小片
扉のまえ
 

 春風。花が舞い、緑が緩やかに薫る野原は、どこまで行こうとも日差しが尽きることがない。全身に温もりを浴びて進んでいけば、風と緑がどこへでも、望むところへ連れて行ってくれる気がする。
 けれど自分に行ける場所は限られている。そこに立って、雲に隠れてうっすらとなった山並みを見つめていた。境界の間際よりも、少し離れたこの野原の方が、この道がずっと続いているのだと感じることができる。
 この彼方に、あの人がいる。
 孤独に、寂しく、心を乾かせている。
 そうさせているのが自分であることに気付きながら、まだ足を踏み出せずにいるのだ。無意識にやった左側の頬を覆う冷たい金属の感触。冬のただ中では凍っているのではと疑う温度だったが、春の陽気だとほんの少し湿っているのに似た冷たさがある。
「ルネ」
「デフォン殿」
 呼びかけに顔を向けると、この日和なのにきっちりと詰め襟を着込んだ従者の男がいた。彼が来たということは、クリスタが呼んでいるのだろう。地平から目を逸らし、反転して近付いて行くと、彼は並んで歩きながら、その低い声で尋ねた。
「今日はどうだ」
「いつもと変わらないよ。想像だけどね」
 晴れの日は毎度見ているので彼もそんな風に尋ねる。例えば、季節の花が咲いたとか、雪解けしたのか山が緑だとか、赤く染まっている、雪が降ったらしいなどと、移り変わりを話すこともあったけれど、北国に春が訪れると夏までしばらく大きな変化はない。虫が多くなって、雨の日が増えるくらいだろうか。
「王妃の出産が始まったそうだ」
 笑っていた顔は、少し固まって、すうっと溶け込むようにして消えた。上から静かに見守るデフォンに、そう、と答えながら、自分の決意を問いたださなければならないと感じる。クリスタの用事とはそれなのだろうと見当をつけた。
 上手に、あの城にいる人々の話題を避けていたけれど、皆知っているのだ。この胸に誰がいて、いつも誰を想っているのか。
「あの子は、変わらなかった。多分これからも変わらないだろう」
 呟く。
 閉じた瞼の暗闇に、高く軽やかな声と笑顔が見える。
「純粋に愛せるだけの時間は過ぎ去ってしまった。私も、あの子も。だから行かねばならないのだろう。その後どうなったとしても、これが終着の地だ」
 それに、と息を吐くようにして笑う。
「約束したまま長いことほったらかしなんだ。そろそろ覚悟を決めて、本気で怒られに行くよ。怒ったシンフォード様はめちゃくちゃ恐いのだけれどね」
 デフォンは静かに言った。
「シンとあなたはよく似ている。自分の感情に素直になれば話は早く済むのに、義務や責任を無視することができずに話をややこしくする天才だと思う」
「デフォン殿は、シンフォード様と……?」
「同門だった。昔から、シンとロルフがいるといつも何かが起こる。訓練でも恋愛事でも騒動になったから、結婚でも何か起こるだろうと思っていた。思った通りになった」
 ため息が出た。その騒ぎの当事者であることを意識したのだ。
「シンは物事の最後に情を持ち込む。君主としては甘い。クリスタ様もそれが悩みの種だと仰っていた。あなたに好意を持った時点で彼は敗北していた」
「一応、平和は保たれているけれど」
「彼は負けた。言うだろう。恋は、落ちた方が負けだ」
 よく聞こえなかった、という顔つきになってしまった。デフォンはそういうことを言う人物ではないし、いつでも本当の言葉しか口にしない。それがクリスタに信頼されているのだし愛されているところだ。だからまだ何か続きがあるのかと彼の顔を見ていたが、デフォンはふっと手を伸ばすと、ばしんと額を弾いた。
「あてっ」
「馬鹿のような顔をしているとクリスタ様が言ってくるぞ。これから決戦の地に赴くなら、ふさわしい気持ちで行け」
「デフォン殿こそ」
 ひりひりする額を押さえながら言う。
「笑っているじゃないか」
「気のせいだ」
「だったらその顔は何だって言うんだ?」
 先を行く彼に続きながら、その顔を覗き込む。デフォンはいつものような重い口調でうそぶいた。

「同門の友の結婚が近そうだと思っているだけだ」



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