服しておこうと決める。
「真様、そろそろ戻りましょう」
 いつまでもそこに立つアマーリエに、女官が声をかけた。返事をして振り向こうとしたとき、アマーリエはつい笑ってしまった。
「どうかなさいましたか?」
「ひとつ言い忘れたことがあったと思って」
 愛情の理由はもう問わない、とリオンは言った。問われたところでアマーリエも彼女を納得させられる確かな返答はできないだろう。でも心は決まっている。
「いつかまた、リオン殿に会ったときに言うよ」
 もし答えるとするならば。
「私は、それでもやっぱり、キヨツグ様が好きです」という言葉以外にないと思うのだった。


 リオンが馬を走らせていると、笑顔の小隊長が馬を寄せてきた。それに答えようとして、リオンは初めて、自分がずっと笑った顔のままでいたことに気が付いた。
「如何でしたか、真様は」
「……市井の娘ならば、あのようなものだろう」
 笑みを消し、咳払いして答える。
 あのようなもの、と辛辣になるのは、リオンが幼い頃、王宮に集められていた大勢の真夫人候補たちを覚えているからだった。彼女たちは家柄も教養も人並み以上に叩き込まれた貴人であり、族長の妻としてふさわしいと感じられるような人物ばかりだった。それに比べると、ヒト族の真夫人はいささか平凡で庶民くさい。
 ただ、健気でいじらしくはある。思い出して笑ってしまうのは、リオンがそれなりに彼女を気に入ったからに他ならない。
「お前はどう思った?」
「一生懸命な方だと」
 すぐさま小隊長は答える。
「姫将軍に向かっていく者はなかなかおりますまい。それを成しただけでも、十分胆力のある方だと感じましたよ」
 あの御前試合を思い出したのか、声を立てて笑う。下位の兵士など、剣を手にしたリオンが現れるだけで竦み上がることをこの男は知っていた。だが彼の訓練が最も厳しくて、兵士たちに『極悪』と陰口を叩かれていることを知っているのだろうか。知っているのだろう、そういう奴だ。
「都市ではそれなりに身分のある家のご令嬢だと伺いましたが、それを感じさせない気安さがありますね。親しくなりたいと思う者が多いことでしょう」
「ふん。それだけで真夫人たることは出来ん。ここはリリスだ。弱き者は間引かれる」
 小隊長は肩を竦めた。お厳しい、というのだろう。
 しばらく馬を走らせながらリオンは思考を巡らせた。キヨツグの意図は、どこにあるのだろう。あの何を考えているか常に読ませることのない族長は、モルグ族に対抗するための共同戦線を結ぶためにヒト族と同盟を成したというが、それだけではないはずという確信があった。
(少なくとも婚姻によってリリスは変わりつつある。キヨツグはリリスに変革をもたらすつもりか)
 ならば、その道はどこまで長く険しいものだろうか。
 過去と現在と未来を夢見るライカは、その先行きについて決して口を開かないだろう。
 川岸に立って流れを見つめるだけのライカ。そこに投じた一石がアマーリエならば、石を投じたのはキヨツグで、流れるものがリリスたち。生み出された新たな流れの行く先を、まだ誰も知らない。
「……私たちはどこに行くのだろうな?」
「決まっていますよ。剣を握れるところです」
 なんということはない、といった様子で小隊長が答え、リオンは破顔一笑した。
 剣を携えた荒れ果てた道。
 それを進むことを許したキヨツグにリオンは感謝していた。常套句として用いられる『厄介払い』だの『追放』だのという言葉はまったくの正反対で、不遇の扱いを受けていると思ったことは一度もない。族長の椅子でも、良家に嫁するのでもない。リオンがリオンらしく生きられる場所を見定め、与えた。関係性に揺らがない冷徹な判断こそ、キヨツグが族長にふさわしいと感じさせる能力だった。
「ならば離さずにいようか、この剣を」
 流れの行く先を知らぬならば、己の望む道を行けばいい。
 それを聞いた小隊長は頬を紅潮させ、頷いた。
 この剣を手に、と告げた声は、やがて唱和されていく。死が蔓延する北の地へ戻ろうとしているのに、彼らに恐れはない。何故ならそこが生きる場所。生を叫ぶ戦場だからだ。
 不器用なことだと、リオンは悲哀をもって前を見据えた。命運を握る指揮官である自分がこのように感じるのは身勝手なことだが、リオンは彼らに道を示すしかない。自分も同じなのだ、戦うことでしか生を感じることができず、それしか能力がない。
「境界へ!」
 そこでしか、生きられない。
 ゆえにアマーリエを気に入ったのかもしれなかった。温かな場所で守られることでしか命を繋げない、要領の悪さを。

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