序章 約束しましょう

 赤い煉瓦の壁。青銅色の屋根。四階建ての西洋風の館である建物は、つんとすました貴婦人と老紳士のような厳格さでもって、周辺を圧倒するように建っていた。中に収められた真新しい無数の机も椅子もつやつやと窓辺からの光をはじき、敷地内のあちこちにある日溜まりが、ともすれば重苦しく感じられてしまう学舎特有の空気を温もらせている。
 ――私たちの学院。
 この学舎は、父親たちが娘に、近代化する社会における最低限の教養を身につけさせるため、本来の意味では結婚までの隔離のために選んだ檻のようなものだった。花園と称える人もあったけれど。
 いとけなさや無邪気さを思わせる柔らかな薔薇色の地に、冬の緑の色をした襟の、昨今流行のセーラー服。奥ゆかしい色彩の制服に身を包んだ私たちは、今まさに花たらんとする年頃で、だから学院は、確かに美しい花園であったのかもしれない。つつじに紫陽花、ダリヤ、コスモス、山茶花と椿、牡丹、薔薇。春には桜舞う学院で、はばかることのない笑い声と、黒い髪を短くすることも厭わない気風を胸に、決して深窓にはなれないけれど、新しい時代の、明け初める空の下の乙女であることを自覚して、新しく美しく気高くあろうとした。
 ――けれど大人に逆らえない私たち……。
 私たちはよく話をした。中庭に薔薇ばかりが咲いている時期があり、それを『薔薇庭園』と呼んで私たちだけの場所にして。最近読んだ本、新聞の話、語学の難しさや近く演じられる歌舞伎のこと。未来のことはあまり話さなかった。自分の考えを口にできないほどの仲ではなかったはずだけれど、主義主張は滅多なことでは口にしないのが一つの礼儀でもあったからだ。
 けれど、私は一度だけ、その礼儀に反したことがある。
「結婚が決まったの」と彼女が言ったからだ。
「父のお知り合いの方と。卒業したら、多分、すぐに」
 言葉を失った。様々な思いが胸に渦巻き、言えたのは、どうでもよい問いかけだった。
「お父様のお知り合いなら、年長の方なのでは……」
「ええ」
「留学されるというお話はどうなったのです?」
「なかったことに、なるでしょうね」
 唇を噛んだ私に、彼女は微笑っているだけだった。その頃の私たちはそこを檻と呼んでいたけれど、本当は自由の地だったのだ。未来が見えるとよく分かる。私たちが子どもでいられたところ。
「……呪ってやりたい」
 絞り出すように言った。
「あなたのお父様もその婚約者も。そういうものだと思っている周りを」
「そんなことを言ってはだめよ」と彼女は私の握りしめた手をそっと包んだ。
「私は幸せになろうとするのだから、そんなことは言わないでちょうだいね。自分では選べないけれど、選ばされたものの中に幸せを見出す行いは、不幸ではないと思うから」
「自分で選んだ幸せの方が、ずっと幸せに決まっているじゃない!」
 彼女は首を振った。私ははっと赤面した。私の言い分は彼女の勇気を否定し、己の主張を押し付けるはしたない振舞いだった。それでも彼女は責めもせず悲嘆にも暮れず、何者にも曇らされないような力強い笑顔で言った。
「きっとあなたの言ったような幸せが選べる時代が来るでしょう。だからあなた、約束してくれる?」
 彼女は囁く。私がこれから繰り返し唱えることになる、はるかな約束の言葉を。
「だって、ここは、あなたと出会った場所だから」と彼女は泣き笑いの声で、私の手を抱いていた。そのぬくもりは、約束を唱えるたびに、よみがえる。
「――私たちは、いつまでも暁の……」

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