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 冬は日が落ちるのが早い。ヒト族を受け入れる際、保守派の意見を取り入れ、出来るだけ都市のものは持ち込むことのないように通達したため、医療チームの荷物、特に医療機器をはじめとした機械は必要最低限の数に留められている。照明も主に火を用いるので、仕事がやりにくいというヒト族の苦情を受けて、日が落ちてピークが過ぎた後は、一つ二つのテントを残して受付を終了するようになった。以前と比べて患者の数も少なくなったので可能になったことだ。
 その代わり、発病者を収容しているテントは常に明かりがついて、医師や看護師が交代で詰めている。感染の疑いがあるようなら深夜でもすぐに来るように布告しているので、夜目が利き、早朝から活動する者の多いリリスでは、患者が完全に途切れるということはなかった。
「皆さん、お疲れ様です。お雑煮を用意しましたので、よろしければどうぞ」
 アマーリエは陣中見舞いとして、都市の医療チームが待機している天幕を訪れた。激務で、ゆっくり食事する間もない日勤のスタッフたちは、お腹が空いたと言いながら、料理人と女官たちが配る雑煮を求めてテントを出て行く。
「ありがとうございます、真様――って、呼ばれてるんだっけ。アマーリエ」
「ルーイ」
 アマーリエがこのテントに自然と出入りできるようになったのは、都市の友人の一人だったルーイがスタッフにいたことが大きい。彼が他のスタッフとアマーリエを繋いでくれたため、双方の意思疎通が思ったよりも楽になったのだった。なんでも、彼が所属している製薬会社がスタッフの一部を派遣することになり、医大生という経歴を買われてここにやってきたらしい。大学は休学中なのだそうだ。
 そんな彼なので、アマーリエがいつも護衛官や女官を連れていることを知っている。大学時代のアマーリエを知っているなら、リリスで最も高貴な女性として扱われていることに違和感を覚えるのも不思議ではない。
「そんな風に言わなくても、柄じゃないって自分でもわかってる。だいぶと慣れたつもりだったけれど、知っている人の前で様付けされるのは、やっぱり落ち着かないね」
 苦笑しながら砕けた口調で言うと、ルーイは楽しげに笑った。彼も疲れているだろうに、アマーリエを見つけるとこうして声をかけて、肩の力が抜けるようにしてくれる。
(成人式のときは様子が変だったけど、いまはそんなことないな……調子が悪かっただけ、だったらいいんだけど)
「そういえば、族長様はご多忙なんだね。最初にご挨拶にみえてから全然姿を見ないけど」
 刹那、アマーリエは動きを止めた。
 そうして、意識して困った表情を浮かべ、乱れそうになる呼吸と強張る身体を動かして、普段通りの自分を作り上げる。
「そうなの、忙しいときがないくらい。夜明け前に起きて、深夜過ぎに戻ってくるのが日常なんだよ。さすがにこういうときくらいは、自分を大事にしてほしいんだけど……」
「仕方がないね。立場があるとどうしても時間が足りないと思う。アマーリエのお父さんもそうだよね」
 肩を竦めるルーイに同意の微笑みを返して、アマーリエはテントを後にした。集まって汁物を食べている人々の中に、医療責任者の一人を見つけて、何か必要なものはないか尋ねる。特にないとのことだったが、入り用ならリリス族の医官に言付けてほしいと言って、王宮に戻った。
 明かりの絞られた廊下を進み、人の寄り付かない王宮の奥の奥、静まり返ったその場所にある離宮の前まで来て、足を止める。後ろにいたユメを振り返ると、彼女は心得たようにその場に跪き、待機の姿勢を取った。それを見届けて、アマーリエは一人で先に進む。
 足元が不安定になるくらいに薄暗い廊下を行くと、最奥の部屋の前にはリュウとシキがいて、やってきたアマーリエを硬い表情で迎えた。
「真様」
「お疲れ様です。……容体はどうですか?」
 アマーリエが尋ねると、リュウは疲れた顔で首を振った。
「高熱が下がらないままです。かろうじて意識はございましたが、先ほど眠られました」
 答えを聞いた途端に息苦しさを覚える。この二人と共通する緊張感だ。
「そうですか。……しばらく私が看ていますから、二人は休んでください。何かあったらすぐにお呼びします」
 父子は似たような表情で頷き、その場を離れようとしたが、シキが思い直したように戻ってきた。
「やっぱり、僕が看ているよ。アマーリエは無理しないで。毎日動き回っている君も疲れているはずだ。自分を大事にしてほしい」
「私は大丈夫。患者の看護は私がした方がいいもの。シキは他の人たちのこと、お願い」
「自分の顔色に気付いていないからそう言えるんだよ。看護よりも休んだ方がいい」
 案じてくれているとわかるけれど、アマーリエは断固として譲らなかった。
「お願い、やらせて」
 そこに、かつて役目を果たすことに思い悩んでいた少女はいない。
 シキはかすかに眉をひそめ、痛みを堪えるように目を伏せた。
「……一時間だけだよ。僕たちはすぐ隣の部屋にいるからね」
