月が綺麗だ

 ちょっと玄関から表に出た瞬間、口からはひいいと悲鳴が飛び出した。冷気を含んだ秋終わりの夜風。木々はシルエットになってがさがさと音を立てている。顔が冷たくなるのを覚悟して、佑子は歩き出した。
 辺りは真っ暗。仕事が終わったのがこの時刻。まだ不慣れなあれこれに、毎日追われている。すんと鼻をすすり上げると、その冷たさが染みた。マフラーかショールくらい持ってくればよかった。仕事の荷物を優先すると身の回りのことがおろそかになるのだ。今朝も一冊でも本を入れることを考えるがために、冬物衣料の箱を出してくるのを忘れていた。これからもっともっと寒くなるだろう。
 ……その時よぎったものに肩を落としそうになった。
(……人肌が恋しい……)
 学生時代はよかった。女の子同士べたべたできた。社会人になるとそうもいかない。小中学生の頃のようなOLの付き合い方にうんざりして一人で弁当を広げていたのは佑子だ。まあそれは、すぐに似たような考えを持っていた京野の存在で終わったのだが、今度持ち上がってくるのは男性問題だった。
 どうして女子って、ああも女子トークとやらが好きなのか。
 楽しいことは認める。気の合う友人とそういう話になるのは楽しい。でも、自分はああはなれないと思う。頭の中身がそればっかりになっているような気がする。
「あああでもやっぱり寒いぃ……!」
 保温のために薄い物をブラウスの下に着ていても寒いし、心もやっぱり寒かった。
 早く家に帰って靴下を二枚履きしよう……と思ったところに携帯電話が鳴り、佑子はどきっとした。
 メールが一件。アイコンは添付ファイルがあることを示している。送信者は、羽宮常磐。
 短い一言と写真が同時に目に飛び込んできた。

『こんばんは。月が綺麗ですよ。』

 そこで初めて佑子は空を見上げて、月が真珠のように明るく輝いているのを見た。笑った拍子に浮かんだ息が白く月を曇らせ、あっという間に晴れた時、佑子は思った。
(誰かの、涙の粒みたい)
 でも全然卑屈じゃなくて、悲しくもなくて、温かくこぼれた光だった。
「涙じゃなくて……勇気、かな」
 一人ごちた台詞の臭さにくっと笑って、佑子は携帯電話を月にかざした。シャッター音。画面には光を放射させるものがひとつ。メールを送信して、歩き出す。熱いものがこみ上げて、もう寒いなんて考えなかった。
 さあ、明日は一冊でも本を持っていこう。書類をまとめて鞄に詰め込んで。思い出したら、ショールかマフラーを出してこよう。二度目の職はまだ就いて半年も経っていないから当然と言えば当然だけれど。
(負けないでいよう)
 でも、あの場所で君に会えるから。
「負けたくないんだ」
 君に誇れる人であるために。


2012初出




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