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 都市のビルの群れの向こうに沈む夕日をしばらく見ていたが、アマーリエはカーテンを閉めて電灯のスイッチを入れた。マンションの十二階とはいえ市庁舎のように草原を見ることは叶わないから、アマーリエの中ではリリスの国はまだ想像上のものだ。それでも閲覧許可が出た資料から少しだけかの国のことを知ることができているのだから、ましな方なのだろう。
 携帯端末を見ると、従姉のイリアからのメールを受信していた。
 中身は就職内定の報告だった。第一志望に受かったので研修を頑張ってくる、希望のところに配属されてみせるという自信たっぷりの文面に、イリアの快活な笑顔が浮かんで思わず笑みがこぼれた。
 母の姉の娘であるイリアは、まさにアーリア家の女傑の血を体現したような有能な少女だった。弁論大会や絵画コンクール、テニスの大会などで優秀な成績を残してきた彼女だったが、母づてに、どうやら企業に勤めるのではなく公務員を目指しているらしいと聞いていた。だからきっと公務員の中でもキャリアが必要なところに受かったのだろう。
 おめでとうと返信していたとき、扉が叩かれた。
「お嬢さん。すみません、ちょっと確認していただきたいことがあるんですが、いまお時間は大丈夫ですか?」
「あ、はい。いま行きます」
 携帯端末をポケットに入れてリビングに行こうとすると、スーツ姿の人々が段ボール箱を外に運び出すところだった。
 いま自宅にはビアンカ以外に市職員がやってきている。アマーリエの結婚のため、持っていく荷物を確認して運び出しているのだった。
 またその他にも、婚家からの贈り物が詰め込まれた桐箱があちこちに置かれている。これは実家から婚家へ調度品や衣装を持っていくというリリス族の習慣に従ったものだ。しきたりに則り、リリス族長家からコレット家に贈られ、コレット家がリリス族長家へ持っていくというなんとも手間のかかるやりとりをすることになっている。
「お手数をおかけしますが、ひとつひとつ確認していただいてよろしいですか?」
「わかりました」
 一応アマーリエの財産ということになっているので、ビアンカたちの扱い方は慎重だ。机の上に敷いた布の上に並べられた簪の数々を見て、思わずため息が漏れた。
「綺麗……」
 白い石の花があしらわれたもの。藤の花のように飾りが枝垂れるもの。柄に細かく模様が彫り込まれているものなど、さぞ名のある職人が手がけたであろうものばかりだった。しかもそれを収めるのは美しい蒔絵や朱塗りの箱なのだ。ソファの上に並べられている反物は、自然そのものの色合いながらも赤や紫、光沢のある白などがあり、すべての品物がプラスチックや合成繊維とはまったく異なるのが素人目にも明らかだった。
 手を取って眺めてみたいが、迂闊に触れないほど輝いて見える。ビアンカたちも手袋をして扱っているので、アマーリエはただ上から覗き込むだけだった。
 ビアンカはそれらを一つ一つ取り出してアマーリエに見せては、また箱に収めていく。
「トートさん。私が持っていけるものって、これだけなんですよね?」
「ええ。リリス族の国に持ち込めるものは限られていますから、愛着のあるお品でも、搬入後に破棄されてしまうと思います。すみません」
 申し訳なさそうに眉尻を下げるビアンカが言ったことと同じ説明を事前に受けていた。都市のものは持ち込めない。荷造りをする必要はない、ということだ。だからアマーリエは身ひとつで異種族の元へ嫁ぐのだった。
「…………」
 ポケットに突っ込んだままの携帯端末を強く意識した。
 図らずも作業していた市職員の端末が鳴り響いて、通話をしにリビングから廊下へと消えていく。もう一人も玄関の方で応援を呼ぶ声に立ち上がり、行ってしまった。
 残りは、ビアンカ一人。
「……確認は、これで全部なんですか?」
 無意識に声が低くなり、急いで咳払いをする。
 心臓が後ろめたさにどきどきと鳴っている。
「はい。そうです。どうかしましたか?」
「あの箱、見ましたっけ?」
 そう言ってアマーリエは遠くの段ボール箱を示した。
「え? どれですか?」
「あれです。あの一番奥の」
「えー? ちょっと待ってくださいね、確認します」
 ビアンカがアマーリエに背を向け、リビングの奥へ向かう。
 吐きそうになるくらいにせめぎあっている意識がアマーリエに囁きかけてくる。してはいけない。いやでも、このくらいは。没収されるのかもしれないのだし。ポケットを撫でてその中にあるものを確かめる。早くしないと三人が戻ってくる。
