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 旧和三年。
 乱世である。
 すめらみことの御代が改まり、年号が旧和と変わった緋の国ではあったが、決して世は変わらず、幻氏と比良氏が、みことの御座す都を中点として、国を二分して久しくあった。この幻一族と比良一族、元は同じ血筋であるから業が深い。三百年ほどばかり前、一族の娘を次々と妃としたことが両氏台頭の始まりであったというが、この皇妃にする娘を選ぶところから、対立は始まっていたとのこと。
 権力は比良氏にあった。比良氏には女子が多かった。宮様方に女たちを縁づけ、地位を掌握した。自らの娘を皇后ともした。幻氏は自らもある宮様を旗頭に立ち上がったが敗れ、幻氏の主立った男たちは流刑されたと聞いている。比良氏はますます勢力を伸ばしたが、そのすめらみことが諡したことによって乱が始まる。あらゆる臣従は自らを武士と名乗り、幻氏はその先頭に立った。のちに曰く、東の幻氏、西の比良氏。
 こうして、旧和三年である。



 時子は姓を幻という。東の幻一族の血を引いてはいるが、傍系も傍系、末も末、端も端の、幻氏を名乗ることで身を保っているような幻家の娘だった。これに両親はなく、叔父を頼ってその屋敷に上がり、家の人々の世話をする女童をしていた。
 叔父は家督を継げぬとなると奥方の実家の商家に婿入りして大成したので、大層な大金持ちであった。商人の才があると評判な人で、また気前も良かった。骨董に目がなくもあった。奥方は非常に細やかなお人で、時子のような血の繋がりのない縁戚を慈しんでくださった。叔父もまた時子と同じような身分であるのは変わりないが、四季折々と元旦には艶やかな着物を贈られた。しかしそれもまあ、無邪気に喜べたのは物の知らぬ幼子時代だけであり、世話をする以上に表へ出ることのないと悟った頃には、いざという時の肥やしでしかないと思っていた。それは、叔父のひとり娘のおひいさまを見ていれば、ますます確認に近くあった。
 そんな田舎にいると幻氏と比良氏の対立は遠く、時子の日常は、まあまあ平安であったと言えるかもしれない。
 山並みが黒々と影になるのは、背後から射す陽光があまりにも鮮烈であるためだ。山縁は薄らと金色に染まり、霧のような雲が陽を透かして棚引いていた。光は、降り積もった雪を細やかに輝かせている。埋もれずに立ち尽くす木々の黒は、まだ冬が長いことを告げていた。吐いた息が白く吐き出され、手を擦り合わせてから外に出る。草鞋は履いても雪に埋もれるだけであったが、直接足をつけて霜焼けを作るよりまだましのはずだった。
 この日も、早朝の雪で茶が飲みたいとおひいさまが言いなさったので、一番年近く、顔見知りでもあった時子が、雪を集めるお役目を授かった。姫は言いなさった。「誰も踏んだことのない、まっしろの、まっさらな雪ではないといやよ」
 裏ではすでに朝餉のこしらえや煮炊きも始まり、男たちも表庭を歩き回ってしまっているだろうため、時子は雪集めに林へ向かおうと考えた。林にいるのは、木を切る者か獣の類いのはずだったし、日が昇ったのだから平気だわと思い、雪を踏み踏み、行った。
 林の中は、獣の足跡すらなく、時折、どささ、と枝雪が落ちる音がするばかり。雪の冷たさも段々と感じられなくなり、革袋に雪を詰めた。白銀の埋もれた南天の枝に気付き、その赤い実のなる枝を手折り、懐に入れた。自分に手土産もないというのも悲しいものだ。
 その時過った思いはなんであったのか。時子は、つい出来心で、誰よりも早く早朝の雪の味を確かめようと思ってしまったのである。まさか咎める者もなかろうと、赤くなった掌いっぱいに雪を掬い、くんと匂いをかいだ。冷気は鼻をつんとさし、瑞々しい水の香を感じさせた。掬ったところからみるみる間に雪は溶けゆき、そっと時子は雪を口に含んだ。
 しかし別段美味いというわけでもない。これなら梅干しの粥の方が好きだと思ったが、しかし清らな雪を食したというのは快いことであった。その瞬間の思いを忘れることができず、腕を伝う雫を舐めとっていると、ばさばさと雪の落ちる音、踏み荒らす音が響いた。
 驚いたのはその闖入者であった。手綱を引いた途端、馬がいなないた。時子はただきょとんと見上げた。落ち着き払って、裾から雪を払い、立ち上がることさえする落ち着きぶりだった。鼻息荒い馬をどうどうと宥めるは男の声。それも、まだ年若くさえあった。
 馬上から時子を見下ろしたのは、なんとも雄々しい若武者である。髪を一本に結い上げ、腰には三つの刀を差し、着ている物は普通ではあったが、その上から毛皮の鎧を身に着けている。当然時子より年上で、二十歳前の若者であろうかと見当をつけた。
 彼は時子を見下ろし、不思議そうに口を開いた。
「村の子か?」
 時子は首を振った。
「では何故こんなところで雪を喰っている?」
 この人は、時子を、貧しいがために雪を食って腹を誤摩化していると考えたのだ。そう思うと、なんだかおかしかった。
「ただ雪を食しとうございました」
 若者は目を見張った。時子がこのような言葉遣いをする者には見えなかったからだろう。馬を下り、近づいてくると、さっと屈んで眼を合わせた。
「お前、名は?」
「時子」
「時子。送ってやろう。家はどこだ?」
 時子は丘の上の叔父の屋敷を告げた。すると、彼は目を見張ったあと、面白げに首を傾げた。
「俺は幻の婿当主のところへ行くところだった。これも何かの縁であろう」
 時子を鞍に上げた若者は、自らも飛び乗るとえいやと馬の腹を蹴り、あっという間に林を抜けた。時子が難儀した足跡を蹴散らし、あっという間に道を駆け上ると、表の門へと乗り付けた。家人たちが慌てて駆け寄ってくるのに、彼は叔父に用があることを告げていく。乗せてきた女童のことなど、もうすっかり忘れ去った風情であったため、時子は自ら鞍を降りねばならなかった。
 雪を届けると、遅いと叱られた。だが、お小言もすぐに終わった。客人が来たからと、おひいさまも呼ばれたからである。さっきの若様であろうと思いつつ、仕事に戻る。すべきことは山のようにあった。ひいさまのお床を整え直さねばならないし、紅白粉も残りを調べておかねばならない。彼女のためのお茶、茶菓子も用意する。それが終わったら、女たちに混じって家の仕事をするのである。
 年嵩の女たちは、すでに客人の若武者の話をしていた。あれが幻一族の影喜の嫡男であること、影喜というのは幻一族として兵を挙げたもののふであること、ここに来たのは恐らく、戦のための資金集めであろうこと。幻氏の何者かが挙兵したことは、時子も聞き及んでいた。西の比良氏は、先のすめらみことが諡したことで勢力を弱めつつあり、幻氏はそれを突いたのである。その影喜はあっという間に東を平定した。それでも、傍系の末の端の時子には、あまりに遠い話ではあった。
 客人は数日滞在するらしかった。叔父が支援に渋ったのか、それとも何か別の思惑があるのか、そこまでは分からなかった。



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