事務室の突き当たりが長官室だから様子を見るにはちょうどいい。エドリックはひとりで使えるからという理由で代理を務めている間、その部屋を使っていたはずだが、いまはオルヴェインに明け渡されたはずだった。
(うーん、もしかして部屋にいないのかな?)
 気配を伺いながら歩いているとちょうど事務室から人が出てきた。
「あら、聖務官。どうなさいまして?」
 奏官は儀式に音楽を奉じる奏者なので、良家の出身者が多く丁寧な物言いをする人が多い。
「ごきげんよう。ちょっと気分転換に散歩しようと思ったんです。それ、素敵な花ですね」
 ああこれ、とガーベラの花束を手にした彼女は笑った。
「自宅に咲いていたものを摘んできたんですわ。昨日長官室のお掃除のお手伝いをしたんですけれども、物がなくなったら殺風景になってしまって。それを閣下に申し上げたら『花でも飾るか』とおっしゃったので、これを」
 ひゅっとエルセリスは息を飲んだ。
(オルヴェインに……花……!?)
 くさい、花粉がつくのが嫌いだ、食えないものを寄越すのか、と数種類の罵倒を想像したエルセリスがどうやって彼女の好意を止めようか考えていると、同じように花を手にした若い奏官が部屋の奥からやってきて「あ」と言った。
「なあんだ、リシャさんも同じこと考えてたんですね。私も持ってきちゃいましたよ、花」
「あらミカちゃんも? うふふ、考えることは一緒ねえ」
「だってあんな素敵な王子殿下とお近付きになれるかもしれないんですから!」
「す……素敵……」
 恐る恐る尋ねると大きく頷かれた。
「他の部署でも噂になってるそうですよ! あんなに素敵で優秀な王子様が上司になったこと。優しいお言葉をいただきたいってみんな思ってて、昨日お部屋のお掃除をするのにも誰が行くかで揉めたくらいなんです!」
「なにせ急だったから。ローダー聖務官長官ったらまったく片付けをされていなくて、私物を運び出すのが大変でしたのよ」
「ああ、だったらそのとき『ぐだぐだやる暇があるならさっさと手を動かせ』とか『てめえもごみと一緒に燃やされたいか』って言われましたよね……」
 展開が想像できて、自分が謝るくらいのつもりで鬱々と言うと、ふたりはきょとんと目を丸くした。
「え? どういう意味ですか?」
「閣下はそんなことおっしゃいませんでしたわ。『手が空いたら手伝ってくれ』と言って、ご自分で片付けておられましたもの」
 誰が手伝うかで揉めている女性たちにごみを見るような目をして怒ったのでもなく。エドリックを呼び出して彼にすべて片付けさせたわけでもなく。
(ひっ、ええええええ……!?)
 あまりにも自分の中のオルヴェインとはかけ離れ過ぎていて、過去の記憶が信用できなくなってきた。本当にまったくの別人のようだ。
(これはやっぱり確かめる必要がありそうだぞ)
 くらくらするような驚きを振り払い、ふたりに尋ねる。
「そのオルヴェイン閣下は長官室にいるんですか?」
「いえ、今日はまだいらしていないようですわ。首都にお戻りになられたばかりですから、荷解きをしたり、ご挨拶に回られたりしているのかもしれません」
 それもそうだ。昨日の仕事量の方がちょっと普通じゃない。
(初めての役職だから張り切ってたのか? それとも何か目的が……?)
 とりあえず彼女たちにお礼を言ってエルセリスはその場を離れた。オルヴェインが出勤していないならここにいても仕方がない。ちょうど小腹も空いていたし、街に降りてアトリーナの機嫌をとるためのお菓子でも買いに行こうかと考える。彼女の伝手を使えば何故オルヴェインが首都に戻ってきたか探れるかもしれない。
 マリスティリアの首都の城は大きさの違う皿が数枚重なっているような形をしている。外側は貴族の子弟も入ることができる広大な庭という社交場。さらに内側は典礼官のような武器を持たない官員と、騎士団に所属する武官の居場所に分かれている。それらに守られるようにして重臣たちが闊歩し国内外の要人を招く外宮があり、祭礼を行う大聖堂もここに位置する。マリスティリアの王族が暮らす内宮はそのまた内側にあった。
 一聖務官であるエルセリスが行けるのは外宮まで。そうでなくとも内宮には召喚されない限り立ち入ることはできない。そんなところからやってくるオルヴェインの立場を過去まったく意識せずに『凄まじく凶悪な年上の大将』という扱いをしていたのだから無知は怖い。
 街に降りる門に向かっていると長身の黒髪の男性の姿があり、何気なく目をやるとそれがオルヴェインだったのでぎょっとした。
 とっさに壁に張り付き、隠れるようにしながら様子を伺う。
(何してるんだ……)
 彼は革を縫い合わせたボールを手に辺りを見回していた。するとそこへ声が響く。
「すみませーん! ボール、こっちに投げてくれませんかぁ!?」
 どうやらボール遊びをしていた子どもたちがいたらしい。すみませーん、お願いしまーすと複数の声がしている。
(だめだ、明後日の方向に投げられる!)
