<<  ―    ―  >>

 思考が止まる。
 息を呑み込む音は悲鳴のようになった。グレイは一人で納得している。
「好きだったからいじめたのだなあ。お前が構ってくれるのが嬉しくて仕方なかったが、素直に表現できなかった。その果てに、お前を永遠に所有できる方法を取ろうとしたわけだ。魔術師にとって、お前だけが自分の思い通りにならなかった人間だったか、それともそいつの何かを救ったのかもしれない。ともかく、魔術師はお前が欲しくなり、暴挙に出た。……たいそう、歪んだ人物だな」
 レシュノルティアは呻いた。そんなもの、気付きたくもなかった。
 あれほどまで追いつめて、何もかも奪って、五百年も生かして。その理由が『好きだから』ならば、馬鹿にしているにもほどがある。ふざけるな、と呟いた。ふざけるな、お前はひどい。お前は――。
「まあそれでも……俺は、お前を渡すつもりはないがな」
 にっと笑顔を向けられた。どきっと心臓が鳴り、それまで震えていた感情が急に裏返しになった。凍えるほどの熱は胸を締めつける鼓動になり、首筋に、頬に、薄紅の花のような色を伸ばしていく。
 自身の変化を追いきれず、目をそらした。唇を尖らせ、低く呟く。
「……そういう意味に取れるんだが」
「そういう意味で言ったのだ」
 グレイが耳にくすぐったい声で笑っている。レシュノルティアは真っ赤になっていく顔で考えた。多分、これは好き合っている者同士の会話だ。いたたまれない。
「言っておくが本気だぞ。それほどお前に思いを寄せるような人物なら、メルノ伯や、アイサイトたちを交えて一度語り合ってみたかった気はする。友人になれたかもしれないな」
 どうしてそこでジョシュやアイサイトたちが出てくるのだ。
「想いの強さで負けるつもりはないが」
 問いかけようとした言葉は沈黙になり、代わりの言葉を口にした。
「………………斬っていいか」
「斬れるものなら。でも、そうか。お前はその人物のおかげで、ここにいるのだな……」
 五百年の仇に対して遠く優しい目で思ったグレイに、レシュノルティアが冗談の判別ができず、手袋で首を絞めてやろうかと悩んでいるところで、ようやく兵がやってきた。
「行こうか、妃よ」
「はあ。……ええ、殿下。参りましょう」
 声を変え、口調を変え、動作まで変えて優雅に手を取らせると、グレイはまじまじとこちらを見下ろした。
「……毎回思うのだが、お前、傭兵をやめて本当に王子妃にならないか?」
 レシュノルティアは顎をあげる。傲慢で自尊心の高い姫君の顔で、嬌態な微笑みを浮かべた。
「黄金次第ですわね、殿下」
「金貨二十枚かな」
「銀青花もつけてね」
 肩をすくめ笑いを噛み殺しつつ、足を進める。
(不思議だ。あの時の続きのような気がする)
 ヴァルク伯爵の夜会。美しいドレスを着て、従兄に手を取られ、広間の中央で踊った。いつまでもこうしていたいと、レイアスの瞳を見て微笑んでいた十七歳のレシュノルティア。
 だが落とした視線の先には、無骨な武人の手が、手袋で隠した女剣士の手をしっかりと握っている。
 大広間の扉が、開かれる。
 そこは、王国の中心と呼ぶにふさわしい絢爛たる光に満ちていた。高貴な人々、高価な食器、香しい蜜蝋と輝く燭台。しかし、ぎらつきと呼ぶにふさわしい闇を孕んだそれら。陰謀と策謀の舞台。
 現れた王子と王子妃は、客たちの注目を浴びた。だがグレイは堂々としていたし、レシュノルティアも平然としていた。戦場で手を滑らせて武器を落とすことに比べれば、人の視線になど震えもしない。上品な微笑を浮かべて、彼らと同じ舞台に上がる。
「陛下のお出ましでございます」
 侍従が告げる。
 貴族たちの先頭で膝を折って、レシュノルティアは不意に、ぞわりと鳥肌を立てた。何故だろう、錯覚のはずだが、広間が急に暗さを増した――寒気がする。
 小さく吐息する。心臓が、やけに皮膚に近いところで打って、耳の奥で響いている気がする。足が震えていた。しばらくこんな風に臆したことはないのに、どうして緊張しているのか、分からない。
 こつん、と可愛らしい靴音がした。こつ、こつ、と女王にふさわしいしなやかな歩みで、女王がドレスの裾を引きずってやってくる。そのドレスが黒色であることにレシュノルティアは驚いた。周りの光を飲み込んでしまいそうな深い黒。グレイが顔を上げ、レシュノルティアもつられて女王を見た。
 黒髪に灰色の瞳をした、美しい女性だった。とても四十を越えたようには見えない、今もあでやかに咲き誇る華麗さ。優美さ。
 なのに、レシュノルティアは、凍り付いた。
 女王は、息子によく似た、しかし女性らしい清らかな美貌で、ゆっくりと微笑んだ。

