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 夜が明け、太陽が昇る。農牧を営む者たちが働き出し、商人たちが街道を行き、朝市が立って、街の住民たちが買い物をしたり仕事に出掛けたりと一日を始める。実行部隊のアクスたち、引っ掻き回した城内の経過を確認したアイサイトとマウスが戻ってきた。最後にミラーが戻り、レシュノルティアは全員無事帰還の報告を聞いた。
 任務成功の報告を受けて、依頼人の代理だという男が、グレイをかくまった宿に現れた。表地を見るだけで貴族と分かる高価な外套をまとった男は、レシュノルティアたちを卑しいものを見る目で見下ろす。
「おう、お前だったか」
「……グレイ様」
 無邪気に手を挙げて気安い声をかけたグレイの無事をみとめて、安堵の息を吐いた代理人は、厳しかった目を和らげた。
「ご無事のようで。安堵いたしました」
「すまなかったな。俺も、まさか帰り道に捕まるとは思わなかった」
「これに懲りてしばらくお一人で外出することを慎んでいただければと思います。……着替えを用意してございます。どうぞ、あちらへ」
 二人が会話している間、レシュノルティアは窓から外を見ていた。豪奢な馬車が一台、停まっている。紋章つきの馬車に乗ってくるような足りない頭ではないようだが、あれでも目立つだろう。
 だが、ならばグレイという男の身分は一体なんだ?
 別室に男が消えると、代理人の態度は元に戻った。くれてやる、という顔つきで報酬の入った袋を寄越す。
 考えるな、とグレイのことを頭の隅に追いやり、「トレーダー」と控えていた仲間を呼んだ。
 考える必要はない。もう二度と会わないのだから。
 にこにこ顔で進み出た小柄な男が、金貨の詰まった袋を受け取る。
 大事な、自分たちの生活費だ。旅には金が必要だった。移動手段にも、情報を手に入れるのも。身を守るための金銭は最低限。いくら何があっても死ななくとも、人間らしい生活を送りたいなら。
 最初は、剣の腕を磨きながら金銭を得て、処世術を身につけるために戦場に飛び込んだりもしたが、今はこういう仕事の方が割がいい。肉体的にも、精神的にも。報酬が高額になるとはいえ、人を斬ることは、できるならばやりたくない。
 それでも、剣を手放すことはできないだろう、とレシュノルティアは思っている。刃を鈍くしてはならない。あの黒衣の魔術師を斬るためには、剣はいつでも鋭くしておかなければ。
 袋をちょっと持ち上げて、商人トレーダーはにっこりとした。
「ちょいと足りはしませんかね? ……金貨二十枚ほど」
 代理人の顔色が変わった。そこまで正確に差分を当てられるとは思わなかったらしい。浅はかなことだ。
「誤摩化さない方がいい。トレーダーの感覚は正確だ。それに……我々を謀ると、祟るぞ」
 こういう時、レシュノルティアの存在は絶対的な効果をもたらす。染めていようがいまいが、戦場を経てきた青髪の女傭兵の噂は揺らぎようがないからだ。偽者が現れたところで、すべてその名に群がる者に殺されている。生き延びるのは本物のみ。ゆえに、青髪のレシュノルティアはこの世で一人。
 死神の名を思い出した男は、苛立った険しい表情で怯えを隠し、レシュノルティアを睨んでいた。
「ラディン?」
 と、別室に向かったはずの声が戻ってきた。扉を少し開け、振り返る貴族に優しい声をかける。
「報酬は、きちんと払ってやれ。なんなら俺のところから取ってもいい」
「でっ……グレイ様! それは」
「彼女たちは任務を遂行した。それに見合う報酬を支払うべきだ。……残りの金貨二十枚、すぐに用意しろ」
「は……はっ」
 一部も漏らさず話を聞かれていたらたまったものではないだろう。代理人は殊勝に頭を下げた。
 扉を閉める寸前、グレイはちらりと笑い、片目をつぶってみせる。レシュノルティアは顔をしかめ、目をそらした。





