―― 第 15 章
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 月の下で交わした口付けは、触れるだけのものだった。
 熱くなった頬と、彼の胸の中に抱かれた身体が、夜気を心地よく感じている。けれど、目を伏せて思うのは、この温もりが、この行為が失われるときのことだった。
(私は、いつまで……)
 まるで月の向こう、時の流れの彼方を見るように心を飛ばしていたとき、それを打ち破る振動音が二人の間で鳴り響いた。
「っ!?」
 いつの間にか床に滑り落ちていたらしい。板敷なので振動する音が凄まじいものとなり、キヨツグはその音とアマーリエの硬直に緊張を漲らせてしまった。
「だっ大丈夫! 大丈夫です、携帯端末が鳴ってしまって……」
 すぐさまそれを拾い上げる。ウィンドウを確認すると、新着メールが一件。ミリアから、感染症の流行の話とアマーリエを心配するものだった。友人たちがみんな心配しているので連絡してほしい、とある。
「すみません、返事を打たせてもらっていいですか?」
「……ああ」
 頷いてくれたので、返事を送った。無事だということ、そちらも気をつけてほしいという簡潔な内容だ。
 送信を完了して、ふと視線を感じて首を巡らせると、キヨツグの淡い微笑みを目の当たりにしてしまった。どうしてそんな顔をされるのかわからなくて、おずおずと首を傾げる。
 すると、キヨツグの長い指が、アマーリエの手の中にある携帯端末を示した。
「……都市では誰しもがそれを手にしているのを見た。機械とは便利なものなのだな」
 アマーリエは赤くなってしまった。玩具に執着する子どものように、これを取り上げられたことを騒いだのはもう一年近く前。キヨツグがそれを取り戻してくれたのも。
「そうですね……普及率はほぼ十割と聞きますし、連絡や情報収拾の手段としてこれ以上のものはいまのところないですから。あんまり使わない機能もあるんですけどね」
 テレビやラジオの受信機能、ストップウォッチなど、あれば便利だが普段意識して使わないものも携帯端末には備わっている。だがそれがあるということは、それらを使用するライフスタイルの人たちも存在することを意味しているので、必要ないと一概には言えない。
「よく使うのは、電話、メール、それからカメラで……」
 そのとき急に思いついたそれに、胸が鳴った。そろりとキヨツグを見る。実行してみたい、けれどあまりいいことではないかもしれない。リリス族の記録を、特に族長の記録を残すのは。
「……どうした?」
 様子を感じ取ったキヨツグに尋ねられ、アマーリエは携帯端末を両手でぎゅっと握りしめた。「なんでもない」と言うことは容易いけれど、縁を求めるいまの自分に、その願い事はとても大事なもののように思える。
「あ、の……」
 些細な、けれど大きなそれを叶えたいと心が叫んで、頭ががんがんしてきた。噴き出した熱で見えるものすべてが光っている。
 その視界で見るキヨツグは、この世に存在することが奇跡のように美しかった。その髪も瞳も、淡い銀色を帯びて、まるで夜の化身のようだ。漆黒の目には月が宿ったようで、綺麗で、眩しくて眩しくて、くらくらする。
 ああ、どうか。
「……エリカ?」
 自分が何を言っているのかわからないまま、震える唇がそれを口にしていた。
「しゃ、写真を一緒に撮ってくれませんか!?」
 キヨツグが珍しく、しかも驚いたようにかすかに目を丸くしたのを捉えて、アマーリエははっとなった。激しい混乱に見舞われて、正常な判断能力を失ってしまっていた。
(私、なんてことを)
 ここでは肖像を残す方法は絵画で、写真は存在しない。そんなもので、族長の姿を記録するなんて、とんでもないと叱られても仕方がない。けれど思ってしまったのだ。
 このときを、この瞬間を。永遠のものにできたなら――。
「……写真」
 そう言って、キヨツグは首を傾げた。
(あ、そこから?)
 がっくり、とアマーリエは床に手をついた。力が抜けてしまったのだ。
 リリスにないものだとわかっていたはずなのに、知っているものと思い込んでいたようだ。完全にアマーリエの空回りだった。
(……二人で撮った写真が欲しいとか、なんてありきたりで陳腐なんだろう、私)
 恋がわからないと言っていた頃が嘘のように、恋愛ごとの定番を踏襲してしまう自分が恥ずかしい。
 でも。でも、やっぱり写真は欲しい。
 項垂れたまま苦悩するアマーリエを見て、キヨツグはどう思ったのだろう。しばし沈黙した後、口を開いた。
「……それが、お前の願いか?」
 アマーリエは顔を上げ、こちらを見守るキヨツグと視線を交わした。口を開いてから何を言うべきかを考えてしまい、動きが止まる。
 言っていいのだろうか。欲しいと、願ってもいいのか。
 彼は辛抱強くアマーリエの答えを待っていた。軽い目眩のようなものを覚えながら息を飲み込み、意を決して、こくり、と首を縦に振った。
「……わかった」
「……えっ」
 躊躇いの感じられない、いつもの調子で返答したキヨツグに、アマーリエはつい声を上げてしまった。キヨツグは緩やかに首を傾げている。
「……私はどうすればいい?」
「あっ、えっと、その、その前に写真というものはですね……!」
 しどろもどろになりながら、風景を写し取るもの、肖像画を作る道具でもあり、それ単体の機能を持つカメラという道具があるが携帯端末に備わっている機能でもある、などということを説明した。
「キヨツグ様はそこに座って……そうです、そうして、携帯端末の、あの黒い丸を見てください。あそこがカメラのレンズになっていますから」
 アマーリエは並んで座って、携帯端末のカメラを起動し、レンズの向きをこちら側に切り替えた。ディスプレイにアマーリエとキヨツグの姿が映る。
「……このように小さなものでも撮影が可能なのか。都市の報道機関が使用していたあれらとは、また違うのだな」
「そうですね、こちらは基本的な機能しか備わっていない簡易版で、報道が使うのはもっと高性能なものです」
 そういう人だとわかってはいたけれど、機械を必要以上に嫌悪したり拒絶したりしないキヨツグにほっとする。改めて端末を掲げて二人の姿が映るようにすると突然肩を抱かれて驚いた。
「……どうした?」
「い、いえ!」
 慣れている、と思ったが、偶然だろう。きっと画面に収まるように気を回したからだ。
 月と星の光を照明にして、シャッターを切った。
 ぱしゃり、という電子音が響き、今日の日付で、二人の肖像が携帯端末に保存された。アマーリエはそれがきちんとデータとして残っているのを確認し、何故か込み上げてきた涙を慌てて飲み込んだ。
「ありがとうございました。大事に、します」
 揺れる声を隠して、必死に笑う。
 そしていつか訪れるそのときに、どうか、この切り取られた瞬間を、未来の自分を癒すための手段とすることを許してほしい。
 キヨツグはそうして、アマーリエを胸に引き寄せた。
「……どのようなものであっても、お前が願う、それだけで叶える価値のあるものだ」
 優しい言葉を聞いて、わがままな自分を反省しながら、目を閉じる。
 小さな機械に収まったデータでしかないそれは、永遠に似ているようだった。けれどこの刹那を愛おしむことは、狂おしいほど幸せだと、そう思った。


