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 あの人は嫌い、と、おひいさまは言った。時子は、目を丸くして続きを待った。
「あの人は嫌い。だって、大きな声で笑うし、お父様にずけずけと物を言うし、こちらを見る目がこわいもの」
 だからあの人が嫌い、ともう一度繰り返した。確かに獣のような目であったなと考えた。しかし、それ以上に深い光をたたえていた。しかしひいさまはすっかり印象を悪くしてしまったらしかった。そして、それは屋敷の者たちの大半に言えた。
 着物が地味でいかんと言ったとか、食事をまずいと言ったとか。直接言ったわけではない。ただ「この家で最も派手な着物はどれだ」とか、庭に出て自分の食事を犬猫に与えていたとか。驚くべきは就寝時で、なんとあの娘を名指しされたとか。その娘は時子も知っていた。ただ、眠る時に何故呼びつけられたかは、女たちが言葉を濁した上で声を潜めたので分からなかった。
 奥方がおひいさまの行いを聞きつけ、私も同じようにしたいと仰った。そして、あの子は大変風雅な子だからところころ笑った。そして、時子に明朝朝雪を持ってくるよう命じた。時子は承った。
 家主が寝静まると、しばらくしてから、使用人たちはようやく自分の時間が持てる。時子は懐にしまったままの南天を取り出し、人知れず表に出た。冬空の銀星たちがちかちかと瞬き、時子の白息は空に吸い込まれるように消えた。そして、少し離れたところでしゃがみ込むと、雪で小さな塚を作り、そこに南天を供え、手を合わせた。
(父上。母上。今日もつつがなく過ごすことができました。明日も健やかな一日でありますよう、お守り下さいませ)
「南天は美味くないぞ」
 びっくりして尻餅をついた。ついたと思ったが、腕をつかまれ、身体は宙に浮いていた。そのままふわりと抱え上げられ、まるで無邪気な笑顔で、その人は時子を呼んだ。
「おいで。菓子をやろう」
 おいでもなにも、抱えられているのだからしがみつくしかない。彼はそのまま大股に庭を横切ると、客間の縁側に時子を座らせ、自ら菓子盆と茶碗一式を持ってきた。
「雪見茶にしよう。お前も飲め」
 湯気が泳ぐ。茶碗は温かかった。磁器は緩やかに唇に熱を伝え、ふうふうと冷ましつつ口に含む。そして吃驚した。苦い。まじまじと隣を見るが、平然と茶を飲んでいたので目を瞬かせた。
 背後の灯火が赤々と、縁側と庭を照らしている。時子と彼の姿は影になっていた。庭は雪かきがされたために、地肌の茶色が見えてしまっており、あまり良い風情とは言えなかったが、遠くには積もる雪里があり、月夜に薄ぼんやりと浮かび上がる様は、なんとなしに心を鎮めた。照らされた雪の光の粒のひとつひとつが、雪の赤い実に見えた。
「南天を」
「ん?」
「食したことがあるのですか?」
「うん。腐るほど生えていたのでな。空きっ腹にもあれがまずいのがよく分かった。あれは飾るのでちょうどいい。お前なら髪に挿せばよい」
 時子が見上げると、大きな掌を前から被せ、頭を撫でられた。
「時子の親はここで働いているのか?」
 ふるりと首を振る。
「いいえ。父母が亡くなったので、この屋敷の当主である叔父に引き取られました。ここに来たのは六つの時でした」
 彼は奇妙な顔をして、唸るように尋ねた。
「では、お前は幻氏か?」
「はい。父は友明、母は香。その娘の時子でございます」
 時子の名乗りを聞くと、彼は大きく空を仰ぎ、ぴしゃりと額を叩いてむうと吐き出した。時子は指を伸ばした。
「食しても良いでしょうか」
 何を言われたか分からなかったようだった。一間遅れて「……うむ」と菓子盆を寄せてくれた。贅沢にも盆の中身は大福だったので、時子は嬉しい。伸びる餅を少しずつ口に運びつつ、餡子の甘さを喜んでいると、「もっと食え」と言われた。だが、時子は一つ食べたあと、美味しゅうございましたと頭を下げた。
「お茶とお菓子をありがとうございました。お殿様ももうお休み下さい。お疲れでしょう」
「別に疲れてはいないが。まあ、休むかな。ああそれから、時子、明日からこちらに来なさい。当主殿には俺から言っておく」
 叔父が許すだろうか、とちらりと過ったが、客人の意向に無礼を働いてもいけないので「承りました」と首肯した。無邪気に頷きを返され、ちらりと思ったのは、この方のお世話をするのは楽しかろうなということだった。もう一度茶と菓子の礼を言うと、闇の中に取って返し、静まり返った部屋で薄い布団にくるまった。



