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 森を抜けて街道沿いに北上し、山麓の街で旅支度を整えた。夏のスノーラ山道は、山頂部以外に雪はほとんど残っていないが、岩場の険しい道が続く。もっと厳しい場所にある聖堂に行くつもりでもあったから、準備には念入りになった。怠れば、雪山で行き倒れて氷漬け、などということになりかねない。氷漬けにはなったことがないが、なりたいとは思わない。
 道に転がっている尖った岩は、ごつごつと大きく、黒い。この山の東には鉱脈があるから、そういう地質なのだろう。そこで採掘した鉱物を精製した武器で、エルディアは潤っていた。武器産業とともに国民の武勇意識が高まり、剣で戦えない男は差別される。
 足で石を踏むたびに、ぱきん、と高い音がする。
 星鍾教会の巡礼地、スノーラ聖堂への道は思ったより踏みならされており、数時間で登りきることができた。青い髪を隠し、多少こぎれいな旅装で巡礼者を装ったレシュノルティアは、導師と呼ばれる聖職者にしばらくの宿を頼んだ。
「母の病気の快癒を願って、七日間の祈りを捧げたく……」
 目を伏せてもっともらしいことを言えば、清い導師は同情したように「思う存分お祈りください。お母様がよくなりますように……」と手を組み合わせた。
 慣れた嘘なのでどうということはない。幼少期に亡くした母の顔は、もう覚えていなかった。
 何度か山を越えたことはあるが、この場所に長く滞在するのはめずらしい。必要がないかぎり近付かないようにしてきたのは、星鍾教会とは折り合いが悪かったからだ。
 当時まだ子どもだったレシュノルティアは、現在まで続く星鍾教会に「なぜ?」を発するような不信心な人間だった。王族だったので成長するに従って口を閉ざすことを覚えはしたものの、祭祀ルガンはそんなレシュノルティアの心の底を見抜いていた。
 ――人の魂は星になどならないよ。
 薄く笑っていたあの男もまた、神官でありながら星鍾教会の星神を信じていなかった。
 そんな昔のことは追いやって、すれ違う巡礼者に挨拶しながら外に出てくると、何やら騒がしい。
 人が多いという言葉ではすませられないほどの人々が表で言葉を交わして、それも仰々しかった。清貧で知られるスノーラの聖堂には似つかわしくない、豪奢な衣装の男女がうろついているのだ。
「おでかけですか?」
 宿を頼んだ導師が通りかかり、声をかけてきた。
「ああ……ええ。こちらにはたくさんの聖堂があるとうかがいました。せっかくですから、そちらでお祈りを」
 日中のスノーラ聖堂は人の出入りが多い。ここを調べるのならば夜だ。他の聖堂を見て回ることにする。天候も快晴、他の聖堂はすでに地図で把握してあった。うっかり地声で返事をしてしまったが、意識して殊勝な柔らかい声を出すと、感極まったように導師は頷いた。
「あなたは敬虔な信徒でいらっしゃる。お母様がよくなりますよう、私もお祈りいたしましょう」
 ありがとうございます、とレシュノルティアは苦笑を殺して目を伏せ、視線を向こうに投げた。
「あれは……」
「あまり大きな声では言えませんが、とある高貴な方々です。なんでも、急に結婚式を挙げられるとかで」
 眉を上げる。聖堂に駆け込んで結婚する男女というのは、いつの世も親が許さぬ相手だからという場合が多い。しかしいくら大聖堂とはいえ、道の悪いスノーラまでやってくるとはどういう事情だろう。それに、駆け込み婚にしては従者の数が多すぎる。
 しかし気にしないことに決めた。邪魔にはならないだろうと思ったからだ。レシュノルティアは「いってまいります」と頭を下げ、導師はお気をつけてと見送った。