       *


 それから二ヶ月が経ち、新型感染症は「フラウ」と呼ばれるようになった。赤い痣が花びらに似ていることからつけられた通称だ。
 予防するワクチンが早々に開発された都市では、全市民に予防接種を義務付けたという。それを受けて、リリス族では、都市の医療チームを迎え入れることが決まった。
 外交官以外のヒト族が足を踏み入れるのは初めてのことだと大々的に報道されていたが、リリス族側は、決められた範囲以外に立ち入ることを断固として拒否し、医療チームが歩き回れるのは王宮のあるシャドの街の周辺と限定した。リリス族側からの反発はあまり大きくならなかった。それよりも、異種族であるヒト族がリリスに踏み込むことを忌避したのだ。緊急事態を宣言したキヨツグに長老家や各氏族の長たちが従ったこともあって、ひとまず収まりはしたものの、同時期にリリス族にも感染者が現れ、爆発的に広がったことは決して無関係ではないだろう。
 医療チームも大規模ではないこともあって、リリス族の要求を飲むことにしたようだ。街の外にはテントが張られ、各地からやってきたリリス族への予防接種が行われるようになった。
 王宮内、シャドに加えて各地から集まってくる者たちに、薬液を投与する注射は、馴染みが薄いこともあって重労働だった。連日連夜、アマーリエは王宮の者たちと力を合わせて動き回り、通常でも死亡率の高い子どもを優先するよう手配し、次に医療関係者や、モルグ族と接する可能性の高い武官、商人、遊牧を生業とする氏族と順序を調整した。発熱し、身体機能が弱っている者は感染疑いということで隔離され、発病した者は別に収容して、看護を受けられるように人を割かねばならなかった。
 多くのリリス族が、ヒト族と彼らの手にする医療機器や器具に怯え、あるいは拒否反応を示した。不安がる人々を前に、アマーリエはそれが安全で、予防のために必要なものであることを必死に、繰り返し説いた。感染率の低いヒト族でリリスに属するアマーリエだからこそできることがあり、やらなければならないことは山ほどあった。
 睡眠時間を削り、食事量が減り、休む時間もろくに取れないまま、それでもあちこちを飛び回ることができるのは、それがアマーリエの役割だからだ。
(だって、立ち止まってしまえば)
 ――そうしなければ、もう二度と、歩き出すことはできないと知っている。

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