 飛び出そうとしたエルセリスだったが、遅かった。オルヴェインは大きく振りかぶってボールを空に放ってしまった。
 わあっと驚きの声が上がる。
「高い、高い!」
 空を見上げていた子どものひとりが差し伸べた腕の中に、ぽすん! と音を立ててボールが収まった。
「この辺りは人通りがあるから、もう少し広いところで遊びなさい」
「はあい!」
「ありがとうございましたぁ!」
 忠告を聞き入れた素直な少年たちに手を振って、オルヴェインは再び歩き出した。
 離れたところからそれらを見ていたエルセリスは、彼らを交互に見比べて愕然とする。
(い、意地悪しなかった……!)
 なんだかとんでもない奇跡を見た気がした。オルヴェンが、ちゃんと、子どもたちに、ボールを返してあげたなんて!
 呆然としているうちにその姿が遠ざかっていくので、急いで追いかける。
 すると少しも行かないうちにまた立ち止まっていた。今度はくしゃくしゃに丸められた紙くずを持っている。その廊下は舞い込んだ落ち葉で汚れており、掃除の手が回っていないのは明らかだった。
 そんなときに掃除夫が通りかかってしまうのは、神々が悪戯を仕掛けているとしか思えない。
(罵倒するぞあれは!)
 エルセリスは飛び出した。かつての自分のように心をずたずたにされる人を見たくなかったのだ。彼の罵りを引き受けるつもりで駆けつけたとき、オルヴェインは掃除夫を呼び止めて言った。
「紙くずが落ちていたんだが、引き受けてくれるか?」
「は、ははっ! 申し訳ありません! 行き届きませんで……」
「うん。仕事は大変だろうが、あまり無理はするなよ。腰を悪くしてはここを任せられる者がいなくなるからな」
 エルセリスは立ち止まり、掃除夫は大きく見開いた目を潤ませた。
「は、はい……! 失礼いたします!」
 明らかに高官とわかる人間にねぎらわれたからか、彼は紙くずを宝物のように押し抱いて下がった。見送ったオルヴェインは、そうして、離れたところで立ち尽くすエルセリスに向き直り、眉を寄せながら首を傾げた。
「どうした、エルセリス。俺に用か? それともさぼりか」
「誰がさぼりますか! あなたじゃあるまいし!」
 反射的にそう答えたものの次に何を言っていいのかわからなくなって、エルセリスは顔を引きつらせた。二度と顔を見たくなければ名前すら思い浮かべたくない相手だ。不用意に姿をさらせば声をかけられても仕方がないのに、話題が何も浮かばない。
(ええと……)
 無理だ。仕方ない、このまま逃げよう。そう思ったとき、オルヴェインは唇の端にふっと自嘲を浮かべた。
「……やっぱり嫌われているよな。当然か。俺はお前にいろいろひどいことをしたり言ったりしたんだからな」
「そ、そんな、つもり、は……」
 身体を硬くしながら弱々しく否定しても説得力がない。オルヴェインは寂しそうにそれを指摘した。
「顔を見ればわかる。お前は俺のことを怖がっている」
 エルセリスは冷たくなっていた手で拳を作った。
 優しいものでありたいと思ってきた中で、人を傷付けることはたとえそれがオルヴェインであっても信条に反した。けれど内なる自分がオルヴェインだけは別だと叫ぶ声が今にも溢れ出しそうになっている。強くて優しくて美しい私になるという決意が、こんなにも簡単に覆りそうになることに怒りと屈辱を覚えた。
 今でもオルヴェインはエルセリスの心を握っている。
 拳では足りず唇を噛み締めたときだった。
 オルヴェインは姿勢を正すと、エルセリスに向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「な……っ、何をしてるんですか!?」
「……ずっと謝ろうと思っていた」
 頭を上げないままオルヴェインは言った。
「俺の過去の言動がお前を傷付けたこと、ずっと申し訳なく思っていた。すまなかった」
 ――息が止まる。
 身体が傾ぐような衝撃を覚えながら、エルセリスは踏みとどまった。
『お前を好きになるやつなんていない』
 それはあなたのことだ。あなたを好きになる人なんていない。こんなにも心なく人を傷付けるあなたが、私は大嫌いだ。
 面と向かってそう言ってやりたかったのに、思い出されるのは再会してからの、ずっと大人になった姿や気遣いにあふれた物言いや表情、自らの立場を正しく使って不正をただそうとしたこと、それに好意を寄せる人たちの声だった。
