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 三人は、街の中心部にある〈動かない時計塔〉まで来た。
 小さな柱がいくつも生えたように見える装飾。壁には縦の彫り込み。気が遠くなるような細かな彫刻は施されたこの時計塔は、よく見れば文字盤はひび割れ、針は中途半端な時刻を指したまま、止まっている。
 周辺は広場になっていて、ここから通りと路地が、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされているのだった。
 石畳をゆったりと横切っていく老爺や、家へ駆け戻っていく子どもたち、偶然会ったのか話し込んでいる男たちなど、夕方の広場にはたくさんの人の姿がある。また、片隅には鉄柱や垂れ幕などが置かれている。放置されている荷車はそれらを運んできたのだろう。
 その資材置き場に仲間たちの姿があった。
「おーい」
 シャルルが手を振る。エリックとルースもこちらに気付いた。仕事終わりなので「お疲れ」と言いながら集合する。
「これ、時計祭に使う足場だよね。準備、まあまあ進んでるんだ」
「じきに足場を組むって、この前店に来た大工のソーンさんが話してたわ」
「初めての選挙を控えた祭だから、横槍がすごいって実行委員会の人たちがぶつくさ言ってたのを聞いたよ」
 ノアの何気ない一言にティナとシャルルが言う。
 機工都市は、長く職人たちが集う商工会によって自治されてきた。だが、戦前の王国の名残として首都を名乗っている聖皇都ヴィンターシュヴァルツは、それぞれの都市を自らの領地と明言して憚らず、よく役人や神官を寄越してくる。それをいなすのは、この街では商工会のご隠居たちの仕事だ。聖皇都が力を持っているのは確かであり、それを無視することはできないため、適度な距離を保っている。
 だがついに領主を置くようにという勧告が来たのだ。本来なら無視されるはずのそれは、他都市の発展やこの都市を真に代表する存在がないという現状と照らし合わされ、少なくとも代表を選ぶべきだという結論に至った。
 しかし、住民の多くが職人であるこの街で政治に明るい者はほとんどいない。治安維持、法の整備など、規律を敷くのはあまり得意でない傾向がある。大きな罪を犯した者の裁きや宗教的行事の執り行いは、聖皇都や宗教都市に委託することがままあった。結果、商工会は選挙を行うことを宣言し、候補者を募ることにした。投票日は時計祭と同日。聖皇都から派遣されてくる神官が見届け人としてやってくる、ということまで決まり、ここしばらく街はその話で持ちきりだ。
 そして、その候補者の一人に名を連ねるのが、富豪ヴォーノだった。
「とけいさい?」
 この中で、それを知らないのはリトスだけだ。
「そう、この街のお祭りだよ。機工都市に住む職人たちが、火と金属の神様に感謝をするためのものなんだ。よそでもやってるお祭りらしいんだけど、名前は違うんだって。この街にはあれがあるから」
 と、ノアは〈動かない時計塔〉を指した。リトスはぐうんと仰向いて、体勢を崩して倒れそうになったがなんとか立て直す。
「〈動かない時計塔〉――厄災戦争の時に動かなくなって以来、そのままにしてあるんだ」
「戦争と、職人たちがこの街を立て直した証として、ね。だからこの街の職人のお祭りは『時計祭』って名前になったんですって」
 めずらしいのだろうか、リトスは魅入られるようにして時計塔から目を離さなくなってしまった。同じようにノアをそれを見上げて、長く閉ざされている内部の機構を想像する。
(いつも立ち入り禁止になってるけど、あれだけのものを動かそうと思ったら、どんな部品が必要なんだろう? あれを手入れできる職人っているのかな? 親方は、この街にはいないだろうって言ってたんだよな……。あれが動いたらどんな〈音〉がするんだろう?)
