呼吸が止まった。足まで止めていた。
 何とか息を飲み下す。「……殿下は」という呼びかけは、まるで初めて発する言葉のような、不安定な探りのある響きになってしまった。
「私の出自をご存じない?」
「国王庶子として生まれ、母方の祖父の手で騎士として育てられたと聞いた」
 母は王国騎士の娘。父はフォルディア王族。庶子として生まれたゆえに王位継承権を持たない。だが、女であり、王家の血を引くという価値は揺るがない。王宮で育っていれば、エタニカは王女ほどの価値はなくとも、すでに国内の貴族や商人と結婚させられていただろう。それから身を守るための術が祖父による騎士教育だったと、エタニカは思っている。
 だからエタニカは彼の言う役目から真っ先に除外される。
 そっと合わせた両手に目を落とした。
「私は、王族ではありません。その資格を持っていません」
「卑賤の母を持つ者は王の血を引いてもはらからではないと?」
 シンフォードは不快感を表した。きつく眉間に皺を寄せて、先へやっていた目をエタニカに向ける。
「王の血を持てば王の子だ。王族の義務を果たすべく生まれた者。それ以外は問題ではない」
「そうするとフォルディアは世系が多くなってしまうので、序列を作らなければならないのでしょう。私は王太子殿下を兄と呼ぶこともできませんし、姫君方が姉妹なのだと考えたこともない。ただ、アンナだけは私を姉と呼びましたから」
 どれだけアンナが純粋だったか。物を知らないゆえに優しく、その優しさでエタニカを姉と認めたか。
 十三の時に、正式に騎士団に入団した。かつて騎士だった祖父に鍛えられ、入団前から訓練舎に出入りしていたエタニカは、訓練にはさほど苦労せずについていくことができた。けれど、たったひとつ、想像を凌駕していたものがあった。
「初陣は十四でした」
 自分の手のひらを見ていた。時間をかけて細い絹糸を繋ぎ、肌が透ける形にした白い飾り編みの手袋に包まれている。滑り止めのついた革手袋とかけ離れた、着飾るためのものだ。
「……戦が終わり、帰還した兵士を労うよう、陛下は殿下方にお命じになった。淡々と務めを果たされる王子王女の中、小さかったアンナだけが涙をし、私の手を握って『お可哀想』と言いました。それがどれだけ的外れで、世を知らぬ子どもの涙でも、私にはすべてだと思えたのです」
 熱く、小さな手を握った時、願いが生まれた。
 この稚い子が、何も知らないでいられるように。
 戦いも災いも、降ることのない国であるために。
「王の血を持てば王の子だと殿下はおっしゃいましたね。私も、そう思うのです。ただ私は王族を名乗ることはできません。だからその代わりに、アンナや国を守ることで王族としての仕事を果たしているつもりなのかもしれません」
 王女として結婚できない。エタニカに果たせるのは剣を握って戦うこと。
 シンフォードは真剣に、エタニカを捉え続けている。だが、怯えを感じてしまう気配はない。訝しく思ったのもつかの間、シンフォードは言った。
「貴方は、変だ」
 きっぱりと、鮮やかに。そう断じてみせた。
「計算かと思っていたが、どうやら大真面目に言っているらしい。どうしたらそんなに純粋なままでいられる? 貴方はおかしい」
 続いて「何故私などに自分のことを話せる?」と問いかけられる。棒立ちになるエタニカは、更に身動きができなくなる。
「貴方は私を嫌っていた」
「き、嫌ってなど!」
「ならば無自覚に。私を避けていた。目を合わさないようにし、視界に入れないようにしていた。意識から除こうとして逆に意識していただろう。私の言動に反発し、腹の内では不満を溜めていたはずだ。私は貴方を知っている。レディエ平原の戦で、私が急襲したフォルディアの部隊に応援として駆けつけ、兵士を逃がした、あの時」
 何を言い出すのかと思いながら制止の声が出ない。
「貴方の目は、その時だけ、はっきりと私を真正面から見つめた。それ以降、貴方は一度も私を見ない」
 覚えて、いたのか。地に這いつくばり、振り下ろされる死を待っていた私のことを。
 撤退の報に救われ、見逃された、一矢報いることもできなかったエタニカは、それ以来、彼の目を見つめられていない。
