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 キヨツグが帰還する日が近付いているのを、携帯端末のカレンダー機能で確認する。気付けばメールも電話も着信が減っていた。返事がないから諦めたのだろう。それでも未読は二十件溜まっていた。
 イリアからのメールだけを確認すると、キヨツグの都市での動きが書かれている。訪問は成功に終わりそうだという文面を見て、心底ほっとした。
 彼は都市をどう受け止めたのだろう。あの、ビルの群れ、車の川、薄く煙った空の街。誰しも淡々とやり過ごしているような時間の流れる国のこと。
 そうして、ああ、会いたいな、と思った。空や太陽や風、草や木や花を眺めたときに綺麗だと思うように、自然とその願いが込み上げた。
 携帯端末の電源を切り、アマーリエはアイとユメを通じて長老の一人を訪ねた。ハルイ・トンは長老たちの中では若手だが、キヨツグの不在中は長老の取りまとめを任された人物だ。
 挨拶もそこそこに、切り出す。
「そろそろ天様がお戻りになりますが……一つお願いがあるんです」
「はい。どのようなことでございましょう?」
「私も、お迎えに行きたいんです。境界まで。可能ですか?」
 ハルイは呆れともつかない苦笑になった。
「そう申されるかもしれぬと、天様よりご指示を賜っております」
 アマーリエはぱちぱちと二度瞬きをして、真っ赤になった。
 思い悩むほどアマーリエが醜い欲求を抱いていた相手が、あっさりとこちらを見抜いて準備を整えていったというのが、情けなくも恥ずかしい。しかし笑ってしまうくらい嬉しいのも確かだった。
 それだけに、会うのは少し怖かった。軽蔑されているかもしれない。アマーリエのしたことに怒っているかもしれない。それだけ命山に行ったことは無謀で身勝手だった。出自が明らかになることをどう思うか尋ねられないまま、公にしてしまった。
 ハルイの元を後にしたアマーリエは、部屋には戻らず、そのまま表庭に足を向けた。
 表庭に集まるざわめきは、すべてリリス族だ。数が多いのは遠方からも集まっているかららしい。入りきらない者は街の外にいるという。キヨツグの迎えをするために氏族の代表たちが可能な限り集まってきたのだ。キヨツグの存在はリリスたちにとって、それだけ重く、また崇拝すべきものとなったのだった。
 柱の陰からその光景を見渡しながら、ぼんやりと考える。
 キヨツグが王宮を不在にしてからさほど経っていないはずなのに、色々なことがありすぎた。リオンの帰還。ライカの物語り。命山のこと。コウエイとサオに会ったこと。そして女神と呼ばれるリリスとの邂逅。それらをキヨツグとともに越えていきたかったとも思うけれど、一人で経験したことはきっとこの先、真夫人としてのアマーリエに意味を成す、そのはずだ。
「……何をやっているかと思えば」
 声がして振り返る。少々不自由な足を引きずるようにしてやってくるのは、カリヤだった。
「まったく。あなたのやることなすことは何もかも前代未聞だ」
 文句を言いに来たのか、独り言を呟きに来たのか。よくわからないまでも、迷惑をかけているのは事実だ。
「すみません。でも、キヨツグ様はお見通しだったようですよ」
「その対応に追われているのですよ。あなたはいいご身分ですね」
 アマーリエは首を傾げる。外聞を捨てた態度は、初対面のときとは正反対だ。
「何かあったんですか?」
「だから、対応です」
「いえ、カリヤさんに」
 ものすごい勢いで睨まれた。
 身を引きはしたものの、覚えがないので怖くない。その表情を観察して、本当に苦虫を噛み潰したというのはこういう顔のことなのだろうと納得した。
「いいえ。何もありません」
 そんな、誰が言うものかという顔と口調で言われても、説得力はまるでない。
「恐ろしい方だ、あなたは」
 険悪な表情のまま、カリヤが言った。
「長老方に微笑ましいものとして受け止められ、親しみやすさで官を味方につけ、あのリオン姫まで懐柔し、さらには命山の主まで動かした。あなたのせいでリリスは変わっていく」
