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 青白い顔に、白粉を塗りこむ。まるで仮面を作るように念入りに。
 頬紅は下品にならないよう自然な色を。口紅はつけているがわからないくらいに薄く。陰気にならないよう髪をまとめあげ、情勢を考えて華美にならないよう、質素で動きやすく汚れてもいい衣装を選ぶ。
 今日は街の外の天幕で手伝いをする予定だ。薄曇りの空の下、アマーリエの世話係を兼ねた女官二人と護衛官を連れて、王宮を出る。女官は、立場的に中堅となったココとそれよりも任期の浅い年若い女官、護衛はいつものようにユメだ。
「アマーリエ、おはよう」
 天幕にある本部に挨拶に行くと、真っ先にルーイが声をかけてきた。診察と予防接種が行われている天幕には、すでに人が集まっている。服装から見ると、どうやら遠方地で放牧を営む氏族らしい。漏れ聞こえてくるに、シャドに行って予防接種を受けるよう通達されたが、それがヒト族の医師たちによるものだとは聞いていない、と言い争っているようだ。
 アマーリエがそちらを見ているので、ルーイが言う。
「早速で悪いんだけど、あの人たちの説得を頼むよ。僕たちのこと、警戒してるみたいで」
「わかった。声をかけてくるね」
 説得を試みるスタッフと、拒絶するリリス族たちに近付いていくと、先にリリスたちが気付いた。だがこちらが何者かわからないようで、不思議そうな顔をしている者ばかりだ。
「どうなさいましたか、皆さん」
 声をかけると、一際大きな声でスタッフとやり合っていた先頭の男性が、不審そうな表情で振り向いた。
「誰だ?」
 その不躾な一言に、背後にいたココが叱りつけるように言った。
「真夫人の御前です。無礼な振る舞いはお控えなさい!」
 彼だけでなく、周りにいた同族らしき人々もぎょっとし、まじまじとアマーリエを見ていたが、「聞こえなかったのですか!」というココの追及にはっとして膝を折る。
 それに慌てたのは、ヒト族の医療チームと、アマーリエ本人だった。
「皆さん、立ってください。膝を折る必要はありません。それよりも、私の話を聞いてほしいんです」
 彼らが何か言って、ますます敬われてしまう前に、アマーリエは早口で、ここで行なっている予防接種について説明した。さらに、すでに発熱などの症状が出ている者は別の天幕へ行くよう指示する。スタッフたちは大人しく耳を傾けるリリスたちと指導者もどきのアマーリエに、かすかな嘲りの視線や笑みを向けて、他の仕事に向かっていった。
 アマーリエの噛み砕いた説明の果てに、リリスたちは、納得はしていないが真夫人からの言葉であることを慮って、渋々ながら予防接種や治療に同意してくれた。説得はしたものの、彼らが従ってくれたのはアマーリエが族長の妻だからだ。キヨツグの存在の大きさを感じずにはいられなかった。
 老齢のご婦人の手を引いてスタッフに託し、一息ついたときだった。
「アマーリエ、ごめん、ちょっと」
 ルーイに呼ばれて、そちらへ向かう。彼は黒革の冊子と青いバインダーを手にしていた。その冊子は確か、リリス族側の医療関係者の名簿だったはずだ。青いバインダーはその写しとして、医療チームが持っているものだった。
「これ、不備があるように思うんだけど、気のせいかな? 名前がない人がいる気がするんだ」
「そうなの? ごめんなさい、私じゃ確かなことは言えないから……持ってきた人が誰かはわかる?」
「ええと、確か、文官? の……」
 ルーイが挙げた名前は聞き覚えがあった。今回の件の担当者の一人だ。
 カリヤは現在責任者の中核を担っていて、キヨツグが倒れたことによって休む間もなく奔走している一人だ。よく嫌味を用いるがそれに見合う仕事はする人なので、こんな不備は見逃さないように思うのだが、今回は何もかもが異例なので、そういうこともあるだろう。
「それだとカリヤさんの管轄だと思う。報告しておくね。教えてくれてありがとう」
「それからこれ。物資の数が……」
 その後もルーイと書類の確認をし、誰に報告して、どのように処理しなければならないかを考えて、説明した。よくわからないという顔をされたときには、わかるように補足を加えた。
「わかった、かな?」
「うん、多分。わからなかったら、また聞いていい?」
「うん。わかりやすく説明できるよう、頑張る」