 朝ぼらけの前に、使用人は手を動かしていなければならない。夜明けの一番鶏よりも早くに目覚めなければならぬ。時子もそのように毎朝を過ごしてきた。髪を梳る時間は、両親の庇護のもとにいた頃とは比べ物にならぬほど短く、指先は毎日のように丁寧に垢も汚れも落としてはいるが、すっかり固くひび割れていた。水仕事にあかぎれが染みる。
 とき、とき、と呼ぶ声に、えいやっと水桶を下げて歩き出す。台所ではすでに朝餉の準備が慌ただしく行われており、時子が両手に水を下げてくると、台所番は遅いと叱った。そして、嫌らしく言った。
「姫様がお呼びだよ。さっさと行きな」
 急ぎ足でおひいさまの元へ向かうと、入室を許されるなり枕を投げつけられた。こちらでも遅いと言うのである。髪を梳けというので、すでに彼女の身を整えている女中たちの、機嫌を損ねてという非難の目を浴びながら、櫛を取って長い黒髪を梳かす。黒い染みがそこかしこに零れ落ちるような、見事な緑髪だ。羨ましいと思う自分がいるが、どうともならぬことなので、無心に櫛を当てていく。
 すると、家の者がするすると現れたかと思えば、時子に用があるという。ひいさまは不満げに唇を尖らせたが、父上様が、と言って耳打ちされると、いっそうむくれたが、何も言わなくなった。時子は御前を失礼して、今度はもっと急いで、主である叔父の元へ向かう。朝からよく走る日であった。
 叔父の元へ行くと、「遅い。もっと早く来なさい」とたしなめられた。
「今日からお客人の世話をしなさい。くれぐれも、粗相のないように」
 承りましたと手をつくと、その足でお客人の元へ行く。
 すでに客人は身なりを整えていた。書き物をなさっているらしく、文机の傍らには昨夜飲んだのと同じような渋そうな茶がある。ではこの方は、身なりを整えるのも、茶を入れるのもすべて自分でなさってしまわれたのだ、と思うと、遅かったかという言葉が身に染みるようで小さくなるしかなかった。
 筆を置くと、大きく伸びをした彼は、時子に気付き、おお、と声を漏らした。
「来たか、時子。おいで」
 にじり寄ると、苦笑された。
「もっと、近う」
 膝を合わせるほど近づくと、相手がとても大きいので見上げてしまう。その威圧感に負けてしまい、うつむいて「申し訳ありませぬ」と言った。
「遅くなりまして……」
「構わぬ。時子は働き者なのが分かった」
 そう言って、頭を撫でられた。そうされるのはいつぶりか。亡母を思い出すが、母はこのように荒々しい手つきではなく、また愛嬌ある撫で方でもなかった。そうして、撫でた後、このように髪を丁寧に梳いてくれる必要もなかった。
「俺はここに来て間もない。どこぞ案内を頼めるか」
「はい」
 答えつつ、では長くご逗留なのかとちらと考える。破顔一笑した彼は立ち上がり、時子を後ろに連れると、「さあどこへ」と目を光らせた。少し考えた末に時子が指し示したのは、雪里の向こう、山の連なるその狭間であった。
 客人は、たいそう案内しがいのある御仁だった。この道は里人がよく使うのかということ、夏はどういう花が咲くのかという問いかけから、どういう畑があるのだということまで、よく尋ね、よく相槌し、よく笑った。時子も尋ねられるままに答えた。きっと、大切な問いであろうとは察せられたからである。里人でなければ知り得ぬことを、彼はよく聞きたがった。
 時子たちが辿り着いたのは、雪ですっかりなだらかになった山道の頂上であった。どこまでも続く真白の山並みは、時子にはまるで獣の毛皮のように柔らかに、温かく思えた。それはきっと恐らくは、時子の右手を握っている、若武者の存在があったからだろうと思う。骨を埋めるその大地が、せめて暖かであればという望みも、もしかしたらあったのかもしれない。
 でも、今は。傍らのひとの、その白く照り輝く精悍な顔を、忘れないでいようと思った。

 時子、時子、と逗留中、彼は小犬を呼ぶように時子を呼ばわった。時子は、はい、はい、と返事をし、彼の用事をこなし、ときには彼の取り寄せた菓子を振る舞われたり、またあるときには、用がなくなったと言っては、こまごまとした品を受け取ることもあった。漆塗りの椀、べっ甲のかんざし、小花を散らした帯留め、美しい蜻蛉玉の数々。彼がてのひらに乗せてくれる品は高価なものだと感じられたが、それを払拭するくらい時子の手の上で親しげに輝いたので、ああこれはきっと私に出会うために生まれたのだわと、にっこりと笑顔を浮かべて見入った。

 ある日時子は、屋敷に新たな客人を迎えたことに気付いた。その使者はまず叔父に目通りした。いつもなら側に寄せてもらえるはずなのに、若者は心無しか険しい表情で時子を下がらせた。時子は、何故かもやもやとした、先の見えないような気持ちを抱えずにはいられなかった。
 その数日後、若武者は、時子に「長居した」と端的に呟いた。時子は黙って目を伏せた。旅支度は風の吹くように早く終わり、時子は彼を見送りに出た。
 世話になったと言いおいて、彼は去った。時子は、彼の名を一度も呼ぶことはなかった。季節は、いつしか春を間近にしていた。



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