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 寝返りを打った先で、ほのかに光るデジタル時計が午前三時三十分を表示していた。胸が騒いでうつらうつらしては目が覚めて、もうこんな時間だ。監視役のビアンカたちも寝入ってしまっていることだろう。
 アマーリエはベッドから出ると、机の上にあった携帯オーディオプレイヤーを手に取り、再び毛布にくるまってイヤホンを耳に入れた。お気に入りの曲を最小音量で聞きながらも、落ち着きなく右を向き左を向き、脚を抱えてぎゅっと目を閉じてしまう。
 もうすぐ都市を出て行く。
 何故か紛失してしまった携帯端末のことも、気がかりだった。
 まるで神様が取り上げたみたいにどこかへ消え失せてしまい、部屋中探したけれど見つからなかった。結局荷物の中に紛れ込んだのだろうと一緒に探してくれたビアンカたちは結論づいた。
『大丈夫です、もし紛れ込んでいたとしても、持ち込むことはできませんから戻ってきますよ』
 そう言って慰めてくれたけれど、アマーリエは知っていた。もうその携帯端末は不要になるのだということ。
 いくつかの保護メールやアドレス、写真はもちろん大切だった。ダウンロードしていた音楽はお気に入りばかりだ。けれどそれは、結婚してリリスの国に行くアマーリエが持っていくことができないものなのだった。
(もう考えるなってことなのかな……)
 携帯端末はまるで都市との繋がりを断ち切るように、消えた。
 アマーリエにはもう行くところがない。この街のどこにも居場所がないのだと思い知らされる、冷たく寂しい夜。
 ベッドから出てリビングに向かう。扉を開けると暗闇に沈む部屋が広がっていた。カーテンを閉ざしていても、ビル群の光でほのかに明るい。この光も、見納めだ。
(――ひとりだ)
 母は遠く、父は帰ってこない。ビアンカたち市職員は別室で眠っている。友人たちと連絡を取ったとしても孤独感が増すだけだ。
 会いたいのに会いたくないと思うのは、自分が弱いからだろう。もし近くに誰かがいれば、きっと無茶苦茶な言葉で詰ってしまう。そして相手も自分も傷付けて後悔するのだ。その後悔を拭うことなどできないまま、アマーリエはここから去る。そんな思い出は作りたくなかった。
 ソファの上で膝を抱え、俯く。自分のぬくもりを胸に抱く。
 空々しい希望の歌を聞く夜が、じきに明けた。
 アマーリエは足音を忍ばせてやってきたビアンカたちに空も暗いうちから、極秘裏に市庁舎へと連れられた。立ち入り禁止の地下の一室で待っていた、見覚えのある市職員たちによって、アマーリエは化粧を施され、白く可憐なワンピースをまとわされた。
 それは第三都市の人気デザイナーによるオーダーメイドの、花嫁衣装代わりの一着だった。事前に要望を聞かれたがアマーリエは「特にない」とだけ伝えていた。望まぬ結婚に臨むドレスを着てどうするのだと投げやりな気持ちだったのだが、それでも鎖国している異国へ、ある意味代表として立つ者が身につけるにふさわしいものが仕上がっていた。
 膨らみを抑えたスレンダーな身頃、肩を出したオフショルダー型。裾は大きく広がらない慎ましいもの。そこにいったいどれだけの人数で施したのかという密な刺繍が植物を描いている。同じ刺繍の靴を履き、髪をまとめて真珠の髪飾りをつければ、社交界に出てもおかしくない落ち着きと可憐さがアマーリエに備わっているように見えた。
 手首に宝石が縫い付けられた手袋を身につける。髪飾りにあわせた真珠とダイヤモンドのイヤリングとネックレスを着け、最後にふわりとベールを被れば、完成だ。
 は、とアマーリエは凍える息を吐いた。
 指先が冷たい。足元が、全身が冷える。緊張しているのだ。多分これまでにないくらい。
 話し声が聞こえて顔を上げると、鏡の向こうの花嫁は悲壮な顔をしていた。
 扉がノックされて振り返ると、「失礼」の声とともにスーツ姿の男性たちが入ってくる。
「――これは」
 訪問者は五人、いずれも男性で、中年から初老という年頃だった。立派なスーツに身を包んだ彼らが、アマーリエを見るなり息を飲み、部屋はアマーリエにとって居心地の悪い沈黙に包まれた。
 いったいこの人たちは誰なのだろう、とアマーリエは彼らの顔を順繰りに見た。見知らぬ、と思ったがどこかで見覚えがある気もする。
「いや……これはこれは。美しい花嫁で」
「うん、コレット市長にこのようなお嬢さんがいたとは……」
 四角い顔の男性と丸い腹の男性が囁きを交わしている。
 その隣に立っている、髪に白いものが混じり顔の皺も深い、眼光の鋭い男性が最年長のようだった。その人がすっと前に出てアマーリエに向かって微笑み、一礼する。握手でないのはアマーリエの格好に気を使ったからだろう。
「初めまして。第一都市市長のボードウィンです。この度は私たちにご協力いただき、感謝の念に堪えません」
 あっと声をあげそうになった。
 開拓者の血筋を引くボードウィン氏は何度もテレビで見ていた。
 ボードウィンが挨拶をすると、後ろの二人も慌ててそれに習った。背が低く四角い顔に笑顔を浮かべて社交的に見えるのが、第三都市のエブラ市長。髪の薄い丸い男性が第四都市のロータス市長だった。
「この度はありがとうございます」
「あなたのおかげでヒト族の未来が開かれます」
 ヒト族に代表となる面々に頭を下げられて、アマーリエは軽く目眩を覚えた。父に連れられて参加した社交パーティなどで軽い挨拶くらいはしたことがあるが、このとき脳裏には『政略結婚』という言葉がちらついていた。
