目次  




 幾度かの初雪迎え、彼方を思えど、消え行くばかりでいつしか夢も見ず。年を重ね、いくつもの記憶は遠くなり、身体はすっかり衰えた。容色はまた若い頃とは別の言葉でたたえられてはいた。比良氏の当主は幾夜も時子を侍らし、寝所を訪れてはいたが、時子はそれ以上の行為で応えようとはせず、身体を壊した時子は子が産めるわけでもなく、月日は逃げるように過ぎ去った。
 もしくは、それらは時子が解き放ったのやもしれなかった。時代は流転する。時子の手のひらから放たれたのは、その時代に抗おうとする生きる気力だったに違いない。時代を切り開き、作り出す力だ。時子の運命を変えた、あのひとの手の中にきっとあったものだろう。

 すめらみことは在位であらされたが、続く戦乱に嫌気がさしたということで、元号が改められ、平定とさだめられた。号が改まれば人が変わるなど幻想で、陰陽師たちの祈りばかりがむなしく都を漂った。平定十年。旧和で数えるなら二十八年。
 南の長江氏、幻氏の残党を取り込み、比良氏に討って出た。比良氏からも謀反が出て、混乱の最中に中央が制圧され、比良氏は這々の体で西へ逃げたが、これを追った長江氏幻氏がついに比良氏を討った。盛者必衰。栄枯盛衰。これにより、長き比良氏の栄華は潰える。
 宮中に固執した幻氏と、新しき世を作ろうと目論んだ長江氏で対立が始まり、長江氏が勝利を収めることになるが、時子にはもう関係のない話であった。一族復興を目論むべく、西へ落ち延びる比良氏に時子は連れられることがなかったのである。城が捨てられるとなった時、最後まで残ったのが時子であった。共に行こう、連れていこうとする者は、時子の緩やかな否定に一人二人と減り、最後に残ったのは両の手で足りるほどになった。それでも不自由しなかったのは、時子の幼少時代に感謝せねばなるまい。まるで昔のように手を荒らし、そのひとの訪れを待つのであった。
 やがて長江氏がやってきたが、彼がそうではない。長江氏は進み出た若者に場を譲った。若者は、覚えておられるかと時子に尋ねた。時子は、あなたこそと微笑った。
「覚えていますとも。朝光殿」
 我が息子に時子は目を和ませた。幻氏の朝光もまた目元を緩めた。
 時子は静かに朝光を見つめた。黒髪は恐らくは自分に似たのだろう。眼差しの柔らかな裏に、清冽な若々しさがあり、これは父親に似ていると思った。無骨な鎧等着なければさぞかし美男であることだろう。
 そして何より、その気配の美しきこと。気高さと誇り。かのひとが望んだものが朝光にはあった。だからこそここまで来れたのだ。幻氏を名乗りながら生き抜けたのである。時子は、非常に満足した。
「妻を娶りました。もうすぐ子も産まれます」
「そうですか。それはおめでとうございます。奥方にもよろしくお伝え下さい」
 時子の答えに、朝光はそっと尋ねる。
「ともに、東明に帰られませぬか」
 時子は言う。
「そなたは光。誇りの光。わたくしなどが澱ませてはいけないのです」
 朝光は言った。
「お健やかに」
「そなたも」と時子は答えた。
「誇りを持ってお行きなさいませ。父君はそう望まれましょう」
 この時、朝光は、そのまま見送るつもりだった決意を揺らがせてしまったのだろう。去り行く足を止め、振り向いた。
「覚えております、母上。……三人であまねく光を見た、あの日を」
 母の瞳を――彼の者しか見ぬと心した、光輝を見つめ続けた眼を、しかと見つめ、青白い時子に苦渋を滲ませ、別れを告げた。
「――父上に、よろしゅう」
 時子は、頷いた。



  目次