 譲歩を聞いたアマーリエは頷き、シキを見送って、彼らが守っていた奥の部屋の扉を開け、中に入ってすぐに閉ざす。
 広い板張りの室内は、急ごしらえの寝室になっている。看護のために必要な道具や薬の類を収納する戸棚と、大きな寝台が目につくだけの殺風景な部屋だ。締め切られた部屋の空気は篭っていて、解熱剤の苦い匂いがかすかに漂っている。
 アマーリエは音を立てないようにしながらそっと寝台に近付き、そこに眠る人の顔をじっと見つめた。
 荒い息を吐き、高熱で眠りが浅いのか、目蓋を閉じながらも何かを見ようとするように目が動いている。緩められた袷の首元には、血の色の桜を散らせたかのような発心があった。
 花びらのような痣は、フラウ感染者の特徴だ。
 どうしてこの人が、と思う度に、アマーリエはそこに崩折れて泣きそうになる。
「――キヨツグ様……」
 アマーリエのどんな声も拾ってくれる人は、いま、死の淵にいる。
 こんな弱り切った声、誰にも聞かせられない。ただでさえフラウの感染が広がり、ヒト族が滞在しているいま、族長が死に直結するような病に倒れたことはできるだけ伏せておきたいというのが、族長不在の長老家や氏族の長たちの総意だったからだ。アマーリエには族長の代理人としての振る舞いを求められたが、なんとか状況が回っているのは、その役目を託した長老たちの助力があってのことだった。
 アマーリエは目尻に浮かんだ涙を拭って、キヨツグの額や首、胸元の汗を拭って、水に濡らした布でそっと顔を拭った。その冷えた感触が心地よかったのか、わずかに呼吸が静かになるが、すぐに苦しげで辛そうなものに戻ってしまう。
(腕の傷……そのせいで、こんな)
 リリス族の体質、そして彼自身の高い治癒能力によって、襲撃を受けた際の傷は跡も残らず塞がった。だがそのときに恐らく病原菌となるものを取り込んでしまったのだろう、とリュウは診断した。発症までに時間がかかったのは、キヨツグの血が抵抗を試みていたためで、推測するに北部戦線から帰還した後、彼はどこか調子を崩していたのではないかとも。
(でも、私は気付かなかった……気付けなかった!)
 写真を撮ったあの夜。
 それが二人きりで過ごした最後だった。キヨツグは多忙を極めた末に病に倒れた。アマーリエはそれを秘匿するために、必死に泣くのを堪えながら動き回っている。むしろ、その場で泣き叫ぶことのないように忙しくしているのだ。
 まるで息を継ぐようにして、キヨツグの元にやってくるのがアマーリエの唯一の休息時間だった。眠るときはいつも怖い。けれどこうしてキヨツグが、辛そうではあるけれど呼吸をして、高熱を発して病と闘っているのを見ると、彼がまだここにいるとわかるからだ。
 大丈夫。都市の医療チームが来た。キヨツグもリリスの人々も予防接種をしている。食い止められるはずだ。だから大丈夫。キヨツグが戻ってくるまで頑張ろう。ここでアマーリエが倒れれば、誰も何も任せてくれなくなる。キヨツグに寄りかかるだけではないことを見せる機会だ。
(大丈夫、なのに)
 でも、キヨツグの症状は快くならない。
 リュウたち医官は、その原因を、キヨツグの特殊な生まれのせいだと考えているようだった。リリス族としての血が濃いために、普通のリリスと比べて重症化している可能性があるらしい。回復の兆しが見られないまま、キヨツグは高熱にうなされ、意識を保つ時間も短くなっている。衰弱し始めているのは間違いなかった。
 寝台に肘をつき、両手を祈りの形にして、額に当てる。
(お願い。どうか――私を許してください)
 止めようのない時間に押し流されるのは、アマーリエのはずだった。きっと自分は先に逝って、彼に忘れられてしまうことだろうと。なのにいまは置いていかれそうになっている。
(あなたが美しいままでいるのに、私は老いて死に向かっていく、その未来が覆ることに、かすかな喜びを感じてしまった私を、どうか)
 一人の方がいい。置いていかれる方が対等になれる気がするから。自分たちは同じ生き物であることを信じていたいと、アマーリエはこんな死の病にまで縋り付いている。共にいることの喜び、思われることの幸福、触れられる高揚と触れたいと思う高鳴りを知ってしまったから。
「許して、ください……」
 許して。許して許して。ごめんなさい。年老いた自分を見送られるのは嫌。天国というものがあるならそこで長く待つのも嫌だ。この世で生きているあなたに忘れられるなんて我慢できない。
 なんて醜い――。
 許しを請いながら、許されることはないと思う。人間として、医療に携わる者として、考えてはならないことだ。こんな残酷で愚かしい自分を、この思いを、絶対に知られてはならない。一生秘めて、苛まれ続けるのがお似合いだ。
 これはたったひとつの恋。なのに。
 ――美しく咲きながら、愛する人の死を思う残酷さを孕んでいる。
「私を、一人にしないで……」
 答えは聞こえなかった。こんな思いをするくらいなら、醜悪な顔を見られた方がいい、と思った。

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