 自都市を離れてまで確認に来る、この結婚。ヒト族の未来のための生贄。
 なのにどうして父がいない。
「あなたには感謝しています。あなたの尊く美しい決意は、私たちに希望を与えてくれました。尊敬に値します。本当に、ありがとう」
「……いえ……」
 アマーリエは目を伏せた。
 ボードウィンにもエブラにもロータスにも、直径でなくとも縁戚に同じ年頃の娘がいるはずなのだ。それでも選ばれたのは自分だった。彼らはアマーリエを犠牲に立てて自分を守ったのだ。
「いやしかし本当に美しい花嫁だ。確か十八歳だと聞きましたが」
「……もうすぐ、十九になります」
「遅生まれですか。私もそうですよ。ご覧の通り小柄でしょう? でもお嬢さんは小柄ながらもすらりとたおやかな風情で、とても麗しい。きっと花婿もお気に召しますとも」
 エブラは第一印象の通り、陽気なあまり言葉が過ぎるようだ。ありがとうございますの言葉が喉に張り付いて微笑むしかないアマーリエに気付いていないらしい。
「あなたの幸福をお祈りいたします。どうぞ……私のことを、お忘れなく」
 にやりとしたその笑い方が気になった。邪で、何か企みがあるような。
 だがノックの音に遮られ、告げられた言葉にアマーリエは息を飲んだ。
「準備が整いました。どうぞ、こちらへ」
 市職員に連れられ、市庁舎の地下を行く。まだ就業開始時間には早いため、ヒトの姿はない。
 コンクリートの柱。汚れの溜まった蛍光灯。古くて傷だらけの床。ヒト族を象徴するような建物の、見えるものひとつひとつが未練につながっていく。
 この結婚は政策と打算と利益を鑑みた契約。
 納得などしていないし、できるはずもない。
 けれど前へと足を進めているのは。
(私に選択肢はないからだ)
 背後から道が崩れていく。追い込まれたアマーリエはただ歩き続けるしかないのだ。
 地下駐車場に用意されていたのは、外交官が所属する外交部を示す塔の紋章が入った黒塗りの高級車だった。毛皮のコートを持った市職員がアマーリエに乗車を促したが、そこにこつりと靴音が響いた。
「……アマーリエ……」
 ずっとここで待っていたのだろうか。
 憐憫の眼差しを向ける父は、白くない息を深く長く吐いた。そして唇を引き結ぶと、スーツ越しでもわかる冷えた身体でアマーリエを抱きしめた。
 そしてアマーリエはそれにしがみついた。
 行きたくない。ここにいたい。生贄になんてなりたくない。
 でもそれを言っては困らせるだけだとわかっていたから、涙と嗚咽を堪えてただ目を閉じていた。
「……お前は、本当に賢くていい子だね……」
 父は切ない声で囁くと、ここに至っても駄々をこねないアマーリエに泣き笑いの顔をした。
「アマーリエ。これはただの契約だ。婚姻という形でリリス族の力を借りれば、モルグ族を抑えることができる。だからモルグ族との和平が成れば、お前を取り戻すための手を打てるはずだ。だからそのときまで、耐えておいで。心安らかであることを心がけなさい。決して命を絶ってはいけない」
 うん、うん、と幼い子どものように頷いた。けれど知っていた。もう二度と帰っては来られないこと。だからこれは慰めの言葉だった。
 ――本当に、ただの慰めに過ぎないのだと、アマーリエは思っていたのだ。
「……いってきます」
 張り詰めた弦の音のようにか細い声を紡いで、車に乗り込む。
 崩れていく道を振り返ることはしなかった。


 見送りに出た市長は、車が見えなくなると解散を始めた。前日から集まってきていたエブラとロータスは、戻る前に観光でもしよう、いや姿を見せるのはマスコミに嗅ぎ付けられる、などと話していた。
 呆れてしまう。なんてくだらない会話だろう。
「不用意な会話は慎むように、ジョージ。君の娘から情報が漏れてはかなわない」
「……希望を持たせてやりたかっただけだよ、イグニス。あの子の目を見たかい? 私の言うことをまるで信じていなかった」
 昔からそうだった。アマーリエはわがままを言わない。それは期待されていないということだと、ジョージにはわかっていた。
「だから問題ない。気付かれてもいないだろう。その辺りはうまくやっている自信がある」
「どうかな。君の愛娘への溺愛ぶりは音に聞くぞ」
 ボードウィンはそうからかいつつも、油断なくジョージを探っていた。信頼されているが警戒すべき、そう考えているのが感じ取れる。
 ジョージは十年前市長職に就き、現在三度目の任期に入っている。次の選挙で続投するのは、今回の件で約束されたようなものだ。それを幸運と呼ぶべきか、それとも愛娘を奪われることになって不運と言うべきか。リリス族が花嫁を指定してこなければ、そうはならなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 少なくともボードウィンをはじめとした市長たちは、ジョージに一目置くことになった。彼らの協力は、アマーリエにした約束を果たすには必要不可欠なものだった。
 ボードウィンはジョージの肩を叩く。
「まあいい、君の案だ。指揮官は君。抜かりないよう励みたまえ」
 去っていくボードウィンに「また食事でも」とにこやかに声をかけたジョージは、彼らとは逆方向に歩き、地下駐車場の長い坂を登って外に出た。
 冬の晴れた空だった。見上げた市庁舎は不気味なほど高くそびえ、強い風をまとわせてこちらを睥睨している。ジョージは笑顔を剥ぎ取り、建物に阻まれたその彼方のことを思う。
 東ゲート、その向こうには、娘を奪った草原の国と王が、在る。

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