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 現在はエルディアと呼ばれる王国には、南部から東部にかけて豊かな森が広がっている。ここに平原の国ファルムとの国境があって、少し離れたところにある村は猟師たちの集落だったが、エルディアのものになったりファルムのものになったりと忙しない。現在はエルディアの領土だ。
 その南の森の奥深くに、希有な力を持つ魔女が住んでいることは、限られた者にしか知られていない。



第2章 身代わりの血の色



 小鳥の声がする明るい場所。葉の緑は透き通り、木陰は涼しく、芳醇で清い水の匂いがする。常に光を撒いた明るさで、街中とは比べ物にならない清浄さだ。魔女の家は、そこにある何の変哲もない木造の小さな家だった。周りには菜園があり、日々食べる物の他に薬草などが育つ。
 青い花を見つけて、レシュノルティアは目を細めた。
 銀青花(レシュノルティア)だった。魔女の庭には、失われつつある花が当然のごとく微笑んでいる。
「レシュかい?」と家の中から声がした。
「そうだ。アザレア。入ってもいいか」
「お入りよ」と招き入れる声に従って、レシュノルティアは扉を開けた。
 薬草と香の匂いがしているはずの家の中は、平和とは言いがたい独特のにおいに満ちていた。手製の柵に青い布がいくつもつり下げられている。そこへ手を拭きながら現れたのは、小柄な老婆だった。腰が曲がり、目を下に向けなければ視線を合わせにくいが、少女のような無邪気な笑顔を向けてくる。団子髪には木の実の髪飾りを刺して、とてもかわいらしい。
「媒染か。窓を開けるぞ。身体に悪い」
「ああ、すまないね。外でやればいいんだが、家の中の方が暖かくて。ついでに掃除をしてくれるとありがたいんだけど、あんたの用事は早い方がいいね」
 きらりと光った緑の瞳に、頷いた。
 アザレアは、仕事部屋にレシュノルティアを呼んだ。薬草や干物、書物や古いまじないの道具が乱雑に置かれた部屋だ。片付けられているとは言いがたく、常に埃っぽく、紙や草や香のにおいがしたりと騒がしいが、レシュノルティアはこの無秩序の中の静けさが好きだった。
 魔女の部屋――この世から失われつつ神秘をとどめた場所。はったりのためだという巨大な水晶玉が光る音すら聞こえる気がする。それを覗き込めば、未来が見えるような。
「魔術師の行方を占ってもらいたい。報酬は、ここに」
 金貨二十枚の入った袋を置くと、アザレアは微笑んだ。
「律儀に持ってこなくてもいいんだがねえ。あんたは友達だし、あたしにいろんなことを教えてくれた。でも、受け取られないとうるさいのは知ってるから、貰っておこうかね」
 付き合いの長い魔女はそう言って袋を脇に置き、占い用の札を取り上げた。
「まだ魔術師を捜してるのかい」
「ああ。だが、定期的に痕跡が見えるだけで、この二十年は何の手がかりもない」
「あたしを訪ねてくればよかったのに。二十年は長いよ」
 レシュノルティアは笑った。
「私にもまだ長いさ」
 アザレアも寂しい笑いをこぼしてから、くたくたになるまで使い込まれたすり切れた手札を素早く繰った。彼女の札占いを見るようになって長いが、未だにこの手札の位置や順番を覚えることができない。
 アザレアに言わせれば、「魔術とは理解できる者にその道を指し示すものであって、理解しない者に道を開くことはない」という。よく分からないと言うと「信仰と同じだ」と比べてみせた。星鍾教会の信者のように、星神シュリアを信じる者には奇跡の力が認識できるようになるし、逆にシュリアを信じない者には、どんなこともただの現象でしかない、というのが、アザレアの魔術の解釈だった。
 占いは魔術の一種なのだという。札に現れた運命を読み解く術。直感という六つ目の感覚を使うものだ。直感くらいは自分にも備わっているような気もするが不思議な力ではなくただの経験則だから、と思うレシュノルティアには、やはり魔術が使える日は来なさそうだ。
 アザレアは伏せていた札をめくり、ふむ、と目を細めた。
「――魔術師とあんたは会うよ、近いうちに」
 レシュノルティアは作業のために太くなった短い指が示す札を、射殺す目で見つめる。
「魔術師の札が出た。ちょっと妙な札も出てるがね。あんた、最近何か変なものに会わなかったかい?」
「変なもの」
「男だね」
 ずばりの言葉に思い当たる姿があった。
 グレイと呼ばれる男。もう二度と会わないだろう人物が、まず最初によぎったのだ。
 アザレアの読解はその男を交えて思っても見ない方向に行く。
「その男がこの『鳥』の札。そいつが奇妙な位置にいてね、あんたと魔術師とそいつで綺麗に三角を描いてるんだ。そいつは魔術師と結びつきもあるし、あんたとの間にも何らかの強い結びつきを作ってる。あんたと魔術師は言わずもがなだね。で、この三者の結びつきを表すのが……おや、『愛』の札だ」
 めくってみてアザレアは心底驚いたようだ。
「……『愛』?」
 嫌な顔になったレシュノルティアに、魔女は上目遣いに笑う。
「親しい関係、家族や恋人を表す。この『鳥』の札の男には権力を表す札が出た。それから雪の札が出てるから、北に何かあるかもしれないね」
 雪を表す正六角形の模様。
 浮かんだのは、スノーラ山脈。そして、星鍾教会の聖職者にとって最も厳しい修練の場とされるスノーラ聖堂だった。エルディアの北部に広がる雪深いスノーラ地方には、星鍾教会の聖堂がいくつかある。時代が変わって閉鎖になったものも数多い。
 アザレアはにっとする。
「行く場所が決まったようだね」
「ああ。スノーラに行ってみる。あそこには打ち捨てられた聖堂がいくつかある。隠れて何かするならもってこいの場所だろう」
『愛』の札が出たというところが引っかかるが、とりあえず北に向かうのが最良だろう。雪山に行くにはちょうど旅装も整えられる懐具合だ。何か手がかりを見つけることができるかもしれない。
 と、不意にアザレアが笑い出した。
「その『鳥』の男、面白いやつのようだね」
 ほら、と差し出されたのは、渡したはずの報酬だ。中を見るように促され、袋の口を開いてみると、レシュノルティアは険しい顔になった。
 金貨の中に輝く、青い花一輪。袋の中には、重みに潰されることなく、まだ瑞々しい銀青花が忍ばされてあった。
 銀青花を見つけることがどれだけ難しいかというよりも、自分があのとき中身を確かめもしなかった迂闊さに気付かされてかあっと頭にきた。
 魔女は朗らかな笑い声をあげる。
「あんたに銀青花を贈るとはね! そいつ、あんたの名前の由来を知ってたのかね?」
「誰が教えるか!」とレシュノルティアはぎりぎりと袋の口を縛り上げた。