 アマーリエが頷くと、ルーイはほっとした様子だった。ヒト族とリリス族が協力し合う窓口として、自分たちが細かなことを話し合うのは必然だ。
 呼び声がした。どうやら、先ほどの氏族の長がアマーリエを探しているらしい。何かあったのかもしれない。
「ごめんなさい、ちょっと行ってくる」
 ルーイを残して声のする方へ向かうと、アマーリエを見つけたリリスたちが駆け寄って来た。言い争いをしていた男性の姿もある。
「どうかしましたか?」
「ああ、真様。この度は……」
 何か困りごとがあったわけではなく、ただアマーリエに改めて謝罪と感謝を伝えたかったらしい。不満そうな顔をしている者はちらほらいるものの、致死性の高い病を防ぐことができるなら止むなし、と考える大人が多いようだ。大事そうに子どもを抱えている人もそれ以上に見受けられた。
 お礼を受け取って、彼らを見送ったアマーリエは、天幕に戻ろうとしたところですっと近付いてきたココに行く手を塞がれた。
「ココ? どうかしたの、何かあった?」
「いいえ」
 そう言いながら、彼女はアマーリエに身を寄せて声を潜めた。
「……あの若い医者にお気をつけください。あの男、嫌な感じがいたしますわ」
「若い医者……ルーイのこと?」
 名前を聞いたココは、確信を得たように目を光らせた。
「あの男、真様を何度も呼びつけています。他の者に問い合わせればいいことを、わざわざ真様に、です。まるで気安い仲であることを見せつけたいかのようですわ」
 はっきりと言われて、胸の中に燻っていたものが明らかになった気がした。
 異種族の国で、多忙な任務につき、円滑にいかない仕事に従事する中で、自分よりも事情に通じた知り合いがいれば、それに頼ってしまうのも仕方がないのではないか。そう思っていた。けれど。
 書類の間違いは、アマーリエではなく、医療スタッフに協力しているリリス族の誰かに声をかけた方が確実に修正されるだろう。備品の確認は、アマーリエでなくても担当の者がいる。アマーリエを経由する方が、報告をしなければならない分、手間になる。そういう、何かおかしい、どうして私なんだろう、と思うようなことが連日積み重なっていたのに、見ないふりをしていた。その理由を知ったとき、何か恐ろしいことが起こるような気がしたから。
 アマーリエは顔色を変えたものの、何も言わなかったので、ココは静かにため息をついた。
「……アイ様にご報告申し上げておきますわ。真様はどうぞ、あの男と二人きりになりませんよう、お願いいたします」
 年少者の悪事を見逃すような、呆れ混じりの言い方だったので、こんなときにどこかほっとしてしまい、眉尻を下げて微笑んだ。
「……うん、ごめんなさい。ありがとう、ココ」
 こんなときでも、周りにいる人たちはアマーリエを注意深く見守ってくれている。それに安心してしまったのだった。
 ユメにアマーリエを託して、ココは報告のために、ひとまず王宮に戻っていった。
 アイもまた、忙しく立ち回っている一人だった。彼女は密かにキヨツグの看病もしており、一方で女官たちを差配し、王宮内部の動きに目を光らせている。終わりの見えない日々に、きっと疲弊しているはずだ。快方に向かう様子のない病人の世話を続けていて、さらにそれは感染るかもしれない病気であること、そして病床に伏しているのはリリス族の長であるという状況で、不安を感じないはずがない。
 負担をかけたくない。だからアマーリエがしっかりする必要がある。ふるりと頭を振って、重い感情を振りほどく。
(立ち止まっている暇はない)
 天幕に戻ると、リリス族の医官がやってきて、アマーリエに報告書を渡してくれた。都市から提供された、フラウについての資料だ。
 アマーリエが以前女官たちに説明した、種族間での感染についての内容になっている。目を通していると、今度は医療チームの責任者がやってきた。カートランドという名の、五十代の男性だ。製薬会社に所属する研究者だが、籠りがちな職種という自覚があるようで、鍛えているらしく、大柄で筋肉質な体型だった。
「ああ、読んだのか。ここではメールを受け取ってプリントアウトすることができないから、配達してもらうしかなくってな。こういう状況じゃ速報性が優先されるべきだろうに、一週間前の資料なんだよ」
 アマーリエは曖昧に微笑む。リリスに入る時点で、許可のない電子機器は排除されている。連絡手段としての携帯端末や、情報管理に使用するコンピューターはともかく、リリス族やこの草原の国のことを詳細に報告されるのは避けたいからだ。
