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 レシュノルティアは地下へ駆け下りた。冷えた土と水、質の良くない蝋のにおいが漂っている。騒ぎに気付いたらしい囚人が、やってくるこちらを覗き込もうとしていた。ミラーがおかしなことを言っていたなと思い返しながら、牢獄を覗いていく。中にいるのは、恐らく街道で捕まったのであろう賊が一人。そして、最奥に一人。
 男がいた。手の届かないところにある窓代わりの通気口から、月の光が差し込んで、彼を照らしている。黒い髪、無精髭。きちんとしていれば見られる男だろうが薄汚れている。レシュノルティアはふうんと内心納得する。仲間が言ったことが理解できたからだ。
「お前が『グレイ』か?」
 こちらを見た男の目は灰色だった。
 そして、その目は面白い悪戯を見いだしたかのようににやりとしたのだった。
 救出対象は手枷の鎖をじゃらりと鳴らして近付いてくる。レシュノルティアは顔をしかめた。
(誰だ、坊々だと言ったのは)
 男の頭はレシュノルティアの遥か頭上にあり、移動の邪魔だからと担いで持っていけるような軽さではない。それに、と更に全身を眺め回す。
 薄汚れてはいるがこの男、恐らく強い。こちらを見る目に油断はなく、灰瞳は鋼のように強い輝きを持っている。ゆったりと首を傾けたところは穏やかに見えるが、それは獣が爪を隠した程度の優しさだ。
 触れれば噛み付かれるか引き裂かれるか。相手がただ者ではないことは想定外だったが、レシュノルティアは何も言わないことがかえって摩擦をうむと判断した。
「とある人物より、『グレイ』の保護依頼を受けた銀青傭兵団の者だ」
「……依頼?」
 眠たそうな鈍さで男が問い返す。
「確かに、俺がグレイだ。銀青傭兵団は聞いたことがあるが」
「……鍵、鍵! 俺も出してくれー!」
 レシュノルティアが鍵を開けてグレイの牢獄に押し入ると、背後で盗賊が叫んだ。
 男はそれを見て微笑む。
「……と、言っているが?」
「あれは依頼に含まれていない」
 レシュノルティアは剣を抜き、壁に繋がった鎖を断ち切った。一閃で、指二本分はある輪の連なりが半分になり、石の床を打つ。
「手を出せ」
 男は黙って従った。手首をつなぐ金属の板に刃を添え、短く呟く。
「鉄を溶かす炎の精霊の加護を」
 はっ! というかけ声とともに振り下ろされた刃は、板を見事に切断した。自由になった腕を動かし、男はぼそりと呟いた。
「見事だな。魔術か?」
「違う。ただのまじないだ。私に魔術は使えない。……それに魔術は、今は呪術と呼ぶだろう」
 かつて世界に満ちていた力は、今では人にもたらされた祝福ではなくいんちきや詐欺や呪いと同列で語られる。レシュノルティアがそれでもまじないの文句を口にするのは癖だった。これだからお前は生きている時代が違うなどと傭兵たちから揶揄される。
「では、行くぞ……っ!?」
 男の動きに気付いたレシュノルティアは抵抗しようと身をよじったが、伸びてきた手が頭を覆っていた布の裾を掴んで取り払った。すると、髪紐も緩んでしまったのか、布もろとも髪が音を立てて落ちる。
 あっと驚きの声が反響する。
「青髪……!?」
 忌々しいと睨み殺す勢いで振り向くと、盗賊は悲鳴をあげて縮こまる。落ちかかってくる青く染まった髪をかきあげて、レシュノルティアはグレイに向かって手を伸べた。
「返せ」
「嫌だ」
「……は?」
 何を言ってるんだこいつは、と顔を歪めるのに対し、男は嬉しそうに言った。はしゃいでいるのだ、とレシュノルティアは唖然とする。
「見事な青髪だ! 青い髪の人間なぞ初めて見た。お前の名は?」
「聞いたことがあるぞ!」
 盗賊が鉄格子に顔を押し付け、唾を飛ばして叫ぶ。
「青い髪の女の話! 戦場に現れる青髪の死神。そいつがついた国は戦争に必ず勝てるって話から、青い戦女神って呼ばれてる。でも敵対するやつらには青い死神って呼ばれてる女。不老不死の女剣士レシュノルティア……ひぃっ!!?」
 がちゃん! 目の前に投げつけられたものと音に、盗賊は飛び上がった。
 鉄格子にぶつかった鍵が、床に落ちた。
「――投げ銭だ、くれてやる。どへたくそな吟遊詩人め」
「あっ……ありがてえっ!」
「なんだ、優しいじゃないか」
「ただのおまけだ。逃げ出す手伝いはしない。兵を引きつけてくれればちょうどいい。お前、後は知らんからな。勝手にしろ」
 緊張なくにこにこするだけの男は、それでもなお頭巾を手放さそうとしなかった。結局、頭巾を奪い返すことを諦め、狭い牢獄からさっさと出る。そうして男を振り返り、宣言した。青い髪が視界の端をちらちらするのに苛々しながら。
「指揮官は、私だ。私の命令には従ってもらう。お前をここから無事に出すまでだから我慢しろ。その後はお前の好きにすればいい……何してる」
 男はレシュノルティアの脇をすり抜けて、牢番が使う机周りを物色している。そうして立てかけてあった剣を取り上げ、鞘を払うと、軽く振り回して答えた。
「一応武器が必要だろう? さて、指揮官殿。脱出経路はどんな?」
 これは阿呆なのか剛胆なのか。どちらでもいいが、不愉快だった。馬鹿にされている気しかしない。舌打ちし、答えた。
「正面突破だ」
 ふへっ!? と、外に出ようとしていた盗賊が妙な声をあげた。
 男は、口笛でも吹きそうな顔でにやりとする。





