<<  ―    ―  >>

 女王ミシェルは自国の正当な継承者を踏みにじったとして、ディピアと戦うことを宣言し、同日には国境城塞に援軍が到着していた。まるで軍を指先として扱うような、意志と呼応する素早い機動だった。対するディピア軍は援軍こそ未到着なものの、相手国の王子というあまりに大きい生贄のおかげで、高みの見物を決め込んでいた。
 レシュノルティアは、兵士に連れられてその夜も城壁の上にいた。歩くたびに手枷が鳴る。鎖は兵士に引かれていた。
 この散歩はジョシュが義務づけたものだ。レシュノルティアがディピアについていることを知らしめよ、という措置らしい。それだけで傭兵たちの士気が下がるというが、本人にとっては眉唾物だ。
 報酬は弾む。ディピアにつかない? ――ジョシュは真剣な表情でそう訊いた。
 答えられなかった。
 報酬次第でどこにでもつき、剣を握ってきたレシュノルティアだったが、この時は何故か何も言えなかった。相手側に顔見知りがいても、それは仕事なのだから仕方がないし、金の重みで自身の位置を決めてきたつもりだった。そうして裏切られてきたし、仲間がそうすることを認めてもきた。
 問いかけに答えず不機嫌に目を細めたレシュノルティアに、ジョシュは言葉を重ねることなく手を引いた。ただ、そこで妥協はしなかった。壁沿いを歩いて、エルディア軍を威嚇しろと言ったのだ。
 可哀想に、為政者として申し分ないはずのタレオが、たった一人の存在で取り乱し暴君と化しては、彼も本来の力を発揮することが適わないだろう。
「何故ディピアにつかなかったんです?」
 背後の兵士が聞く。
「さあな」と肩をすくめた。
 誇りを踏みにじられたグレイの姿を思い浮かべていた。すると、身体の深いところから黒々とした熱が沸き起こってくる。高揚感。怒りによる冴えた意識は、剣を握る時を待っている。
 レシュノルティアは森の闇に視線を投げ……そこに潜むものの気配に、にやりとした。
「さて――仇を、討とうか」



 緊迫していた戦端がついに開かれたのは、エルディア王子が磔にされてから四日目のことだった。
「うあっ……」
 城壁を警護していた兵士が矢を受けて落下する。
 異変に気付いた者が警鐘を打ち鳴らした。
 夜の静寂が破られたのと同じくして闇から無数の矢が飛来し、身を晒していた兵士たちが撃ち落とされた。
 みるみるうちに城壁に迫ったエルディア兵は、鉤縄やはしごを掛け、攻略に乗り出す。
 最高の人質を、最低で最も効果的に晒していたディピア兵たちは、エルディアが攻めて来るはずがないと奇妙な安心感にあったため、初動が遅れた。彼らがようやく組織立って敵軍を迎え撃とうとしたと同時に、侵入したエルディア兵によって城門が開かれてしまっていた。


 ジョシュは青ざめる己を律しつつ、指揮を執っていた。自分も、王子を人質にした状態で相手がこれほど過激に戦闘を開始するとは思っていなかったのだと気付き、迂闊さに歯ぎしりする。
「アウエン王子はどうした? レシュノルティアは?」
「え、は……」
 誰も思い当たらなかったらしい。狼狽える騎士たちに苛立ちながら、暗く笑った。
「レシュノルティアはただの伝説じゃなかった、ってことか……」
 胸を焦がすこれが喜びなのか憎しみなのか分からない。だがきっと、どちらもだろう。あれは、自分たちが愛してきた、戦いと死の女神なのだ……。
 王の脱出を最優先させ、ジョシュは早足に王子がくくりつけられている城壁へと向かった。あの場所に至るにはいくつかの塔を登っていかねばならない。敵が辿り着くにはまだ少し時間がかかるはずだ。
 果たして、そこには杭があった。
 しかし侮辱された王子はおらず、女神の加護を受けた男が王者のごとく外套をまとい、その青く美しい戦女神とともに、剣を持ってジョシュを迎えた。
 行く道々には斬られた兵たちが横たわっている。誰の仕業かは明白だった。血で汚れたドレス姿で立つ女は、物語に歌われるにふさわしく禍々しい美しさで立っている。
「……まさか、こんなにあっさり攻めてくるとは思わなかったよ!」
「私もいつも一人で仕事をするわけではないからな」
 仲間がいたのか、とジョシュは顔を歪めた。タレオの来訪で緊張と警備が緩んでしまったことは否めない。恐らく、その時に紛れ込まれてしまったのだろう。彼女の見張りとすり替わり、剣を与えたのだ。
 魔物に牙を持たせれば、後は喉笛に噛み付かれるだけ。
 ジョシュは掠れた息で笑って、呟いた。
「そう、君を愛する人たちが、君を助けたわけだね。君の伝説を愛してきたのは、僕だけじゃない……」
 ――そうして、女神はその加護を隣にいる男に与えるのだろう。
「……何の話をしている?」
「君に憧れ、君の夢を見てきた人間は多いってこと」
 ジョシュが目を向けると、王子はわずかに笑った。彼も同じ秘密を抱えているのだろう。こんなところで同士を見出すとは思いも寄らず、笑みをこぼした。
「僕を殺す? いくらアウエン王子が解放されたからと言って、エルディアが勝てるとは思わない方がいい」
 レシュノルティアは凄絶に美しい笑顔で、血糊が拭き取られた瑞々しい刃を向けた。
「お前は、グレイの誇りに傷をつけた。それはあがなってもらわねばならない」
 気高い憎しみだ、とジョシュは思った。
 だが、当の王子が顔をしかめる。
「ディピアは最も効果的な方法を取っただけだ。別に恨んではいない。喉が渇くのには参ったが」
「お優しいことだ。だが、私は許さない」
 ジョシュは軽く噴き出した。平然と恥辱を許す王子と、言葉は丁寧ながらも殺意を剥き出している娘は、本当は役割が逆じゃないのかと思うくらい不自然でいて、何故かとても微笑ましくもあったのだ。
「殿下。彼女の言う通りです。あなたには僕を殺す理由があります」
 グレイが不思議そうな顔をし、困ったように頭を掻いた。
「貴公の功績は聞いている。両国が今日まで戦争を始めずに済んでいたのは、貴公の口上手のおかげだろう? 俺を磔にしたのは、俺と女王を嫌っているタレオ陛下だし……俺が手にかけないことで優秀な指揮官が死なずに済むのなら、俺としては大変助かるな」
 そして声を潜めた。
「俺が王になった時、ちょっと手を貸してくれないか? それからそちらの王子が王位に就いた暁には、補佐官にでもなって橋渡ししてくれると助かるのだが……」
 ジョシュはしばらく沈黙した。うまく反応ができなかったのだ。理解しようともなかなか頭に入ってこず、浮かんだのは何を言っているのだろうという疑問だったが、結局、腹の底から湧いてきた思いに堪えきれず、爆笑した。

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―