 だが、不便であるというスタッフの意見はよく理解できた。研究資料が一週間前なんて古すぎるというのも。
 アマーリエに言っても仕方がないとわかっているのか、カートランドは薄く笑ってすぐに話を変えた。
「報告書を読んだならわかると思うが、誰のものであっても体液には十分注意するようにしてくれ。消毒は十分に行うこと。まあ、ここを滅菌しようと思うなら持ち込んだ消毒液の量じゃ足りないと思うが」
「ご不便をおかけします」
 遮るようにアマーリエは言った。
「皆さんが尽力してくださっていること、とても感謝しています。慣れない土地での任務が負担になっていることも知っているつもりです。できる限り便宜を図るようにしますから、遠慮なく仰ってください」
 ただし、と薄笑いを浮かべるカートランドを、冷たい目で見つめる。
「ただし、それはあくまで、この国の決まりごとを守ってくださる方に限られることはご承知いただいているはず……ですよね?」
 未開の地、と嘲られていることをリリス族が許すはずがないし、アマーリエもまた、その上に立つ者として、勝手な物言いを見逃すわけにはいかなかった。それに彼らの安全のためにも、態度を改めさせなければならない。薬や道具を持っていたところで、大半に剣術や弓術の心得があるリリス族ばかりに囲まれて勝てるわけがないのだ。
 アマーリエの微笑みの裏に感じるものがあったのだろう。少なくとも、控えているユメや女官が底知れない微笑みを浮かべているのは見えたはずだし、王宮から来ているリリス族の官吏たちが帯びている刀剣や、作業用の小刀、もっと言えば患者たちもが当たり前に帯びている武器のことも意識せざるを得なかったはずだ。
 カートランドは笑みを引っ込め、つまらなさそうに鼻を鳴らした。ちょうどアマーリエを見つけたルーイをこちらに呼ぶ。
「おい! 物資の不足分のリストはできたのか?」
「まだです。今日中には完成すると思います。急ぎですか?」
「ああ、なるべく早く持ってこい。ここには足りないものが多すぎるんでな」
 アマーリエに鋭い一瞥をくれて、カートランドは立ち去った。見るからに大柄で力の強い彼に喧嘩を売っておいて、アマーリエはついほっと息をついてしまった。感情に任せて襲い掛かられていれば、ただでは済まなかっただろう。我ながら怖いもの知らずだ。
「……大丈夫? カートランドさんに何か言われた?」
 だがその安堵をルーイに見せるのはよくなかった。アマーリエはすぐさま微笑みを貼り付け、首を振る。
「報告書の話と、注意事項を聞いていただけ」
「そう、ならいいけど。さっき休憩所でコーヒーを淹れてたみたいだから、持ってくるよ。お付きの人の分も持ってくるね」
 ユメと女官を見ると、二人とも小さく首を振った。
「ううん、私の分だけで大丈夫。でも、持ってきてもらうのは悪いから、休憩所に飲みに行くよ。報告書をゆっくり読みたいし」
 アマーリエはルーイと連れ立って休憩所に向かった。その途中、女官にも休憩するように言い渡し、ユメだけを連れて行くようにする。アマーリエに付き添って、手伝いまでしてもらったのだから、そろそろ休ませてあげたかったのだ。途中まで一緒だったユメにも、休憩所の前で待機しがてらしばらく休んでほしいと伝える。ここの出入り口は一つで、不審者が入り込む隙はない。テント内には誰もいないようなので、アマーリエがルーイに気をつけていればいいのだ。
「外でお待ちしておりますゆえ、何かあったらお呼びくださいますよう」
「ありがとう。ユメも少し休んで」
 小さな声で言い交わして、一度別れる。
 ルーイの言うように、テントの外にも漂っていたコーヒーの香りは、もちろん中にも充満していた。胃を刺激する強い香りだ。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
 紙製のコップに注がれたインスタントコーヒーを受け取った。だが口をつけると、あまりの熱さになかなか飲み進めることができない。紙コップ越しにも痺れるような熱を感じる。
 紙コップをひっきりなしに持ち替えるアマーリエを、ルーイは微笑ましそうに見ていた。まるで大学の食堂のテーブルにいるときのような、くつろいだ表情だ。
