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 供の者は側仕えの老女のみ。彼女を励まし励まし、時子は東へ歩みを進める。一歩進めば一日を思いだし、三歩進めば一年を遡る。そうして最後に六つの己に辿り着いた時、時子は彼方に雪の降り積もる山を見た。
「ここで別れましょう。お前はこれから東へお行きなさい。これはせめてもの餞別。この金を元手に商売でもなさい」
「奥方様。奥方様はどちらへ行かれます」時子に最後までついた忠実な老女はそう問うて、彼方を見つめる時子を引き止めようとした。
「離れることなどできませぬ。奥方様は病を患っておいでなれば」
 時子は首を振る。血を多く作れぬ体は、一歩踏み出すごとに崩れ落ちそうではあった。のどの渇きがいつまでも癒せぬ身は、一刻も早く休息を要していた。だからこそ時子は言うのだった。
「行かねばならぬのです。もう随分ご無沙汰してしまった」
「奥方様」
 行かねばならぬと時子は繰り返し、目を閉じた。

 時子は森を進み、段々畑を行き、雪山を目指した。通り過ぎる里には残り雪が目に付き始め、やがて人の気配もなくなり、獣の気配だけが寂しさを慰めるようにあった。山道の最中に見下ろした土地に、これまでやってきた小さな里が見えた。向こうには森が広がり、また山につながっていた。このどこかを、若武者たちは駆けたのであろう。草を踏み、太刀を握り、いったのだろう。時子の小さな足は、すり切れ、まめがつぶれ、踵も爪先も痺れるほど痛いというのに。
 けれども彼方へ。高みへ。できることならあの雪の近く。
 畦道には彼岸花が咲く。ここは少しだけ季節が早い。麓も山もまだ夏の半ばを過ぎた頃。それでも最後の一声のごとき蝉時雨。季節の道を先行くように、時子は遥かな場所を目指した。
(影朝様。時子はずいぶん疲れました。朝光は大きゅうなりましたよ。もう立派に幻氏の跡継ぎです。あの眼を見ましたか。まるきり影朝様にそっくり――)
 女童のようにくすくすと笑う。
(遠いところまで来てしまいました。影朝様がどこにもいらっしゃらないのですから、探している時子はとても歳を取りました。いずこにいらっしゃいます。ああ、でも、もうすぐ会いに行けそう。もう置いていったりなさらないで。疲れ果ててしまったのだから。それとも――)
 その腕に抱かれたというのに、繰り返し思い出すのは、まだ幼き己が、軽々と抱き上げられるそのとき、不自由と束縛の居心地の悪さと、溢れんばかりの喜びの刹那。
(また、待ちくたびれたとおっしゃる?)
 幾度かの苦しみに悩まされた過去に思いを馳せた。あの時死んでしまえばよかったのだろうか。けれども、影朝の妻としてやるべきことは山ほどあり、朝光を置いて、影朝のあとを追うことはできなかった。だがしかし、影朝の言葉に背いたような気がしないでもなかったのだった。誇りを持てという言葉。時子は幻氏の妻として生き続け、影朝の子である朝光を救うべく、幻氏から比良氏に移って比良氏の子を産んだ。誇りをと朝光に告げたというに、時子は比良氏の子を産んだ。それは、果たして誇りであったのか。
 時子は思う。今も胸にある影朝の妻としての誇りは、ただしがみついたばかりのものではないか。問いかけたのは己のみで、答えはなく。底なしの闇に、摩耗した心と身体はずるずると引きずられる。そこにきっと、影朝はいないだろう。
 けれど、ふと視界に入った光を、時子は指と錯覚する。目を上げても誰もおらず、空は薄曇り、だがひらりと舞う雪結晶。天から降る清らな花。
(影朝様)
 それを見て、時子は思い出す。



     +



 母上、と泣くは比良の子。子守りも近従も追い払い、側をまとわりつく我が子を置き去りにしたのは、時子が彼方にいつか見た光を探そうとしたため。あの子はきっとあの光を見るまいと、時子は一人で草原を踏む。
 これはあの瞬間に違いなく、きっとそこにあのひとがいるのだと信じようとする。
(影朝様――影朝様)
 あれはもしかしたら夢幻のこと、本当はこれが正しい記憶であろうかもしれぬとその場の時子は思ったが、これを思い返す今の時子には分かる。あれも、これも、現世の真であった。
 草を払えば、指を切る。手のひらに浅い傷跡が走り、小さな小さな、珠のような紅の雫が、大きさもまちまちに手の中に生まれた。たった今もいできたかのような朱玉に見えた。
 それを見つめ、一歩踏み出さんとした時、裾を引き止める者があった。泣き顔に、草の汁と傷をつけた幼子は、しかし影朝の子ではない。かの者は時子を見、そして時子の彼方を指差した。
「母上。綺麗」
 時子は目をやった。曇天から降り射す梯子のような光。雲を縁取る黄金の太陽。風渡りの音は雲の音と聞きまごう。渡りの風は、いずこからか花を持ってきた。触れれば溶ける、白の花。時子が手を差し出すと、小さな血玉の側で雪花はほんのひととき手のひらに留まり、すうっと溶け消えた。
 風花は時子の頬にも触れ、小さな雫となって滑り落ちた。
 紅も白も、いつか見た南天にも新雪にも似ていない。けれども時子は堪えながら天空の花を探した。呼ばわる声がする。傍らで、子どもはただ時子の反応を待っていた。
 だがしかし、時子は、比良氏の子に「誇りを」と告げることはなかった。



     +



 手は天へ、白に浸された。
 冷たく温かな彼方からの風花は、時子の指に、手に、髪に、瞳に。
 頬を真白に染めるがごとく。
 頬に流れるがごとく。



了   



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