 アマーリエはかすかに喘ぎながら携帯端末を取り出し、電源を切ろうとして、手が止まった。
 それは人生で二台目の携帯端末だった。端末の類はしょっちゅう機種変更する人とそうでない人がいて、アマーリエは後者だった。もう何年使っただろう、何度か落としたことがあるので角が割れている。それをオリガやミリアは物持ちがいいと笑うのだった。傷なんてついたらすぐ変えたくなるのに、と。
 そこにはメールや写真、思い出が詰まっている。アドレスがたくさん入っている。記憶やつながりが収められているのだ。
「あ、大丈夫ですよ! 確認済みのものでしたから」
 ビアンカが振り向いて、アマーリエはぎくりとして携帯端末を積まれた箱の陰に追いやった。
「そう、ですか。ならよかったです」
「こう荷物が多いと何が何やらって感じですよねえ。でも自分のものは何一つ持ち込めないのは、少し悲しいですね」
 アマーリエは頷き、手を伸ばして携帯端末をさらに向こうへと追いやった。
「こんな状況だし、何か紛れ込んでもわからないかもしれませんね。こっそり入れてみます?」
 ピンポーン、とインターホンが鳴った。
 ビアンカと戻ってきた市職員たちは顔を見合わせた。再び呼び出し音が響く。
 誰がインターホンを取るべきか。
「……お嬢さん、お願いします。私たちがここにいることは、内密に」
「……はい」
 受話器を上げる。モニターに表示された少女に、アマーリエは目を剥いた。
「ミリア!?」
『はぁい、ミミちゃんだよぉ』
「どなたですか?」
 横から職員が尋ねるのに「大学の友人です」と小声で答えたものの、どうしたらいいものか頭を抱えそうになる。
「ミリア、ちょっと待ってて」
『はあい』
 一度保留にしたものの、いま部屋は箱だらけで、ヒト族の生産物ではない品物に埋め尽くされているのだ。見られたらミリアに何か勘付かれてしまうかもしれない。
「……入れて差し上げてください」
「トート秘書官!?」
 ビアンカが下した指示に市職員が慌てるが、ビアンカは小さな声で素早く囁いた。
「リビングに鍵をかけて、別のお部屋でお話ししていただくことが可能なら、気付かれることはないでしょう。ここで追い返す方が不審を抱かせることになると思います。お嬢さんはかなり急に大学を退学していますから……」
 このリビングにたどり着く前に応接室があるので、そこまでなら招いていいということになった。
 他の市職員たちも納得したのを見届けて、アマーリエはオートロックを解除し、十二階に上がってくるようミリアに伝えた。その間にポットにお湯を沸かし、お茶とお茶菓子を応接間に準備する。
 再びインターホンが鳴ったので、手早く姿を整えて玄関を開けた。
「いらっしゃい、ミリア」
「久しぶり、アマーリエ! お邪魔していいかな?」
「どうぞ」
 ミリアは招き入れられた玄関に目をきらきらせながら靴を脱いだ。編み上げのブーツはひどく脱ぎづらそうだったが、慣れているらしくすっぽり足を抜いたのを見て感心してしまった。スリッパに履き替えてもらい、応接間に案内する。
「奥にも部屋があるんだけど、ごめん、ちょっと父が仕事してるから」
「あっ、了解了解。奥には行かないようにするし、静かにするね」
 嘘をつくいたたまれなさに苛まれながら扉を開けたが、先程の宣言はどこにいったのか、部屋に入るなりミリアはきゃあっと悲鳴をあげて窓に飛びついた。
「わぁ……! ひっろーい! たっかーい!」
 すっごーい、きっれーいとアマーリエにとっては見慣れた景色に感動している。素直に楽しそうに声を上げることができる性格のミリアが、なんだか眩しい。
「ね、ね、ここに彼氏呼んでいい?」
「えっ、……それは止めて……」
 素直すぎるのも考えものだと思いながら、コーヒーを淹れる。いいにおーいとにこにこしながら弾むようにソファに腰を下ろし、カップを抱えて楽しそうに足をぱたぱたさせた。
「どうしたの? なんだかテンション高いね」
「だってー、アマーリエの家、初めて来たんだもん!」
 そういえば大学の友人を招いたのはこれが初めてのことだった。住所を教えていないはずなのに、どうやってここに辿り着けたのだろう。
 ミリアはむふふと笑って教えてくれなかったが、彼女の友人の誰かに聞いたのだろうと見当をつける。そういう友人や知人が多いのもミリアの特徴だった。
「それで、何かあったの? わざわざ家に来るなんて」
「オリガに言われたんだ。アマーリエが消息不明だから見てこいって」
 ミリアはコーヒーに口をつけ、まだ熱いと言って肩を縮こめた。
