23. 覇王と娘
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 部屋に詰める部下が一人、仕事をしているのに声をかけてから執務室に戻る。
 扉を開けた瞬間、そこには執務椅子に座る青年の姿があった。相変わらずの不意打ちに軽く驚いてしまう。
「エスカ」
「やほー」
 エスカ青年は太い木枝をそのまま補強しただけの杖を腕に抱え、手のひらだけでひらひら手を振る。
「何をしに来たんだ」
「ちょっと気になることがあってさ」
 ウィリアムは扉を開き、そこに誰もいなくなっているのを確認すると、扉を閉めてそこにもたれ掛かる。話を聞く体制になったのを確認したエスカは、執務椅子で足を組んでにっこり笑って言った。
「率直に言うよ。あのね、『リワム・リラは登場人物じゃない』んだ」
 ウィリアムはすぐに呑み込むことが出来なかった。
「……なんだって?」
「リワム・リラは登場しない。今辿るべき歴史にはいない」
 丁寧にもう一度言って。
「ここにいるはずだったのは違う娘だ。いつの間にかこちらの記録も塗り替えられていて、これまで気付かなかった」
 エスカは笑った顔で眉尻を下げる。
「さすが眠れる神だね。こちら側の記録『正史』まで書き換えるなんて人間なら出来っこない。別の守護地に影響するなんて、仮説が立てられる。神はそれぞれリンクしてるって」
 エスカの並べ立てる内容はウィリアムには一部しか理解できない。理解できないが重要な部分だけは分かった。
『リワム・リラは登場人物ではない』
「……何かの間違いじゃないのか」
 ウィリアムは聞きながら、エスカがここに現れた限り間違いないのだろうと確信を持たずにはいられなかった。
「分かってるくせに」
 エスカは微笑む。少年のように無邪気に、老人のように穏和に。
 この青年はいつもそうだ。突然現れて重要なことを告げていく。運命を導く者たちの一人。
 ウィリアムは黙り込む。深く聞かないのは、エスカが運のようなものだと思っているからだ。追い求めれば手をすり抜け、思わぬ時に降ってくる。あるいは祝福と呪いか。
 ただ、自分に言えるのは。
「それでも今、あの娘はここにいる」
 一瞬の沈黙があった。
 くす、とエスカの忍び笑いが響き、彼は呆れたように手を広げた。
「やーれやれ。仕方ないねえ。今のところ気付いたのは僕だけみたいだし、しばらくはばれないでしょ。好きにするといいよ」
 そうして杖を支えに腰を上げる。この椅子は座り心地がいいねえと呟いて。道を譲ると扉の取っ手に手を掛けた。
「あの娘は……消えるのか?」
 エスカは曖昧に笑った。
「さあ? 僕には分からないな。機関の『正史』まで書き換えるなんて初めてのことだし、書き換えられたそれが『機関が記録する正しい方向』に修正されたらどうなるか、なんて。…………ん? でも『正史』を書き換えたということは、リワム・リラは登場人物ってことなのかな?」
 あれ、あれ? と首を傾げながら何事かぶつぶつと呟くのは異国語か専門用語か判別できない。
 しばらくそうしていて、結局考えるのは一度止めたらしい。うーんと唸ると扉の向こうに消えながら言った。
「まあ、取りあえず心に留め置いてね。淡く消える悲しい恋に終わるかもしれないよ」
 最後の言葉にぎょっとした。
「おい、待、」
 取っ手に手を掛けたら向こう側から押されて仰け反る。
「あ、そうそう、彼女なら玉座の間に呼ばれたよ。カリス・ルークのお召しだって!」
 扉が閉まる。聞き逃せないと扉を押し開けると、もうそこには誰の姿もない。ちょうど戻って来た部下がどうかしましたかと忠実に尋ねてくる。
「カリス・ルークのお召し、だと……?」
 一人呟くとその重大性に気付き、衝撃が走る。
「……っの馬鹿!」
 そのままウィリアムは部屋を飛び出した。

   *

 少しの怯えとまだ残る怒りと、静かだが波打つような心臓を持ってリワム・リラは玉座の間に膝をついた。
「顔を上げよ」