 目眩がした。その通りだ。完璧に言い当てている。
 しかしそれだけが内心のすべてだと思われるのは我慢ならなかった。
「それを言うならあなたもでしょう。あなたも私を嫌っていたはずです、殿下!」
「私が貴方を。何故?」
 予想外の問いかけを返されて、きょとんとした。だが、言ったシンフォードの方が、よほど訝しげな顔をしている。冗談めいた反論だと思っていたらしい。はっとした後、まじまじと見下ろしてくる。
「私が貴方を嫌っているから、貴方も私を嫌っていたということか?」
「そ、ち、それは違います! 私は」
 どうしよう。純粋な疑問をぶつけられて混乱している。わき上がる羞恥。戸惑い。頭にまで一気に昇った熱で顔が熱い。嫌いだとか、嫌っているとか、そういうことではないのだ。何か別の、他のことを思っていたから。
 剣の刃と同じ輝きを灯した瞳に見下ろされた。敗者であることを思い知った。
 正論をかざされて傷ついた。至らなさに唇を噛んだ。弱い自分に苛立ったが、それをぶつけるのはお門違いだ。
 だから、それらの根本にあるものに目を凝らさなければならなかった。せり上がってきたものは、思ったよりもするりと零れていた。
「あなたは私の理想そのものだから」
 瞬間、羞恥は痛切な反省に変わった。戸惑いは、己の弱みをはっきりと提示したからだ。目を上げることができず、ぐっと奥歯を噛んで耐えた。
 シンフォードは、エタニカがこうと描く理想なのだ。戦場で功を上げる力を、統率を、人々からの尊敬と期待を受け、目を逸らすことなく、立ち続ける。義務を果たすべく行動し、正義で悪徳を正そうとする。誰に誹られても、どう思われても揺らがない強さ。
 恐らくエタニカは、戦場で彼を見た最初に悟っていたに違いなかった。だから自分のふがいなさを責められるようで、あれほどまでに彼を恐れ、深く関わりを持つことを厭っていたのだ。
 けれどもう告白してしまった。ずっと内側で凝っていたものが解けていき、深く息を吐く。
「……確かに、殿下を避けていたと思います。でもそれは、決してあなたのことが嫌いだからではないのです。むしろ、あなたを尊敬し、憧れています。……誤解をさせていたのなら」
「待ってくれ」
 俯いて早口に言うのを素早く遮られる。
「先に言わせてほしい。――誤解させていたなら、すまなかった」
 視線が、彼の目と交わった。
 真摯な輝きだった。鏡のように鋭く透き通っていると思っていた黒い瞳は、今は黒真珠のような柔らかみを帯びている。エタニカは無意識にベールに手を伸ばして、止められた。
 微笑を浮かべて首を振られ、頷いた。そうして、どちらからともなく噴き出した。
「一体、何をしているのでしょうね。私たちは」
「まったくだ。元はと言えば私が悪いか。考えを話さなさすぎると、ルルによく言われる」
「仕方がないと思います。殿下は本心を知られることが好ましくない場合があるお立場ですから」
 そうか、とシンフォードは口元を緩めた。エタニカも笑っていた。
「まったく……ルルの言う通りだった。自分の考えていることを話しさえすれば……」
 いったい何を言ったのだろう。彼女のことだから何か楽しいことを言ったに違いない。そう期待するエタニカは、やがて言葉を失う。
「――貴方は笑う、と」
 赤くなるしかなかったエタニカを、声の調子そのままにシンフォードは笑う。
 気付けばすぐそこが採石場だ。白い岸壁がそびえ、周りには同じ色の巨岩が転がっている。削り出した後の小石が、まるで舗装した道になっていた。一つを拾い上げてみると、小さな結晶が固まっていることが分かる。中に黒っぽい粒が混じっている。これを積み上げ、接着すると、あの壁になるのだ。
「これが光るなんて、そういう石が入ってい」
 ひっ、と息を詰めた。
 腰に腕が回っている。背中に鼓動を感じて、エタニカの心臓が激しく打った。
 右の耳に当たっている顔に、一気に熱が集中する。
 背後から抱きしめられているのだった。



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