 けれどアマーリエはあのときとは違って、袖丈の長い、職人が一つ一つ仕上げる衣服と靴を身につけている。高い建物が多くない、吹きさらしの草原の中にある街で、お湯に溶かせばいいコーヒーを飲んでいることに、アマーリエは違和感を覚えた。ルーイの視線がその居心地の悪さを高めて、なんとなく、襟の合わせの部分を触ってしまう。
「その服、綺麗だね。なんだか映画の衣装みたいだ」
 やっぱりみんな一度は、リリス族の民族衣装を舞台装束のように思うんだ、とアマーリエは少し笑った。
「見慣れないとそう思っちゃうよね。私はもう慣れたから気にならないんだけど」
「いま都市で少しずつ流行ってるみたいだよ。リリス族を題材にした映画が作られるし、『異種族間の恋』が流行中だってテレビでも取り上げられてるんだよ。恋愛小説もベストセラーになってた。寿命が違う種族の男女が添い遂げられるのかっていうのがウケてるみたいだ」
 紙コップの中の黒い水面が、びくりと揺れた。
 コーヒーの苦味が強く感じられ、飲み込むとひどく苦しかった。それでも、アマーリエは黙ってそれをすすった。ある程度飲んでしまえば、席を立てる。ルーイに対する義理を果たすことができる。
 でも、それでいいのだろうか。『そのこと』から目を背けたままではいけないと思ったばかりではなかったか。
 無意識に身を竦めるアマーリエに、ルーイが小さな声で問う。
「もしリリスの族長がいなくなったら――」
 それは、不自然なほどゆっくりとした、まるで染み込ませるような囁きで。
「――君は、都市に戻ってくるよね?」
「…………」
 口の中が苦くて、顔が歪みそうになるけれど、浮かべた微笑みは完璧に穏やかだったはずだ。
 正直に答えるなら、現状なんとも言えない、という状況だ。
 今回の件で表立つに際して、アマーリエは、キヨツグの状態を知る長老たちから、後継について説明と相談を受けていた。リリスでは、族長になるのは直系とは限らず、複数の候補者を立てた中で最もふさわしいものを選ぶ習わしがあると聞いている。現在継承権の第一位を持つのは、前族長の実子であるリオン、次いで前族長の妹の息子であるマサキ、その他と続く。
 長老方がいうには、キヨツグの次に族長となるのはアマーリエである、という可能性もなくはないが、最も有力なのは、アマーリエがそのまま次の族長と婚姻関係を結ぶというものだった。
 けれど、どちらにしろアマーリエの答えは決まっている。
「……戻ることは、ないよ。きっと」
 再び政略結婚させられるかもしれないという怒りや諦め、悔しさを覚えながらも、アマーリエはまだ、キヨツグが回復することを信じている。
「戻れるよ!」
 だがそれを打ち砕く驚きが入り混じったルーイの言葉に、アマーリエは目を丸くして息を飲んだ。
「戻れるよ、アマーリエ。諦めちゃだめだ。戻りたいって思わなくちゃ、叶わなくなってしまう」
 必死なくらい勇気付けようとする言葉たちに、ぽかんとするしかなかった。彼はどうして、こんなにもアマーリエが都市に帰りたがっていると思っているのだろう。まるでルーイ自身がアマーリエを戻したがっているようだ。
 コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。アマーリエはそれを一気に飲み干すと、紙コップをゴミ箱に入れた。
「……ごちそうさま。そろそろ行くね」
「アマーリエ」
 ルーイが手を伸ばすことを予測していたアマーリエは、振り向きざまに距離を取った。空を掻いたルーイの手は、戸惑うように彷徨う。さらにアマーリエは、一歩、二歩と後ろに下がった。
 ルーイが何か言う前に、告げる。
「戻るつもりはないよ」
 いま自分が、林立するビルの群れと、大音を響かせる乗用車や、目的地を淡々と目指す人々のただ中にいるかのように、鮮明に言葉を紡ぐ。
「私は、ここで生きていく。あの人が生きる場所が私の世界だって、決めたから」
 顔を歪ませるルーイに背を向けて、アマーリエは挨拶もせずにテントを出た。さらに強い言葉を重ねて、彼との友情にこれ以上ひびを入れたくはなかった。感情的になった自分を恥じて、額を押さえて目を閉じる。
「いかがいたしました、真様? もしや、ご気分が……」
 静かに後ろについてきていたユメに案じられて、アマーリエは首を振った。
「大丈夫。ちょっと立ちくらみがしただけだから」
 行こう、とユメを誘って、袖をまくりあげたアマーリエは仕事の中へ飛び込んだ。

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