 階段の上に置いた西洋風の玉座から降る声は涼やかだ。声の印象はとても若々しく理知的だった。そっと顔を上げると、垂れ幕の向こうに影と、足下だけが見える。
「暴力沙汰が起こったとのこと。お前の方から手を出したという報告が上がっている。何か述べたいことはあるか」
 問うていても、言い逃れは絶対に出来ないと思わせる声だ。
 視線を足下に落とし。
「……ございません」
 と答えた声は震えてしまう。
 少し沈黙のようなものがあり、覇王は問いかけた。
「王妃となる者に必要なものを何と考える?」
 息を呑む。その瞬間止まりかけた思考を、リワム・リラは一生懸命巡らせた。数多くを並べ立てればいいのだろうか。
 その数秒にも満たない間で、答えが降る。
「自らの答えを忘れたか。『月』と答えたのだ、お前は」
 はっと顔を上げた。
「私がお前たちに与えた問いの意はそこにある」
 朗々と響く王者の声は、ただ告げているだけように乾いている。
「月、か。意味深だ。実に面白い。だからあれはお前を呼んだのだな。何故月と答えた?」
「…………」
 答えられない。答えを持っていないから当然だった。あれは子ども騙し。子どもを慰めるための戯れに過ぎない。
「……なるほど、答えられぬのなら用はない」
 告げた声は、リワム・リラを、ただの気を引く為だけに空虚な言葉を並べる媚びた娘だと認識していた。
「お前を城に呼んだのは間違いだったのかもしれぬ。【魔女】エーリアの娘」
 冷たい声に心が凍った。蔑まれて呼ばれることはあった。しかし告げられた言葉は凍れるほど冷たく、まるで斬り捨てるようにリワム・リラの心を闇へ突き落としていく。肌に触れるすべてが、空気すら痛む。震えていることしか出来なかった。
「王妃に悪評はいらぬ。それは王を脅かすものだ。去れ、リワム・リラ」
 衣擦れの音、去る気配。
 このままでいいのか。冷たく静かな覇王に、何も言えずに。
「お、お待ちくださいっ!」
 咄嗟に引き止めていた。
「私は」
 立ち止まっている気配のそこには、冷たい目で見下ろしている覇王がある。
 何を言いたいのか。王の言葉は正しい。間違っていることなど何一つない。それが胸を締め付けても。
「私は……」
 嬉しくもあるのに、涙が出るほど悲しい。
「私は、あなたに会いたかった。あなたは私の夢です。そのことをお伝えするだけで良かった。そのためにここに来たと言ってもいい」
 卑小な娘が卑小な言葉を叫んでいる、とリワム・リラは思う。それでもこの心の叫びは伝えなくてはいけない。
「私は、永遠にあなたの味方です」
 忘れないで、と呟いた瞬間に、自己満足だと自嘲する自分がいた。なんて陳腐な言葉。なんて有り触れた言葉であの人の心を繋ぎ止めようとするのか。見下ろす気配も、つまらない言葉を聞いたとばかりに冷笑していた。
 その時だった。揉み合う音が聞こえて、どんと不穏な音を立てて扉が開く。
 思わず振り向いた。雪崩れ込んでくる人を乗り越え、誰かがやって来る。それが誰か。
「……リワム・リラ!!」
 ウィリアム様。
 思わず両手で口元を覆って声を呑み込む。
あまりのことに胸に溢れて止まらない。こらえていた一雫がこぼれ落ちた。
 リワム・リラのたたずまいを見ると、ウィリアムの目が怒りに燃え上がる。
「……おい、お前!」
 その無礼な言葉は覇王に向けられている。
「一体私の許可なく何をやっているんだ!」
「……監視を付けて警備は五重にしていたはずだが?」
「うるさい!」
 ただ投げつけるように怒りを露わにすると、行こう、とリワム・リラを立たせる。
「お前は、彼女を傷付けて許されると思っているのか!」
「怒るな」
「うるさい!! もう二度とリワム・リラと口をきくな!」
 目を丸くしているリワム・リラはただウィリアムに連れられて玉座の間を連れ出される。
 捨て台詞を吐いて去っていく大臣を、玉座の間の人々は呆気に取られて見送り。
「……やれやれ。かなり怒らせたな」
 玉座のカリス・ルークは面倒そうに呟いたのだった。
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