 鬱屈した笑顔は、彼の仮面の一部だったらしかった。彼の本質は苛立ちなのだろう。この愚痴っぽい、吐き捨てるような口調だ。
「キヨツグ・シェンという人物は、これまで他人に情を移すことはなかった。敵対している私にすら、残酷な取引を持ちかけながら、次の瞬間にはそれを忘れているような人間だ。なのに、どうして、あなたなんですか。完璧であった族長を不完全に、人間らしくするのが何故、ヒト族のあなたなんですか?」
 アマーリエはカリヤを見つめた。
「……変わってほしくなかったんですか?」
「そうはっきり聞いてくるあなたに腹が立ちますね」
 遠慮がない。だが何を考えているかわからない顔で毒を吐かれるよりかはずっとましだ。
「不変であることで守られるものがあると知っていただけです。そのためには、キヨツグ・シェンは族長として最適だった。最適であるはずだったんです。変わらなければね」
 そうしてカリヤはふと、表庭にいる女官の一人を指した。
「あの女官。あれは天様の昔の恋人です」
「……え。え!?」
 慌ててその姿を探す。
「楽器が得意だったのでよく夜に弾かせていました。ああ、あの荷を運んでいるのもそうです。そうそう、文官の補佐官、あれもですよ」
「カリヤさん」
 まだまだ続きそうな言葉を、呼びかけることで止める。
 苦笑しながら、そっと首を振った。
「そんなことを言っても、無駄です」
 カリヤはさらに不愉快そうに眉根を寄せたが、アマーリエはますます笑みを深めるしかなかった。
 彼の指摘は事実かもしれない。キヨツグの来歴のすべてを知っているわけではないから、彼と付き合いがあり、思いを交わした女性がこの王宮にいてもおかしくはない。けれどそれらはすでに過去のことなのだ。
「愛されているという自負で仰る」
 そうかもしれない。取り返しがつかない、もうあの人しかいないという、逃げ道のような愛のようにも思える。戻れない。進んでしまった。開かれた道を前に行くしかなく、戻ることはできない。過去は過去、現在と未来にしか道はない。
「変わっていくほどに想いが大きくなっていく」
 そしてこの心を止めることはできない。
 確実に訪れる未来に向かう恐れを抱きながら、花は咲く。
「もう、花は咲いたんです。巻き戻すことはできません」
 やがてカリヤは、がしがしと頭を掻きむしり、深く長い息を吐いた。
「変わらないものなんて、ないですよ」
「そのようですね。局面が変わった。ならば動かねばならない。大変に不本意ですが」
 アマーリエが首を傾げると「こっちの話です」と苦々しく呟いた。そうしてアマーリエをぎっと睨みつけて一言。
「この、馬鹿夫婦」
 思いがけないそれを投げつけると、ぽかんとするアマーリエに背を向けた。怒りで地面を踏み鳴らしながら猛然と進み、怒りを吹き上がらせている様は、昔映像で見た機関車によく似ていた。とすれば吐き捨てられたのは苛立ちという煙か。
 瞬きをしていたアマーリエは、やがてお腹を抱えて笑ってしまった。
「あーあ……本当、いろいろ変わってくなあ……」
 涙を拭いつつ、くつくつと身体を揺らして呟く。
 こんなに笑ったのも久しぶりだった。キヨツグが不在にしてから緊張が続いていたのかもしれない。いや、もしかしたらリリスに来たときから心は窮屈な思いをしていたのだろう。
 変化は小さく、でもとても大きくて。
 自分の心の重さを知った。明かせない、明かしたくないという本音が生まれた。
 きっとアマーリエは一生怯えるのだろう。自分を美しく見せることを求め、汚く醜い部分を見られたくないと願い、足掻くのだ。そして歳を重ねるごとに増すそれに繰り返し涙する。それは想像ではなく、確信だった。
「真様……真様だ!」
「ご機嫌麗しゅう、真様!」
 ぼうっと立っているアマーリエに気付いて、見知らぬ武士たちが庭から上ずった声で呼びかけてきた。驚いてしまったが、喜ばれているように感じたので、アマーリエは微笑んで「ご機嫌よう!」と手を振った。

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