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捕虜の待遇は、国や指揮官によって異なる。捕虜には虐待を伴わない程度の尋問と最低限の食事を与えることを定めているのはエルディアと始めとした西方諸国。だが、あちこちを見て回ると、それが本当に実践されているか怪しいと思うようになる。
牢獄とは、場所によってずいぶん違うものなのだな、とグレイは思った。
投獄は二度目だが、前回のファルム国境城塞とは待遇が真逆ほどに違う。炭を入れる暖房器具があるから末端が冷えて腐り落ちることを心配しないで済むし、不浄も同じ部屋で済ませる必要もない。何より、まず最初に、必要なものがあれば声をかけてほしいと言われたところから違う。いくら彼らがこちらの素性を知っているとはいえ、あまりの良待遇に感心した。
しかし、やりにくかった。グレイの対応に出るのは、騎士の身分を持った騎士の若者たちだ。上層部に不満を抱きがちな一般兵と会話する機会がないことはつまり、彼らの協力を得ることが難しく情報を得にくいということ。身動きしづらいことこの上ない。
別の場所に連れて行かれたレシュノルティアが気になった。
戦慣れしている彼女のことだから、うまく立ち回れるとは思うが、やはり、グレイの目から見ても、レシュノルティアという女は青い髪をしただけの美しい娘だったのだ。
(この城塞の指揮官は誰だったか……)
夜陰に乗じて襲撃する作戦は失敗に終わっているはず。あの騒ぎがエルディア側に知られていないはずがない。護衛騎士たちも主君が戻ってこないことに気付いているだろう。ディピアの指揮官が、どのようにアウエン・グレイ王子を人質として扱うかが問題だった。
グレイは騎士を呼んだ。
「この城塞の指揮官殿と会いたい。取り次いでもらえないだろうか」
傭兵として聞きかじり、体験した情報をつなぎ合わせて行くと、西方の捕虜の扱い方はまだましな方、と聞いていた。だが、何故か城の地下や離れた塔ではなく、城塞の内部に連れてこられたのか、レシュノルティアは理解できなかった。
(私が剣を使うことは兵から報告があるはず。なのに枷をはめただけで、目隠しもさせずに城内を歩き回らせるなんて、指揮官は馬鹿なのか)
この城塞には十年ほど前、傭兵として入ったことがある。逃亡経路、グレイが囚われているであろう高貴な虜囚の部屋は、こうして歩いて垣間見えるものでおおよそ把握できてしまった。レシュノルティアがそういう能力もないただの女だと侮られているのかもしれない。
少し工夫すれば外れそうな手錠を鳴らし、城の上階の一室に引いてこられた。
扉が開かれる。
壮麗な部屋だった。巨大な牡鹿の剥製、小さな狼の毛皮をつなぎ合わせた絨毯、金の杯、陶器の壷、刺激的な色の油彩画。金箔を貼った家具に座っている、秀麗な男。
(馬鹿の方か)
男はにこにこしながら兵士に廊下に控えておくよう命じた。やはり馬鹿だ。レシュノルティアが何も出来ないと思い込んでいる。閨に侍る娘でも髪飾り一つで暗殺が出来るというのに。
指揮官は、明るい茶色の髪に無邪気な緑の瞳をした優男だった。柳のように揺れる柔軟さと、破滅的な享楽さを表情に見た。
男は言った。
「ねえ、僕のこと、覚えてない?」
頬をなぞるような言葉に、くすぐりは覚えなかった。息を呑み、次の瞬間後ろへ飛び退いて、相手をねめつける。呼吸は自然と速くなった。まったく何も感じなかったのが、口惜しい。
覚えている。――忘れられない。
「まさか、ルガ……」
「ジョシュ・メルノだよ! 覚えてない!?」
弾けるような笑顔を押し付けられ手を取られた。レシュノルティアは、すべての音を出し切れなかった口のままぽかんとする。
「あれはよく晴れた日だったね……初陣を迎えた僕は、その蒼穹に目を回しそうになりながらも、必死に大地を踏みしめ……」