「ああ――やっと、会えたね」

 がぃん! と剣が鳴った。
 打ち合ったのはレシュノルティアとグレイだ。レシュノルティアが薙ぎ払った短剣を、グレイの大剣が受け止めていた。
 レシュノルティアは穴のように目を見開いたまま、ドレスを絡げて女王に飛びかかった。
 女性たちから悲鳴が、男たちからどよめきが上がった。
「レシュ!? 何故女王に剣を向ける!?」
 地を蹴り、剣を振り下ろす。グレイがそれを防ぐ。女王は少しも動じず、腕を組んでそれを見ていた。微動だにしないし、微笑も麗しいまま崩れない。その笑顔が仮面で、歪んでいることをレシュノルティアは知っている。
 お前が、そうなのか。
 一目会えば分かると思った。予感した。世界のどこかで待っているのだと、結びついた魂を辿ってきた。
 ――それがどうしてこんなところで繋がってしまう?
「お前があああああああ――っ!!!」
 女王の灰瞳が、魔物の色に輝く。
 鋼が鳴る。痺れる腕も息苦しさも、骨まで焼く憎しみには甘いくすぐりでしかない。だが、例えレシュノルティアに戦う力があっても、いつもの片手剣ではない状態で、更にグレイを相手にしては、切っ先は女王には届くことはない。これ以上打ち合っていれば負ける。壁が、大きすぎる。とても崩すことはできない。
 崩すことは、できない。
「レシュ……レシュ!!」
「呼ぶな! 私を、呼ぶな……!」
 定まらない剣の先で、グレイの瞳は混乱に揺れていた。だが、こちらの殺意が本物だと知ると、女王を殺されるわけにはいかないとぎらつき始めた。彼にとって、そこにいる魔物は母親で、この国から失われてはならない女王なのだと、噛みちぎった唇の痛みの中で理解する。
「私の邪魔を、するな」
 碧眼で魔術師を睨みつけ、レシュノルティアは短剣を握り直した。
 そのまま、時が過ぎる。あらゆる攻撃を予測した。様々な殺害方法を考えた。どうすればこの刃が魔術師に届くのか。どうすれば。
(どうすれば、この男を殺せるだろう――)
 貴族たちは逃げ、広間には剣を握る者たちと女王だけが残っていた。駆けつけた近衛騎士たちはすでにレシュノルティアの退路を断っている。背を向ければグレイがレシュノルティアを捕らえるだろう。女王に剣を向けたレシュノルティアは、例えグレイが庇い立てても罪に問われる。
 もう、前へ進むしかない――憎しみの果てへ行くしか。
「レシュ、何故だ……」
 問いかけるグレイは、勘のいい男だ。思い当たらないはずがない。そこにいるのが、レシュノルティアが追い求めてきた仇だということに。
 だが魔術師はこの男の母親で、この国の女王だ。
 だから、何も答える必要はなかった。私が殺すのはお前の母で、お前の母になっている者がおぞましい罪を犯したことがあるなどと、説明の言葉を重ねる意味はない。
「お前に言う義務はない」
 お前が傷つく必要はないんだよ、グレイ。
「私を殺しにきたんだね。美しいけど憎しみの固まりでしかないレシュノルティア……」
 まろみのある声が、高みから呼びかける。
「でも……ねえ、アウエン。私の敵はこの国の敵、そうでしょう?」
 グレイの切っ先が揺れる。レシュノルティアもびくりとし、怒りに目を見開く。母親が子どもを呼ぶ甘い声は、レシュノルティアの心を嬲る。声で撫でられた心臓が、耐えきれないとばかりに震えた。
 人を獲物にする魔物に冠がかぶさっているなんて。
 かつて自分の故郷だった国は、名を変え、今はあの男のものになっている。この国は、エニア王国だった。家族を奪うばかりでなく、魔術師はレシュノルティアの故郷までも奪い取ったのだ。
 次の瞬間レシュノルティアは剣を投げた。
 短剣は女王の近衛騎士の肩に突き刺さり、騎士は剣を取り落とした。落ちた剣を奪い取ると、彼らに向かって刃を薙ぐ。騎士たちの囲みが距離を取ると、レシュノルティアは飛び離れ、背後から斬り掛かってきていた剣を振り払った。強い剣撃は騎士の手から剣を弾き飛ばす。
 文様の美しい大理石の床を刀剣が滑り、広間にはつかの間の静寂がやってくる。
 グレイは動かない。魔術師も。
「……剣を」
 そこで絞り出された声は、グレイのものだった。
「レシュノルティアの剣を、ここに。女王近衛の剣で、陛下を殺されるわけにはいかぬ」
 すぐさま持ってこられた剣は、確かにレシュノルティアのものだ。刃は五百年前と同じものではないが、使い込まれ、手に馴染んだ柄は、従兄レイアスのもの。いつかレシュノルティアを救った、魔術師を滅するにふさわしい剣だった。
 グレイが剣を構える。
 レシュノルティアに剣を与えたということは、そういうことだ。
 まじないを唱えた。
「――どんなことにも揺るがずあらゆるものを断つ、鋼の精霊の加護を、この剣に」
 次の瞬間、レシュノルティアは地を蹴った。――言葉はいらない。
 魔術師を殺す、そのことに誰かが立ち塞がるならどんな相手だろうと殺す。それが五百年かけて得た、レシュノルティアの覚悟だった。

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―