「オリガが?」
「オリガだけじゃないよぉ。キャロルもリュナも、ルーイになんかされたんじゃないかって、超心配してるよ」
 それで送り込まれてきたのがミリアらしい。ミリアなら無邪気と好奇心をうまく使いこなしてアマーリエから事情を聞き出せると、三人が考えたのだ。心配をかけたのだとわかってアマーリエは頭が痛い。メールの返信だけでは足りなかったか。
「ごめんなさい。でもなんでもないの」
「そうかなぁ。なんか変だよ? アマーリエ、そわそわしてる」
 ぎくっとしてカップに伸ばしかけた手が止まる。
「……なんてね。でもあんまり眠れてないよね? お化粧してないだけじゃないでしょ?」
 それは事実だった。寝付くのが遅かったり、眠りが浅くて夜中に何度も起きたりしていて、少しずつ身体が重くなってきている。
 けれどそれをどうにかすることもできず、アマーリエはただ首を振った。
「大丈夫、最近疲れてるだけだから。でも、学校にはもう行けないの。退学、したから」
「え……、なんでっ!?」
 その食いつき方は予想していなかった。
 机を挟んだ真向かいにいるアマーリエに飛びつく勢いで立ち上がり身を乗り出したミリアに、アマーリエは束の間呆然として、慌てて言いつくろった。
「え、ええと、家の都合なの。いまちょっと大変で」
「お金!? お金なら貸すよっ!」
「いやお金じゃなくて」
「じゃあ親が離婚!?」
「ううん、離婚はもうしてる」
「じゃあ何!?」
「それは話せない」
 思ったよりも冷たい声が出た。
 ミリアが驚いたように身を強張らせる。
「話せないの。私の問題だから」
 言葉にした途端、二人の間に見えない壁が出来上がる。
 ミリアは愕然としたままゆっくり後ろに下がり、すとんとソファの上に崩れ落ちた。
 傷付けたことを理解しながらも、彼女にはどうにもならない問題だというのは毎夜深夜過ぎまで寝返りを打つアマーリエがよく知っていた。
 テーブルの上に目をやったアマーリエは、ふとそのカップの水面が震えていることに気付いた。振動の発生源は、ミリアだ。
「アマーリエの…………ばかーっ!!」
 ソファに置いてあったクッションを投げつけられる。
 それはアマーリエが咄嗟にかばった腕に当たって、ぽすっと間の抜けた音を立てて床に落ちた。それだけでも十分に衝撃的だったが、涙目のミリアを見てアマーリエはさらに混乱する。ばかばかばかと詰られて、ますますどうしていいかわからない。
「ミリア」
「アマーリエ、あたしのこと嫌いになった? あたしが馬鹿で呆れちゃった?」
 ミリアは強く唇を噛み締める。
「あたし……自分が嫌い。あれもこれもって思う自分が、すっごく嫌い。アマーリエが全然話してくれないの、事情があるってわかってるのに、どうしておしえてくれないのって思う自分が、本当に嫌だ」
 それはアマーリエへの非難ではなく彼女自身に向けられたものだった。
 そういうところが、可愛いなと思う。ありがとうと感謝の気持ちが起こる。
「私はミリアのこと、好きだよ」
「じゃあ、」
「ミリアは恋をしてた方が可愛いよ、絶対」
 ごくんと涙を飲んだ彼女に微笑みかける。
 そうして気付いてしまった。
「私が保証する。ミリアが『あの人が好き』って言っているとき、すごく可愛いから。恋してるとき、いつもきらきらしてて、楽しそうで……彼氏と一緒にいるところ、いつも羨ましいと思ってたよ」
 ――私はなんて嫌な人間なんだろう。
 次から次へと新しい異性への好意や恋を語るミリアに、仕方がないなあと呆れてながら、心の中でひりつくものを抱えていた。
 私にはそれがわからない。あなたが楽しげに語り、涙を流し、笑い、怒り、毎日を幸せそうに生きるその感情を、持ったことがない。
 恋を知らない私は、愛する人がいるあなたのことが、いつも、とても、すごく、羨ましかった。
 ミリアは顔をくしゃくしゃにした泣き声で言った。
「最後みたいなこと言わないで……」
「……しばらくお別れになるから、言うんだよ」
「どこへ行くの? ちゃんと帰ってくるよね?」
 途方にくれたような細い声。
 夜が来る。また一日、故郷から離される日が近付いてくる。また今日も眠れないのだろう。誰も帰ってこない部屋は暗くて静かで、冷たくて凍えそうになってしまう。
 ミリアに告げるアマーリエもまた、迷子のような声になっていた。
「遠くへ。誰も、知らないところ」
 帰ってくるとは、とても言えなかった。

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