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 朝の光を見る度に、時子はあの日目覚めた瞬間のことを思い出さずにはいられない。うっすらと射す光が、寝床に細く差し込んで、冬の気配が肌に触れても、まだその場の温もりを握りしめていた。あのときこそ、これ以上ない瞬間であった。
 幻氏と比良氏の対立はますます根深く、根を取り除こうにもいつの間にか撒かれた種が戦乱を開いた。縁を結ぶと不安になるものらしい、これまでじっと耐えられていたことが抑えきれなくなりそうで、時子は毎朝毎夜仏に手を合わせた。影朝が帰還すれば、時子は慎ましく喜びを述べ、共に入った褥で、夫の新しい傷をなぞりながら、こっそり浮かべた涙を拭ってもらった。けして、死ぬなとも置いてゆくなとも口にはせず、しかし込み上げる切なさはどうしようもなかったのを、指先を濡らす影朝には分かってくれていたろう。何もかもを知らない六つの頃に戻れれば、このように不安がることもなかったろうに。
 旧和十年。時子は子を産んだ。これは朝光と名付けた。十一年に産んだ子は女児であったが、数日後に死んでしまった。これは蓉子と名付けて供養した。なので、時子の子どもは跡継ぎたる朝光のみであった。
 朝光は賢い子だった。周囲が可愛がったからか、愛嬌のある子だったが、大人と議論することを好み、また太刀を持たせてもよい使い手だったようだ。影朝は息子を連れてどこかへしばしば消えることもあり、帰還する度に時子は膨れた。
「影朝様と朝光殿は、時子を蔑ろになさる」
 悪戯っぽく目を交わした父と子ではあったが、それにまた時子が膨れると、慌てて取りなそうとする朝光は優しい子だった。
 それでも、一度だけ、三人で出掛けたことがある。供の者がいたろうが、時子の記憶では三人だった。時子は朝光の手を引いて、影朝は息子のもう片方の手を握っていた。触れ合うことをしたからか、その記憶の印象は濃い。
 金色に縁取られた夏草の上を、風が渡り。まろやかな陽光が、向こうの山に沈んでいく。空は錦のように銀と金、五色雲のように高貴な雲が棚引き、今まさに光降らんとする。
「時子。朝光。見よ」
 影朝が呼ばわる。雄々しく、深く穏やかに笑みを刻む影朝の瞳ばかりを追っていた時子は、己も微笑みを浮かべることで応えた。
「影朝様は、何故時子をお選びになられたのです?」
「応えねばならぬか?」
「知りとうございます。影朝様のお言葉ひとつで、時子は三年待てれば」
 くつくつと喉を鳴らした影朝は、父母の顔を見比べる幼子に困った笑みを見せ、母者はいつまでも小娘の様よとうそぶく。愚か者と笑うならば笑えばよいが、時子は退くつもりはなかった。その果敢さは武者ほどの気概であった。それを、本当のもののふである影朝は軽くいなした。
「白雪を食むお前を見て、『この者こそ』と思わぬ方がおかしい」
「『この者こそ』……なんでございます?」
 影朝は、時子の胸に愛しさを溢れさせる顔で、にやりと笑うばかり。時子はそれでもそれ以上何も問わず、ただ目と頬を緩めることができるのは、少しでも年を重ねた証だったろう。母となった腕で朝光を抱き上げた。その幼子の確かな重み。天空の光を手にしたようなぬくもりよ。胸に満ちる、選び選ばれた気高い心のままに、時子は朝光に願う。誇りを――。
「誇りをお持ちなさい。お前は影朝様の子。その妻の時子の子。その誇りを持ち、父君の姿を追ってお行きなさい。どこまでも、どこまでも、お行きなさい」



 旧和十三年。
 比良氏、幻氏討伐を果たさんと、南に慎ましやかに国を持っていた長江氏を味方に、東へ一気に攻め上る。幻氏これを迎え撃たんと一族を集う。春、夏。秋、幻氏当主影喜が討たれ、追われた一族、散り散りに逃げるも、二度と集うことはなく。事態を憂えた影朝は、自ら都へ上ろうとしたが、比良氏の冤罪、攻撃、追撃は止まず、ついには。