 それらの声はエルセリスが心の底に押し込んでいた怨嗟の声に覆いかぶさり、まるで、お前は間違っている、お前の感じ方は普通じゃないと否定するように大きく響いた。そうしてそれに感化されたかのように、エルセリスの心の中で別の感情が生まれ始めている。
(……だめ。考えるな。だって彼は嘘をついているかもしれないんだから)
 この気遣いと優しさが演技ではないと確信を持てない。オルヴェインは昔からひどい罵詈を用いていたが、それだけ語彙のある頭のいい子どもだった。歳を重ねたことによって、人当たりのいい仮面を被るなど造作もなくなっているにちがいないと、エルセリスは年配者に対して要領よく振舞おうと笑顔を浮かべる自分のことと照らし合わせながら考えた。
(信じちゃだめだ。信じれば、今度はもっと傷付くかもしれない)
 剣舞をする前のように呼吸を整えて意識を澄ます。ぐちゃぐちゃだった思考がまとまり、考えるための道筋が正常な形に修正されていくのを感じる。
 オルヴェインはなんらかの目的で周囲を偽っている可能性がある。
 おそらくそれが留学先から首都に帰ってきた理由だ。
 だったら自分は騙されないように慎重に彼を見極めなければならない。だから簡単に許さなくていいのだ。
「……頭を上げてください」
 静かに言って、姿勢を正したオルヴェインを見据える。
 彼の目は真摯にエルセリスを見つめている。心の底から自分のしたことを後悔して、エルセリスに追求に耐えようとしているように見える。そこでいたぶるほど非道ではないつもりだ。
 しかし万が一謝罪を翻されるようなことがあれば、そのときはいま自分の持てる様々な力でもって彼に報復しよう、と決めた。
「謝罪は受け取っておきます。後悔されるほどのことをしたと思っているのなら、ここで私が意地を張るのは大人げありませんから」
「……ああ」
 本当に許したわけでないことは伝わったらしい。言葉少なにオルヴェインは頷いた。
 しかしすぐに微笑を浮かべる。力強いその表情にエルセリスは息を飲んだ。
「俺の行動次第ということだな。これでも変わったつもりだ、過去のつけはきちんと支払う。これから大事業が始まるし、長官の仕事に手を抜くつもりもない」
「大事業……?」
「ぽつぽつ噂は聞いているはずだ。近日中に、遺棄された塔の再活性化事業が始まる」
(ネビンが調査したっていう?)
 こんなに早く開始されるということは、ネビンの他にも調査を行う者たちがいたのだろう。すでにどの塔を活性化するのかまで決定されたようだ。
 どくんと心臓が鳴る。
(その儀式に立ち会える……? そこで剣舞を奉納できたら、私は至上の聖務官のひとりになれる、かもしれない……?)
 そんなとき、胸の中で自分がささやく声がした。
 ――唯一無二の聖務官になることができれば、オルヴェインの本当の意味で見返してやれるんじゃないか?
「どの地域ですか?」
 尋ねる声は早口になった。
「俺もまだ聞いていない。父と兄に信用されていないからな、聞けば飛び出していくんじゃないかと思ってるんだろう」
(ああ……それはあるだろうなあ)
 第一王子アルフリードと接した記憶はあまりない。オルヴェインの二つ年上だったけれど彼以上に大人びた賢い人だったようで、弟の所業を呆れて眺めていたような覚えがある。そのまま王太子になったアルフリードは辣腕家として評判が高く、現在決まった相手がいないことがただひとつの欠点だとさえ言われていた。
(……ん? でも理由がなければ飛び出していかないよね。じゃあ国王陛下とアルフリード殿下は何を警戒してるんだろう?)
「そろそろ仕事に戻らなくていいのか?」
 思考を途切れさせるような問いかけにぎくりとすると、見計らったかのように午後三時の鐘が鳴り響き、エルセリスは飛び上がった。急ぎの仕事はないとはいえ、仕事を放り出してぶらついていたらアトリーナの機嫌が悪くなるのは必至だ。助けてもらえるものも助けてもらえなくなる。
「し、失礼いたします、閣下」
「ああ。気をつけて戻れよ」
(うわああああ『気をつけて』って言葉だけで耳がむずむずするううううう)
 耳をかきむしりたい衝動をこらえて早足で立ち去ったエルセリスは知らなかった。自分が見えなくなるまでオルヴェインが見送っていたこと。その目が懐かしさと痛みに絞られ、寂しげな笑みを浮かべていたことに。

    


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