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 嵐を予感させるような、妙に静かで暗い夜、アマーリエは目を覚まし、未だ見慣れぬ白い天井彫刻を見上げて、緩やかに絶望した。眠れないはずだった。ここはアマーリエの自室ではなく、亡くなった父の姉マリアの部屋だ。
 コレット家の姫君であったというマリアの私室は、白と焦げ茶で統一されたシンプルな部屋だ。天井や椅子の足、窓枠などちょっとしたところにある彫刻や模様が華やかで、マリアという人の意志の強さとセンスを感じた。恋に夢見る女性ではなかったと想像できたし、スキャンダルだったという駆け落ちも考え抜かれた末の行動だったのだろうと思える。
 そんな部屋を与えられて一日中ぼんやりと過ごしている。唯一外に出られるのは、定期検診と研究調査のために医療施設に行くときだけだ。そのときは必ず警護がついているし、施設内では看護師や医師がすぐそばにいる。逃げ出す機会は見つからなかったが、日によって体調や精神が不安定になるせいで、逃げようという気力は少しずつ削がれていた。
(この部屋のせいだ……なんだか自分が自分でなくなっていくような気がする……)
 妊娠しているのも理由なのだろう、そんな妄想が膨らんで、睡眠が不規則になり、悪夢を見る。どんな内容かは覚えていない、油絵の具をキャンバスに無茶苦茶に叩きつけたような極彩色を見た気がして、目覚めるといつもひどく疲れている。
 ベッドの中で、ふうっと息を吐き、寝返りを打った。
 そして、消したはずのランプが点いているのが目に入った。
(……消し忘れた、わけがない)
 もしそうだとしても、見回りに来ているスーワイが消していくだろう。
 心臓が嫌な音を立てて騒ぎ始める。アマーリエは周囲の気配を探りながら、慎重に身を起こし、ベッドを降りて、後ろを振り返りながらランプのある棚に近付いた。
 ランプの橙色の光の下に、ぼうっと浮かび上がっているのは、赤い革表紙のノートだ。光る金の箔押しが、高級文具メーカーの名を記している。滑る表紙を開くと、手書きの文字が書き連ねてあった。細かい、けれど美しい字だ。流れるようなのに形が整っている。
『素敵なノートをいただいたので、これで日記をつけることにした』
「っ!」
 最初の一文を何気なく読んだ瞬間、アマーリエは息を飲んで、急いでノートを閉じた。
(……日記……誰の?)
 少なくとも、アマーリエが眠る前、ランプの下にこの日記はなかった。部屋のどこかにあった覚えもない。誰かが侵入し、置いていったのだ。丁寧にランプを点けていったのは、アマーリエが日記を手に取るよう意図してのことだろう。
 なら、これを読むべきだ。誰の日記かはわからないけれど、読め、と何者かが命じている。アマーリエはフロアランプを点けると、運んだ椅子に腰を下ろした。ほのかに寒い気がしたけれど、読み進めているうちに気にならなくなった。

 日記は、毎日書かれたものではなく、何かあったとき、書き留めたいことがあったときに綴られる、備忘録、あるいは気まぐれな手紙のような、とりとめのないものだった。
 家庭教師の喋り方や態度を観察したり、好物だというケーキについて描写したり、花の盛りや季節の風を追想したり。かと思えば、友人間の争いをこき下ろし、自らに降りかかった侮辱を、怒りを滲ませながら嘲笑ったりする。
 しかし最後には、心を波立たせたことを反省するように、自らの思いと行動を反省する内容を記している。
『けれど、結局、こうして感情を露わにしたものを書き綴っている私も、同じ穴の狢なのだ』
『私は私自身に誇れる人間でありたい。どんな間違いを犯しても、どのような失敗をしても、後悔しないでいられたら、私はもっと強くなれる』
 誇り。強さ。気高さを思わせる単語が頻出するのは、すぐに気付いた。
(まるで自分に言い聞かせているみたい……)
 意志の強さを持ちながら、自らが弱いことを認めている。揺らぐことのないよう、自制している。そんな印象を受ける。だがページを捲る手は、その単語を見た瞬間、びくりと震えて動きを止めた。
『お母様は「後継なのだから」と言って必要以上に弟を抑圧している』
 ――弟。
 アマーリエの脳裏に、階段を降りてきたあの人の影がちらつく。だとすれば、この日記がこの部屋にあってもおかしくはない、と思う。
 ふと気配を感じた気がして、日記から顔を上げた。部屋のあちこちに滞る闇が、塊となって蠢いているような不吉さを感じて、詰まりそうになる息を意識的に吐き出す。
 最後まで読むべきか、いまになって迷う。
 何を書き残されているのか、知るのが怖い。なんだかとてつもない秘密を暴いてしまうような気さえする。
(私に、何を教えようとしているの……?)
 時計を見やると、もう日を越えていた。逸る心臓を落ち着かせながら、アマーリエは再び日記に目を落とした。日記を通して、書き手の見た景色が浮かび上がる。針を逆に回すようにして、過去に飛んでいく――。

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