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 血相を変えた騎士は一瞬状況にたたらを踏んだものの、押し殺した声で報告する。
「――タレオ陛下がいらせられました!」
 ジョシュは絶句し、レシュノルティアは目を見開く。
 王の歩みは速かった。物々しく騎士たちを引き連れて、タレオは姿を現した。
 ディピア国王タレオ。森の国を統べるにふさわしく、木こりや職人のように無骨で寡黙、堅実な王であると評されているが、動きが鈍いと揶揄もされる。その評判通り大木のような身体をゆったりと運び、膝を折ったジョシュを見下ろした。レシュノルティアは目を向けられたが、自分はこの王に膝を折る義務がない。左手を縛られたまま、傲然と顔を上げて視線を跳ね返す。
 小粒な瞳が細められた。
「メルノ伯、この者は? 青い髪をしているが」
「国境で捕らえた傭兵です。青い髪の、レシュノルティアにございます」
 ほう、とタレオはまばたきで驚きを示した。まるで年寄りの牛のようだった。あのグレイを嫌っているとは思えない穏やかな重みだ。
「お前の口から名を聞きたい。名は何と申す?」
 偽名を名乗ればジョシュの首が飛ぶだろうか、とも考えたが、無駄な抵抗だと思われるのが癪だと感じ、正直に答えた。
「レシュノルティア・ラクエル」
「ジョシュ。お前が初陣の時に会ったというなら、この女の年齢が合わないが?」
「レシュノルティアは不老不死です。恐らく、見た目は年を取っていません」
「……本当に?」
 銀から青に濃くなる髪をして、目は荒み、獣に似た凶暴さは隠せない。よく見ればただの女ではないが、不思議に思ってしまうのはタレオだけではない。彼らの目に映るレシュノルティアは、例えそうは見えなくても十七歳の少女のままだ。
 だが、国王はジョシュに信頼を置いているらしい、納得した様子で、一人分の名が書き込まれた証明書を見遣り、言った。
「署名せよ、レシュノルティア。お前はディピアのものとなる」
「お断りする」
 顔を上げ、言い放った。
「私は、誰のものにもならない。ディピアの王のものにも……エルディアの王子のものにもだ!」
「ひあっ」
 妙な声が、した。
 それがしたたかな青年指揮官のものであると気付くまでに時間がかかった。小動物を握りつぶすような、恐怖する子どもみたいな声を訝しく思った刹那、対峙していたディピア王の気配が、みるみる膨らんでいくのに戦慄する。
 タレオの目は燃えていた。
「あの女の息子が、ここにいる、だと……?」
 ジョシュ!! と怒鳴り声で呼びつけると、青年は白い顔でうなだれた。
「何故俺に言わぬ!!」
「……あとで、ご報告申し上げようと……」
「――殺してくれる」
 唐突な宣言にレシュノルティアは慄然とし、ジョシュや騎士たちは血相を変えた。
「お止めください、陛下!!」
「どうか、どうかお怒りをお鎮めください」
「アウエン王子はミシェル女王ではございません! 理由もなく手にかけることなど、エルディアがディピアを攻める理由になってしまいます!」
 周囲の騒々しさで、レシュノルティアは冷静になってきた。タレオは、怒りに目がくらみ、何をも許すことのできない憎しみに支配されている。
「ならば、理由を作ればよい」
 ああ……と悲嘆な声で首を垂れる臣下たちの前で、タレオは聞く耳を持たずに身を翻していく。騎士たちがなんとか事を収めようと走っていき、嵐が去ると、ジョシュはがっくりと力をなくし、レシュノルティアを責めた。
「なんてことを言ってくれたんだ。あの方にミシェルとアウエンの話題は禁句だったっていうのに!」
「凄まじい怒り様だな……ということは、あの噂は真実か」
 ジョシュの顔が引きつった。
「ミシェル女王がタレオ王を袖にしたという……」
「陛下の前で同じことを口に出来ると思わないことだね。いくら君でも首が飛ぶよ。いくら死なないあなたでも、さすがに何度も殺されるのは嫌だよね?」
 僕だって嫌だ、とジョシュは身体を震わせたが、部屋の外から響く声にげっそりした顔をすると、レシュノルティアを部屋に監禁するように命じて急いで国王の元へと向かった。
 とりあえず、レシュノルティアは、結婚をまぬがれたらしかった。


 紅の空に、紫がかった雲がたなびいていた。レシュノルティアは砦をぐるりと囲む城壁に連れ出され、エルディアの領土を見下ろしていた。着替えさせられたドレスの裾から触れる風に居心地の悪さを感じながら、城に控える数千の兵士を意識する。甲冑に、夕陽の橙色が鋭く反射している。
 やがて、男が引きずられてきた。
 アウエン・グレイだった。
 タレオ王の怒りはどうやら収まるところを知らなかったらしい。ジョシュはタレオのなだめ役に奔走したが、実を結ばなかったようだ。おかげでその隙を縫ってやってくる者もあったのだが。
 グレイは少しやつれてはいたが、変な痩せ方はしていなかったし、服装も綺麗なもので、拷問の跡はないようだ。少し胸を撫で下ろす。
 向こうもこちらに気付き、ちらりと笑って肩をすくめたが、その動きを咎めて彼の手首の鎖が鳴らされた。
 歯を噛む。通常ならば縛り首が妥当であるはずのレシュノルティアがそれを逃れて、他国の王子であるグレイが貶められている。
 グレイはそのまま、城壁の最も高く、最も地上から目立つ場所に立てられた杭に縛り付けられた。レシュノルティアは算段する。今ここで兵士を殴り倒して剣を奪い、城壁を駆け抜けて塔へ登って、彼を助け出して脱出できるか。
(私ひとりでは無理だ……)
 悔しい。戦女神よ死神よと恐れられているのに、男一人救うことができない。
 彼の表情には何もなかった。無感動とも言えた。歪みもないし、怒りもなかった。凪いだ水面を思わせる静けさは、タレオの暴挙を糾弾するようだ。
 このままでは戦争が始まる、とグレイが今考えているだろうことをレシュノルティアも考えた。
 エルディアが黙っているはずがない。グレイを傷つけるつもりがなくただ辱めるための行為であったとしても、自国の王子をこのように扱われて王宮も国民も許すわけがない。武器を作り、戦うことを誉れとするエルディアの民ならば、剣を取って報復するだろう。
 しばしの時間が過ぎた。エルディアから捕虜の迎えにきた者たちは、城壁に立つものに気付き、絶句していた。本来ならば速やかに受け渡されるはずの王子がそこにいるのだから何も言えまい。
 空を裂く音が響き、地に矢が立つ。
 馬がいなないた。そのまま馬首を返し、彼らは城塞に引き返していった。
「戦争だ」とレシュノルティアは呟いた。
 血が流れ、大地が汚され、風が泣く。死体の山が出来上がり、魂は星になって選別される。輝くか、流れて落ちるか。
 だが人の魂は星になどならず、消えていくだけ。魔術師はそう言うだろうと、レシュノルティアは青い瞳で天から降る夜を迎えた。

 エルディア・ディピアの国境戦争が始まろうとしていた。

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