「残りの二十枚だ。すまなかった。ラディンは、あれはあれでいいところはあるのだが」
 レシュノルティアを指名して、近くにあるクレア湖という水場にわざわざ呼びつけた男は、そう言って困ったように肩をすくめた。
 髭を剃り髪を整え、衣装を改めた男は、こざっぱりとして精悍な印象の美丈夫に変貌していた。お仕着せの衣装、と言いたいところだが、前を開けた絹のブラウスと動きやすそうな脚衣という素っ気ない格好に、代理人ほど派手ではない高価な帯布を巻いているところは、悔しいがよく似合っていた。
 レシュノルティアだけが残りの報酬を受け取るために残っていたが、すでに仲間たちは散っていた。元々任務に応じて集まる者たちであるため、依頼主の背景にややこしさを感じた彼らは、余計な手を出される前に報酬を持って去ったのだ。
 離れたところでラディンと呼ばれた代理人が立っていて、レシュノルティアから目を離そうとしない。
 このグレイという男は簡単に死ぬのだ。自分とは違って。
「どうしてわざわざこんなところに呼びつけるんだ。傭兵と坊ちゃまが湖を散策、というわけじゃあるまいし」
 金貨の袋の重みを確かめて、レシュノルティアは言った。
「いや、口説こうと思って」
「…………は?」
「美しい空に、気持ちのいい風、光る湖。おあつらえ向きだろう?」
 のんびりと言って、湖に向かって小石を投げる。ぱしゃん、と水が笑った。
 レシュノルティアは低く言った。
「……殺されたいようだな」
「お前が欲しい、レシュノルティア」
 グレイは笑う。深く。
「俺のところに来ないか?」
「行かない」
「少し考えてみてもいいのではないか?」
 考えるまでもない。レシュノルティアは抜き身の刃のように声を放った。
「私は、誰のものにもならない」
「それでも、俺とお前が巡り会ったのは運命だと思うぞ」
 男は答えた。冴えた瞳に対して、男の灰色の目はきらきらと輝いていた。
 風が吹き、クレア湖は小さな波を作った。視界の端で、水面は銀色の光を揺らめかせる。水を求めた鳥が下りる翼の音がして、グレイが目を離した。そして、ぽかんと口を開けた。
「なんだ、あの鳥。銀色をしている」
 長い首を持つ水鳥は、磨いたような銀色に輝いて、世界の秘密を知っているような賢者の瞳でこちらを見ている。
「……銀白鳥」
「あれが!?」
 その羽根の輝きゆえに乱獲された渡り鳥。今では滅多に見なくなった希少種の鳥だ。昔、避暑に訪れた場所でこの鳥の群れを見たことがあった。このクレア湖でのことだ。銀色の照り返しを受ける、従兄の優しい横顔を見ていて……。
「……レシュ?」
 レシュノルティアは背を向けた。
 感傷を吐き出す。何もかも遠すぎた。ここで立ち止まってはならない。思い出に囚われてはならない。まだ魔術師は見つかっていない。あの魂を貫き消滅させるまで、この旅は終わらない。
 それでも思い出のなんと優しいことか。
「レシュ」
 追う声にレシュノルティアは振り返る。真剣な顔でグレイが求める。
「俺と来い」
 レシュノルティアは笑みを浮かべて言い放つ。
「もう二度と会うことはないだろう。せいぜい、長生きするんだな」
 人間とはそういうものだ。会おうとしなければ二度と会うことはない。レシュノルティアと同じ時間を生きることはない。気付けばいなくなって、探してもどこにもその姿を見つけられない。仲間である傭兵たちは今は銀青傭兵団を名乗っていても、五十年も経てばみんないなくなっている。
(ルガン)
 あの魔術師だけが、今もレシュノルティアを待っているのだ。
 だから、たった一度きりの依頼で出会った男に、別れの言葉を告げる気もなかった。そんな言葉など底をついている。もう一度会う気がないのなら、すれ違ったのと同じ。だからこうしていつもの別れをするだけだった。

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