第2章
優しくしないで
    


 エルセリスが欠勤した翌日の勤務予定には、アレクテッド公爵が主催する儀式が入っていた。
 封印塔に準じる場所として村や貴族が所有する聖堂が存在する。封印塔での礼拝に参加することはできないが祈りたいという敬虔な人々のための場所で、ここで儀式は通常その地域の演奏者や舞踏家が行う。だが大きな催しごとには典礼官が呼ばれることがある。
 今回はアレクテッド公爵家の息子のひとりが結婚する、その祝祷のためにエルセリスが呼ばれたのだった。場所は首都にある公爵家の敷地内にある聖堂だ。
 儀式は、公爵家の領地に据えられている奏官によって進められていき、祈祷書を読んで祈りを捧げ、演奏を行って、エルセリスの出番となる。
 エルセリスの聖務官の仕事である剣舞は、聖務官制服に礼装としての外套をつけるくらいで、特別なことは何もない。剣舞も祝い事の舞書からふさわしいものを選んでくればよかった。
 横に広い舞台で、裾を大きく広げて跪く。
 後ろでは公爵一家とその親類、祝うべき花嫁の家族と使用人たちが見守っている。
 エリセリスが位置についたことを確認して、一抱えある四弦楽器を手にした音楽家がゆっくりと弓を引いた。
 そのおおらかな調べに乗って、剣を手にしたエルセリスは全身を使って雄大な円を描いた。
 舞は、大地に芽吹いた種が大輪の花を咲かせ、太陽と月、空の神々に愛されるという内容だ。
 広がった裾が風に吹かれる花びらのように壮大に揺れる。聖具である儀礼剣の刃は白く輝き、太陽の光を模して聖堂の壁をきらりきらりと輝かせた。
 右に左にと剣先を揺らし、くるりと回り跳躍すれば、おお、と感嘆の声が聞こえ、危なげない着地に小さな観衆は拍手を送ってくれた。
 横にした剣を両手で支えてまた回る。袖と服が風をはらんでぶわりと大きくなり、鳥の翼のようにも見えただろう。その動きを収束させるように回転を小さく緩やかに変え、最後にそっと跪いた。
 弦の調べが長く続き、終わる。
 それを聞き届けたエルセリスはさっと立ち上がると、一礼し、その場を後にした。控室に当たる一室に行くと儀式の終了を告げる「祈りとともに」の声が聞こえてきて、ようやく息を吐く。
(よし、うまくできた)
 聖務官として剣舞を奉じることが義務だけれど緊張しないときはない。
 額には汗が滲み、全身を使ったために鼓動も呼吸も速くなっていた。水分を補給して汗を拭き、多少疲れを取ってから表に戻る。
「エルセリス!」
 すぐにこちらを見つけたのは、公爵家令息ライオネル。今日の主役の片割れである花婿だ。
「ありがとう! 素晴らしい剣舞だった」
 頬を上気させて握手を求められ、エルセリスが応えると興奮したように力強く上下に振られたので笑ってしまった。
「評判どおりだな。これなら総本山の聖職者のひとりに加えられてもおかしくない」
 封印塔を守護する人々の頂点、総本山の限られた住人のひとりになることは実績を作らなければ不可能だ。それこそ名が語り継がれるような聖務官にならなければ。
「大げさだよ。でも褒め言葉は嬉しい。ありがとう。こちらこそ昔馴染みを祝福できるいい機会をもらった。結婚おめでとう」
 子どもたちが入れる領域の庭での遊び仲間のひとりだったライオネルは、恥ずかしそうに笑って頭を掻いた。
「笑っちまうよな。俺が結婚なんて」
「そういう歳になったんだよ。昔みたいに誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けて、奥さんに心配させないようにしなよ」
「気ぃつけるわ。レイラはすぐ泣くから。……こういう言葉遣いも止めねえと。もし耳に入ったら『いったいどうなさったの、旦那様?』って目をうるうるさせるんだ」
 うんざりしているように聞こえて実際は惚気ている。レイラはライオネルが社交界で一目惚れした女性なのだ。
 エルセリスがくすくす笑っていると、彼は表情を改めて声を潜めた。
「……なあ。お前、オルヴェインに会ったか?」
 ぎくりと肩が揺れた。
「会ったんだな。まあ戻ってきたらいちばんに会いに行くだろうな」
「どういう意味?」
「お前は知らなくていい話」とライオネルは問いを切った。
「あいつ、昨日うちに挨拶に来た。俺が結婚することを誰かから聞いたらしくて、夜遅くなるが行っていいかって連絡がきたんだ。久しぶりに会うのもいいかと思って小一時間話をしたんだが、あいつ、だいぶと変だったな」
「だよね!?」
 衆目を集める大声で思わず同意してしまう。
「ちょっとあれ誰だよ!? 私の知ってるオルヴェインじゃないんだけど!」
「まあ俺みたいに年相応に落ち着いて結婚する例もあるから、そう大仰に別人だと吹聴するつもりはないんだがな。けど妙に善人ぶってるというか、過去の自分を忘れて欲しがっているというか……」
(忘れて欲しがってる?)
 それはなんだか、虫のいい話だ。
 傷付けられた過去のせいかすぐにそう思ってエルセリスはもやっとした。
「うーん、うまく言えねえな。とにかく変わったにしてもなんか変だ。お前、部下になったんだろ。注意して見てやってくれよ」
「……私が?」
「昔のよしみだろ」
 それを言われると断りにくい。エルセリスは変わったが仲間たちも変わったし、今でも大事な友人なのだ。ライオネルのように次期公爵として首都にいる者もいれば、別の都市で暮らしている者もいて、時々手紙のやりとりがある。例外はオルヴェインだけだった。
「実際、かなりいろいろ言われると思うんだよな。変わったにも程があるし。あいつ、傍若無人に見えて繊細だから誰かそばにいてやらないと今度は自暴自棄になると思う。うちの親父みたいに『あの殿下が立派になられて……』って感動するお人好しばっかりじゃないからな」
 そうした状況には覚えがある。
 エルセリスも、幼い頃の自由すぎる言動のせいで、変わろうと決意してからしばらくは周囲におかしな目で見られていた。何を言っても何をしても、怖がられたり避けられたりして、なかなか友人ができなかったのだ。そうして聖務官になることが決まったとき、同期にひとつ年上のアトリーナがいて嬉しかったことをよく覚えている。
 それを思うと断れなかった。それでも積極的に近付きたくはないのだが、と思いながらエルセリスは言った。
「ライオネルの頼みだと思って気にするようにしとくけど。多分仕事で関わることはないんじゃないかな。だって向こうは最高司令官なんだから」
 そう思っていたのだ。このときは。