 だから、時子のそれは、夢であったのかもしれない。





「南天を食したことはお有りですか」
 いいえ、と時子に対した武者は首を振る。庭の片隅に、艶と光る無数の実。ついばまれそこない、雪に落ちた紅は、やがていずこかへ見えなくなった。白雪は、冬の始まりであるにも関わらず暗闇を孕んでいる。
「影朝様が、あれはまずい、お前ならば髪に飾るがよかろうとおっしゃいました。その南天がこの城に植わっていたのは嬉しかったものです。今年も美しい実をつけたこと」
「姫は影朝様がお好きでいらっしゃる」その昔、そう言った家臣が、今日はゆるりと目を細めて、時子を眩しげに見やっていた。
「もう姫とは呼べませぬな」
 忠臣たる者、主君の奥方を送るのに苛む胸がないわけがない。それでも彼は頭を下げた。
 次に幻氏に据えられるべきは影朝の子、朝光であったが、時子は周囲の止めるのを聞かず、自らの手勢である家臣の奥方を連れ、都へ上った。宮中に巣食うは怨敵、比良氏。遠くただ言葉をなぞるようだったそれは、今の時子にとってまさに、怨敵でしかなかった。
(影朝様。時子も敵陣へ参ります)
 いざ戦わんとする時子、二十。慈しまれた黒髪と眼、触れられる度に艶やかに染まった唇は赤い。冬を越えた種は芽吹き、匂い立つような女の美しさ。まさに大輪と咲き誇る頃。
 時子は比良氏に目通りを願った。幻氏当主の妻である時子の扱いを、比良家は持て余した。比良氏当主の動向を待つばかり、ただ幻氏の屋敷に逗留し、動かぬ奥方を見張るしかない。そのまま年がゆっくりと暮れていき、冬のただ中に動きがあった。
 都の比良氏の屋敷は、雪化粧が施された大屋敷。鬼門であろうところに、南天が植わっていた。白を積もらせたその紅の実に、一度目を臥せた後、時子は現れ座した比良氏の元へ頭を下げた。
「我が子、朝光は翌年四つになる幼子。幻氏を動かす力はありませぬ。例え成年を迎えたとして、蟷螂の斧を悟れぬ子どもではございません」
 言葉はない。時子は更に言う。
「幻氏を滅ぼしたとして、治める者のなくなった東をもう一度まとめ直すのは至難でありましょう。齢四つの子であろうと、据え置けば、留め石くらいにはなると存じます。どうぞ、朝光の助命を」
 平伏したまま、汗が顔を伝った。長く苦しい間の後に、面を上げよと命じられ、時子は意を決して頭を上げる。
 目の前の脇息に持たれる男を見て、何者かを悟ることができなかった。しばらくして、その若者が、当主であると認識する。幻氏と同じく、比良氏も代替わりしたのだった。若者はつまらなげに見ていた目を、目が合った途端に軽く驚きに見張り、やがてゆるゆると笑った。
「助命を許す。だが、人質を貰う」
 指先が、時子を指した。
「幻氏の時子。そなた、我の子を産め」
 緑の黒髪。花の薄桃に色づく雪の肌。唇は艶やかな実の紅。二十の時子は決して若くはなかったが、光映す眼はどこまでも童女のように澄んでいた。たった一人を見ている目をしていた。今ここにいないものを見ていたろう。往く太陽を追いかけるごとく、ただ光を見つめ続けていたろう。



 旧和十四年。比良氏の新しい子は、男の子だった。三度目の出産で、時子は身体を壊した。しばらく寝たきりになり、季節の移り変わりを庭に、床で見た。赤子はどこか遠くで泣いていた。時子は側に寄せようと思いはしなかったが、それでも乳が張ったから、含ませながらぼんやりと見ていた。因果かな、幻氏比良氏は元は同じ氏族。赤子の顔は、会えなくなった優しい我が子のかつてに似通った。もしかすれば、いずれは影朝にどこかしら似るのかもしれないなどと、幻のように考えた。



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