 旅の準備を整えるべく、すぐ街に向かおうとするレシュノルティアに、アザレアは自作の薬や茶葉といった細々としたものを売ってくれた。その最後に、伝統的な文様を青い色で染め抜いた護符をレシュノルティアに持たせた。
「銀青花の染めか」
 たった一人の友人からの贈り物だったのに、嫌な顔は完全に隠すことができなかったが、アザレアは明るい顔で笑った。
「確かに、今のあんたには銀青花にまつわるものはちょっとけちがついた代物かもしれないけどね。でも、あんたを守ってくれるよ。身につけておいで」
 ありがたくもらっておくことにする。魔女がそう言うなら、何か意味があるに違いないからだ。
「今度来る時は土産を持ってくる。何がいい」
 アザレアはちょっと考えて、ゆっくりと答えた。
「そうだね……銀青花がいいね。小さくてもいいから、花束にして」
「そんなものでいいのか」
 庭に咲いている、と言外に示すと、いいんだよと小さな魔女は頷いた。
「分かった。次に来るとき持ってくる」
「頼んだよ。忘れないでおくれね」
 いつものように家から出て見送ってくれる。彼女が出ると、何か用事があるのかと小鳥たちが集まってくる。木の陰から来訪者を気にしているのは鹿、興味津々に尾を振っているのは若い狼だった。久しぶりに訪れた森だから、もうレシュノルティアを覚えている獣もいないようだ。
 かつて繁栄した神秘の力は、五百年の後の世では人を呪ったり、いんちきな占いなどただ路銭を稼ぐ程度のものに落ちてしまっている。これが魔術の繁栄した時代ならば、アザレアは高位の術者として人々に歓迎された。だが、彼女は今この世、この場所での暮らしの方がいいと言うだろう。
 糸を紡ぎ、縫い物をし、薬や染め物を作っていく日々。たまに訪れる者を歓迎し、立ち去るのを送り出す。森を守り、平穏で温かな日々を送る、小さな家に住む魔女と、彼女を慕う獣たち。
 その光景は、まるで切り取った絵のように思えた。絵画を眺めているような、ずいぶん遠くにある風景であるような気がして、レシュノルティアは突然込み上げた不安に足を止めた。大切に抱えてきたものが、手の中で少しずつ解けていくような、そんな予感だった。
「またね、レシュ」
 惑う顔つきのレシュノルティアに、アザレアは皺だらけの手を優しく振った。

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