 一日と半日ぶりに出勤した聖務官執務室の自分の机の上にあった、要確認の書類をひととり眺めたエルセリスは、ものすごい頭痛とめまいに襲われた。
「ありえない」
 呟きを拾ったアトリーナとネビンがちらりと視線をやる。
 エルセリスは何度目かに手にした書面を目で追ったが、書いてある内容は変わらない。
「ありえない……ありえないって……!」
「エルセリス、うるさい。いま譜面をさらってるんだから邪魔しないで」
「だって!」
 だん! と机に手をついてその書面をアトリーナにかざす。
「さんざんせっついても認められなかった儀礼剣と衣装の予算が下りてるんだよー!?」
 承認印の日付は昨日。エルセリスが欠勤した日になっている。
 何度も何度も、長期にわたって使用している剣と衣装の状態や破損具合、修理にかかる費用などを推算して、新しいものを購入した方がいいと書類を上げてきたのを突っぱねられてきたのが、ついに。
 信じられないという叫びを聞いたネビンは苦笑しながら、エルセリスとアトリーナの前にお茶を置いた。
「閣下が着任翌日からいろいろと洗い出して、別の部分を削れば予算が取れるとおっしゃったそうですよ。奏官さんたちも古くなった楽器を新調できるし、典礼騎士の皆さんも備品を諸々購入できるようになったとか」
 そこでアトリーナが持っている楽譜の出どころを知った。彼女もまた新しく下りた予算で新譜を買ったのだ。削られたのは間違いなく事務方の飲食費と出張費だということも悟った。
 典礼官には事務を監督するだけの立場の者たちがいて、必要経費だといって豪勢な食事会やお茶会を開いたり、地方都市に行って豪遊したりする膿んだ部分となっていた。役職は高いが自身の身分が低いエドリックは、彼らには手出しできずにいたのだった。
「というか……閣下、が……?」
 興奮していたのが一転、恐怖しながら問いかけると、ネビンは「はい!」と明るい笑顔で頷いた。
「オルヴェイン典礼官長官がなさったことです。すごいですよねえ……できる人ってああいう人のことを言うんだろうなあ。僕なんて本当にぱっとしないのに……はあ……これでも聖務官なんだけどなあ……」
 ネビンもまた憂い顔でため息をつく。聖務官は儀式の花形なのだが、見た目も仕事ぶりも地味だと言われがちなことを気にしているのだ。
「私はネビンの杖舞好きだよ! いつも先輩として尊敬してるし!」
「ありがとうございます……聖務官の星であるエルセリスさんにそう言われたなら、ひとつくらい取り柄があるのかな……」
「あなたたち! 自分で自分を暗くするのは止めてちょうだい!」
 譜面から顔を上げたアトリーナがきっとこちらを睨んだ。
 それぞれに温かいお茶をすすりながら一息つく。話題はまた仕事の話になった。
「事務方はだいぶと絞られたそうですよ。ひとりひとり呼び出されて『詳細を述べろ』と言われたみたいです」
「ローダー長官も、閣下が来たから彼らを飼っているのも面倒くさくなったんでしょう。処分を押し付けたのね」
 お茶をすすりながらアトリーナが言う。
 鉈を振るったのはエドリックではなく新しく長官に就任したオルヴェインなので恨まれるとしたら彼だろう。大人は汚い。
「エルセリスが言いたいことはわかるわ。閣下があんなにできる人だとは思わなかったもの。聞いていたのとはずいぶん違うわね?」
「そうなんだよ、そこなんだよ!」
 事務方をきれいにしてもらえたのはありがたい。剣や衣装を新調できたのでそれに合わせた剣舞に挑戦できるのは、やる気にもつながった。
 でもこんなに仕事のできる優秀な上司がオルヴェインだとは思えない。あの大人の男性としての重みを持った人が、かつて六歳のエルセリスに向かって『山猿』と吐き捨てた過去があるなんて誰が想像できるだろう。
「絶対裏があるに違いない!」
「ふうん。どうするの?」
 エルセリスは拳を固めた。
「見張る! 何か隠してるならそのうちぼろを出すはずだからね!」
 しかし熱い思いは理解されなかったようだ。
「ああそう、頑張って」
「…………えーっと、僕、時間なので練習行ってきますね……」
 アトリーナは気のない返事をし、ネビンはそそくさと出て行ってしまう。
 誰の協力も得られないとわかったエルセリスは憤然と席を立ち、まずは奏官事務室へ向かうことにした。

    


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