 刷毛で描いたようなかすれた雲の下、岩を踏み越えて行く。巡礼者の衣装はすでに脱ぎ捨てて、いつもの軽装備に外套をまとった姿で剣を下げていた。身につけた金属が、山頂の風に冷たくなっている。しかし息を吸い込むと、その澄んだ空気が身体を巡って心地いい。花も咲かない地上にうんざりしている自分に気付く。
 エルディアの武器産業は、地上の美しさを損なった。毎夏にわたってくる銀白鳥は乱獲され、清い水と土に広がる銀青花はみるみる数を減らしている。春から夏にかけて飛び交った青冴蝶もいない。代わりに手に入れたのは血と汚れた水と汚れた大地、少しばかり広がった国土だけ。現女王になってから戦争が増えたと聞く。
 そういう時代になったからか、星鍾教会は現在少々肩身が狭く、スノーラ山脈に位置する聖堂も一時を思えば少なくなり、閉鎖しているものもあるのだ。
 その内のひとつは、すっかり朽ち錆びた扉を開けるのに苦労した。冬場なら数時間で閉じ込められているだろう。しばらく前に誰かが訪れたのか、台の皿に蝋が白く固まっていた。レシュノルティアは中と周辺を確かめてから次の聖堂へ向かう。
 順々に聖堂を回る。先客が熱心に祈りを捧げているところにも遭遇した。そういう時は、新しい蝋燭に火を灯してやった。これで、先客が自身でつけた蝋燭が消えたとしても、しばらく凍えることはないだろう。
 やがて、太陽が沈み始めた。だが戻るにはまだもう少し時間があると判断し、想定していた道順から、ひとつだけぽつんと離れたところにある聖堂に立ち寄ることにした。
 黙々と石を踏んでいると、がらーん、がらーん、と鐘の音が聞こえてきた。星鍾教会という名の通り、この宗教団体の聖堂には必ず鐘楼が存在する。鉱石な豊富なこの土地に根付いたのは必然だったかもしれない。
 スノーラ聖堂の鐘は、山脈中に切ないような物寂しい音を響かせた。鐘はこだまになって不思議な和音を重ねていく。誇り高い猛禽が、きょろろ、と歌った。レシュノルティアは空に息を吐く。岩場を一気に乗り越えて見上げた空に、大きな翼を広げた鳥の声は、何かを誘う声や異界の声に響いた。
 冷えていく汗を拭い、足を進める。
 その聖堂もまた、雪と風で錆び付いた灰色の建物だった。しかし最初のものとは違い、扉は軋む音を立てながらもあっさり開いた。
 夕暮れと、採光の関係か、ひどく薄暗い。
 一歩踏み入ろうとして、レシュノルティアは足を止めた。
「…………」
 目だけで周囲を探る。耳を、鼻を使う。肌に触れる空気を掴む。
 鉄臭い。
 そのにおいをレシュノルティアは嗅ぎ慣れている。
 内部に何者の気配もないことを確認すると、レシュノルティアは一気に奥へ踏み込んだ。暗がりに沈む祭壇の向こう、星形を抱く十字架を見上げて、顔が歪んだ。
「誰が、こんなことを……」
 十字架に逆さ吊りにされて、女性が死んでいた。
 胸元からは彼女が吊るされているのと同じ十字架が頼りなく揺れていた。彼女がこの国の一般的な信徒だったことが分かる。
 聖堂でこのようなことをするのは、星鍾教会や星神シュリアに叛意を抱く者しかいないだろう。特に信仰心の厚くないレシュノルティアでさえ顔を背けたくなるような、残酷な殺人だ。
 早く、下ろしてやらねば。痛ましい気持ちで行動しようとした時、外から複数の足音が響いた。何者かと警戒したレシュノルティアの前で、人がなだれ込む。
 三人の男に一斉に剣を向けられ、レシュノルティアは反射的に自らも剣を抜くため半身を引く。彼らが一目で見て取った光景が一体どういう者だったのか、レシュノルティアは後から気付いた。十字架に吊られて死んだ女と、そこに佇む不審者。それは、被害者と加害者にしか捉えられないことに。
「……一介の巡礼者に向けるには、騎士の剣は物騒すぎやしないか、お前たち」
 金の肩章は騎士がつけるものだ。彼らの肩にそれを認めて告げると、少年のような顔立ちの騎士が怒声をあげた。
「黙れ! 姫をかどわかし、あまつさえこのように惨たらしく殺した者に対する礼儀などない!」
「私はたまたま最初に発見しただけだ」
「黙れ!」
 血気盛んな声に、レシュノルティアは短く息を吐く。
「……礼儀を知らんやつには、私も相応の礼をする」
 身を屈める。
 一瞬相手が消えたように錯覚した騎士は、奪われた剣の柄で殴られて昏倒した。
「っ!?」
 素早く相手に迫り、伸び上がった勢いで騎士の手から剣を叩き落としたのだ。
 その刃を一閃、身を翻しながら斬り込んだのを、もう一人の騎士はかろうじて受け止めたが、レシュノルティアが刃こぼれを恐れず刃を滑らせたことで、その音に怯んだらしく、回し蹴りで吹っ飛ぶ。
 最後に吠えていた騎士が残ったが、レシュノルティアは文句を言わせるつもりもなく、地を蹴って斬り込む。
 そこへ、別の気配が滑り込んだ。
「どけ、ミラン」
「っ!」
 攻撃を受け止めたのは、騎士の細身の件とは比べ物にならない大剣だった。レシュノルティアは相手の剣を避けて飛び離れたが、まるで木切れを振り回すように風を切った大刃が、鼻先をかすめる。
 呻いていた騎士たちが意志を持ち直し、立ちふさがった。
「どけ。罪を着せられるくらいなら、殺す」
 低く吐き捨てた。
「私の行く手を邪魔するなら、誰であろうと」
「……待て」
 大剣の主は声を上げた。
「お前、レシュノルティアだな?」
 レシュノルティアはゆっくりと剣先を向ける。名前を呼ばれたくらいで動揺したりなどしない。
「礼儀知らずに名乗る名はない」
「お前は俺を知っているはずだ。……ミラン、剣を引け! こいつは違う」
 大剣を納め、ずかずかと無遠慮く距離を詰めた相手に、レシュノルティアの方が慌てた。剣を納めることができず、相手の肩から首筋に刃が当たってしまう。しかしそんなことはおかまいなしに、男はレシュノルティアの頭巾を剥ぎ取った。
「こんなものを被っているから俺が分からないのだ。……俺が誰か分かるだろう?」
 明るい、灰色の瞳。
「ほら、俺を呼んでみろ」
 刀身に笑う瞳が映っている。
 呼ばねば離さないという力加減で身体を拘束されていた。レシュノルティアは剣を危険な場所に当てたまま、その名を引きつった声で呼ぶしかなかった。

「………………グレイ」

 嬉しそうに笑ったグレイの後ろから、鳥の声が響く。

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