 兵士たちは翻弄されていた。火事の規模は大きいものではなかったが、それを消火しても、また別のところで火の手が上がるのだ。まるで、火の種が意志をもって、城内の人間をあちこち走り回らせているかのように。
 頻発した小火は、ついに取りこぼされて、決定的な火の手をあげた。刈り込まれていたはずの下生えにあっという間に燃え広がり、黒煙をあげるようになったのだ。
「火を消せー!」
「賊が、賊が忍び込んでいるぞ!」
 怒声と炎で兵士たちが駆け回る中、ある兵は思い出した。馬。厩舎の騎馬たちを確認しなければ。もしそこでも小火が起こってしまったら、大変な損害になる。彼は農家の息子で、畑と家畜が何よりも大事だった。厩舎に走り、馬の混乱したいななきを聞きつけた彼は、慌てて中の様子をうかがい……。
「うわっ!?」
 飛び出してきた二駒を寸でのところでかわした。呆然と見送った一騎には男が、先頭を行くもう一騎には青い色が見えた気がした。あまりにも驚愕したためにしばらく惚けていたが、はっと我に返って叫び声をあげた。
「賊だー!! 賊が逃げるぞーっ!!」



 騎馬を拝借した二人は、一気に城門へと走った。絶句の表情を浮かべた兵士たちが疾駆する二人を見送っていく。進行方向に人が立とうが、レシュノルティアは決して速度を緩めなかった。
 目の前に城門が立ち塞がる。門扉は固く閉ざされている。
「レシュ!」
 男が勝手に自分の愛称を呼んだことに苛立つよりも、レシュノルティアは馬を操ることに集中した。速くても、遅くてもいけない。何故なら門は開くからだ。必ず。後ろに続く男がここで怖じ気づいて手綱を引いたとしても、城門攻略を担当するアクスたちが男を回収して脱出してくれるだろう。そうして、レシュノルティアはグレイを臆病者と鼻で笑う権利を手に入れる。
 ここで止まるわけにはいかない。青い髪の魔物。戦場を駆ける青い魔性。この世で恐ろしいものなどない、不老不死の女戦士レシュノルティア。――それが、私。
 腰を浮かし、前のめりになって門を目指す。
 次の瞬間、アクスの斧が城門の木格子を、ハンマーの大槌が鉄格子を、ブレイドの大剣が行く手を阻む兵士たちを薙ぎ倒した。
 木屑や格子の破片は星屑のように宙を舞い、それを顔に浴びながら、レシュノルティアは門を突破する。
 視界が開け、空気が変わる。
 そして、耳がもう一つの蹄の音を拾う。驚いて振り向いた先に、にやりとした男の姿があった。
 ついてきたのか、手綱を引かず、この距離のまま。
 癪な気持ちで馬を駆る。
 そのまま二人は、銀青傭兵団の合流地点まで、沈む月よりも早く駆け抜けた。

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