終章 ときめいた?

 佑子が図書館にいると、生徒が入ってきた。もうすでに一限目が始まっている時刻だが、佑子は気にせず「おはよう!」と声をかけた。そういう生徒はまれにいるものだからだ。小動物のように小さな身体を丸めて、視線も動きもおどおどさせ、裏返った声で彼は言った。
「おはようございます! あ、あの、新しい司書さんですか?」
「あ、もしかして初めて? そうです、内藤佑子と言います。よろしくね」
「はい、あ、あの、本の返却、いいですか」
「うん、もちろん。お名前は?」
「森、です……」
 貸し出しカードに伸ばした手が滑り、顔を上げる。
「森……君?」
「は、はい! えっとあの……しばらくここにいて、いいですか?」
 動揺が相手に伝わってしまった。慌てて「どうぞ!」と言うと、彼は至極申し訳なさそうにしながら奥へ消えていった。佑子はゆっくりとカウンターに座り、恐る恐る貸出カードを探し出す。何十枚という中から、二年一組の森のカードを探し当てた時、目を疑った。
 貸し出していた本も、彼が借りていった本と合致したのだ。
(どういうこと? えっと……彼が森君だとしたら……)
 問題の『森』少年の姿を思い出そうとする。しかし顔が浮かばず、服装の印象だけがある。白いシャツに黒のズボン…………黒のズボン?
 勢いがよすぎるくらい、さーっと音を立てて血の気が引いた。――黎明学院高校の学生服は、白い。
 あの妙なことを言う彼は、誰だ。
「――まだなんかいるのー!?」
 黎明学院のどこかで、「そういう存在がいた方がいいだろう?」と、笑い声が響いた気がした。


     *


 かち、こち、と部屋のあちこちにある時計が、それぞれのペースで時を刻む。時間でもないのに、壊れた鳩時計が鳴いた。午後の光に、古びた金属の箱が輝き、何の変哲もない石はつやつやしていた。人形を守るガラスには曇り一つない。
 たくさんのもの、捨てられないものたち。それは思い出につながっている。たくさんの物に囲まれていると、まるで満たされる気持ちがするのだ。まるで、信じたいものを素直に信じていられた、子どもの頃の自分でいるようで。
「あなた」
 と、妻が襖を開けて入ってきた。茶を置き、部屋を見回して言う。
「あの人形を佑子にやったんですってね」
「うん」
「佑子が道子に言ったそうですよ。『お守りならじいさまがいい』と、泣きながら」
 ものすごい形相で、と蓉子は言った。ははあ、と豊は顎を撫でる。
「挨拶をくらったな」
「困った子だ。これからは、あの子があの本を守っていかなきゃならないのに。相性が悪いんでしょうか」
「そんなことはない。あの子は君の孫だ。きっとうまくやれる。強い子になるよ」
「かわいげがなくなると困ります」
「君はかわいいよ。蓉子」
 蓉子はため息をつく。
「本当、口ばっかりよくて。どうしてこんな人と結婚したんでしょうね」
「私が君を好きだったからだよ」
「分かりました。もう結構です。佑子にそういうのは教えないでくださいよ」
 着物の襟をいじる彼女の耳が、ほんのり赤くなっているのに豊は顔をほころばせた。
 足音がする。軽くて、騒がしい、音符を刻むような音だ。もう学校が終わったのだろう。
「……『お守りならじいさまがいい』って?」
「あの子はじいさまっ子ですから」
 そうか、と豊は微笑んだ。そうか、じいさまがいいか。
「私は長生きしてくださる方がいいですけれどね」
「けど、幽霊もいいじゃないか。世の中には、そういう存在があった方がいいだろう(・・・・・・・・・・・・・・・・・)?」
 障子が叩かれる。ノックに慣れていない、たどたどしい叩き方だ。障子に映る少女の影に、豊はお入り、と返事をする。

 さあ、今日はどんな話をしようか。










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