男の歌うような語りに、理解がようやく追いつく。長く無駄な部分が多い思い出語りから要点を拾っていくと、いつかディピアとその東国イバルトとの戦争で初陣を迎えたこのジョシュという男を、戦線に参加していたレシュノルティアが助けた、ということらしい。
つまり、これは、魔術師ではない。脱力する。
紛らわしいわ馬鹿野郎。
「というわけで覚えてない?」
「ああ、まったく!」
名前も今初めて知ったくらいだ。虫を払うようにあしらったレシュノルティアだったが、ジョシュはくじけなかった。ああっ! と喜劇のように頭を抱えて苦悩してみせ、そして勢いよく顔をあげた。
「でもここで会えたのは運命だと思う! というわけで国へ帰ろう。すぐ帰ろう! そして結婚式を挙げよう!」
「断る」
「陛下もきっとおよろこびになる。青い髪の戦女神が自国にいれば、ディピアに常に勝利をもたらすだろうしね!」
にっこり笑って告げられた言葉に、呆れ返っていたレシュノルティアは表情を消した。言動に惑わされていたことに気付き、緑の瞳に卑しいくらいの知性を見る。
この男は、この国境を防衛する指揮官なのだ。見た目や言動が、中身と一致しているはずがない。
「青い髪の女戦士レシュノルティア。君がついた国は負けなし。どんな不利な状況下でも必ず勝利を収める。そのせいで国境線が変わることもしばしば……という伝説を、君は知っているかな?」
「偶然だ」
事実は違う。レシュノルティアは何度か敗北を味わっている。
ジョシュはにっこりした。
「その通りだろうね。青い髪の女戦士が戦場に立つ、という事実が、その伝説を作り上げたんだろう。恐らく君は負けたことがあるし逃走したこともある。君の伝説を信じる人々が、君の勝利だけを寄り集めて、勝利の女神としての像を作り上げた」
「そこまで分かっていて、どうして私を捕らえる」
「それでも望んでしまうのが人の心というものだからだよ!」
ジョシュの手がレシュノルティアの顎をすくいあげる。顔を背け、横目で睨むレシュノルティアに、ジョシュは優しい声を出した。
「あなたに恋をしたのは本当なんだ。剣を持つ僕たちは夢を見る……青い髪のレシュノルティアの夢を。そして僕は、その思いに従って君を手に入れただけ」
男の顔が近付き、総毛立つ。おぞましい。喘ぐくらいに心臓が急いた。
「触るな……!」
「捕虜にした君の連れは、どうしようか?」
レシュノルティアが腰を落とし行動を起こす前に、ディピアの指揮官は囁きかけていた。
顔は歪まなかったが、心は乱された。
その時だった。唇に熱が掠めたのは。
合わせるのではなく、ほんの少し触れたという程度だったが、気色の悪さは尋常ではなかった。
そう思ったとき、拘束されていた両手首が、発作的に相手のこめかみを狙っていた。
だが大振りの攻撃は、足をすくわれ身体もろとも床に打ち付けられて阻まれてしまう。
押さえつけられ、乱れた髪の間から目を爛々とさせるレシュノルティアにジョシュはくすくす笑って手を叩き、騎士や兵を呼んだ。
まっすぐ、低く、呪いの言葉を吐く。
「後で見ていろ」
「ふふ。そう簡単にいくかなあ?」
入ってきた騎士が何かを捧げ持っている。箔押しされた薄紙は、レシュノルティアがつい最近見たものと同じもの。牙を剥き、憎々しいそれを呼んだ。
「結婚証明書……!」
「さあさあさあ! さっさと署名しちゃいましょう!」
男はさらさらと自身の名前を流麗に記してみせた。レシュノルティアは紙を破らないように片手を後ろに縛られ、筆記具を握らされる。そのときジョシュは筆記具の尖端が届かない場所に避難しているような周到さだ。身体をよじって抵抗するが、この状態が続けばどこかに縛り付けられ、軽い拷問を受けるだろう。
もしくは、グレイに危害を加えられる。ジョシュが口にした言葉はそういう意味だ。
(だから嫌いだ。無償の好意なんて!)
その時「申し上げます!」という叫び声とともに騎士が扉を開いた。
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