 普段扱っている時計とはまた違ったものだと聞いている。聖皇都や宗教都市には、ああいった時計塔がまだ稼働しているらしく、職人が在中しているという。
 そんな職人たちの中に、もしかしたら自分と同じような人がいるかもしれない、とノアは考えていた。
(いつか聞いてみたい。――『あなたは、機械の〈音〉が聞こえますか?』って)
「ティナ、彼女の様子はどうだ?」
 なんとはなしに全員が時計塔を見上げていたが、リトスを視界の隅に捉えつつ、エリックが尋ねた。
「うん。しばらく話をしてみたんだけど、反応はあの通り。言葉も覚束ないし、表情も乏しいまま。お医者さんを呼ぼうかって話になったんだけど、ちょっとずつ反応するようになって今の状態。名前のほかにはなにも覚えてないみたい。あとは首をかしげるの。多分、わからないって仕草」
 どこから来たのかしらね、とティナは呟いた。柱時計の中で眠っているなんて普通じゃない。それはみんなも思っているようだった。捜索願も出されていないのなら、ほかの都市からやってきたのか。それとも、かつての自分たちのように後ろ暗いところを渡り歩いてきたのか……。
「エリックは何かわかったんじゃないの? だから招集をかけたんだよね」
 シャルルが言うと、エリックはわずかに目を伏せて眼鏡を押し上げた。しかし、なかなか口を開かない。焦れたシャルルがむっと眉を寄せたとき、ようやくひとつ、息を吐き出した。
「……うちの工房に保管してある百科事典を引いてみたら、〈ロストハーツ〉について記載があった。概要程度だが」
 エリックはどこか険しい表情で彼女に見つめた。
「〈ロストハーツ〉とは、賢人イグノートスに作られた七体の機械人形を指す。かれらは人と変わらない姿だが、身体のどこかに〈ロストハーツ〉の証が刻まれていて、この世界を変える力を持つという――」
 全員が息を飲んだ。
 その視線の先で、リトスがゆっくりとこちらに向かって首を傾けた。さらさらとなびく夜の塊のような髪が、古びて褪せたワンピースを、まるで妖精のドレスのように見せている。
「人形……? リトスが人形だっていうの?」
「そうだ、ティナ。彼女の見た目は俺たちと変わらない年頃の少女だが、その中身は人間じゃない。厄災戦争以前の技術によって作られた、機械人形だ」
「ノア」
 ノアはびくりと跳ね上がった。いつの間にか近づいてきていたリトスが、服の袖を掴んでいた。
 もしかしたら、と思っていた。柱時計から聞こえていると思っていたあの〈音〉が、彼女から聞こえてくるのだから。あの大音量で鳴り響いた虹色の〈音〉も、リトスの持つ〈音〉なのだ。
 ――…………ろ……ん……。
(悲しい〈音〉がする)
「どうしたの。みんな、顔、こわい」
 彼女は戸惑い、縮こまって後ろに隠れようとする。
 縋るような目にノアは大きく頷いて、自分を掴む彼女の手をそっと包み込んだ。
「エリックの言うことは本当だと思う。リトスは、たぶん人間じゃないんだ」
「どうしてそんなことが分かるのさ」
 疑念を口にしたのはシャルルだった。
 彼を含めた仲間たちには、人でないものが奏でる音色のことは一度も話したことがない。鍵を解錠したり、壊れた箇所を修理するとき、〈音〉を聞きながらどこにさわればいいのか確かめているのだが、みんな、ノアが容易に鍵を開けてしまうことを単に器用だからとしか思っていないはずだった。
「分かるんだ」
 けれど、それだけはどうしても明かせなかった。仲間たちはきっと笑ったり怖がったりしないだろうけれど、心の奥にいる誰かが、その不思議な音色のことを秘密にしておくべきだと囁くのだ。
「……まあ、ノアなら分かるかもしれないけどさ」
 時計を扱う仕事をしているからか、ノアの能力を信頼してくれているシャルルはそう言ってしぶしぶ引き下がる。だがリトスに対する困惑が消えないのか、警戒するように彼女を見ていた。
 人間でも動物でもない、けれど生き物と同じようにしてしゃべり、歩き、考えて動くこの存在はいったいなんなのか。人形と呼ぶには人に近すぎる。
「こわい。みんな。どうしたの?」
 高度な技術、人知を超えた力がリトスを作ったことは分かる。
 けれどそれがなんだと言うのだろう。
 震える手、声。そしてノアにだけ聞こえる怯えた〈音〉。悲しんでいる。怯えている。夜の風に寒さを覚えている。そんな彼女を『生きていない』と、どうして言えるのか。
(この子はちゃんと今、ここにいるんだ)
 触れた手は、滑らかで柔らかく、少しひんやりとしている。でもそれは、ちゃんと触れられるという証なのだ。
「おれたちと同じ肉体じゃないからって、リトスが生きていないってことにはならないよ。おれたちだって、自分がどんな『機構』で動いているのか分からないんだから」
 もしかしたらおれたちも機械人形かもね、と冗談めかして言うと、ルースとティナだけは笑ってくれた。他の二人は少々呆れたようだった。
 だが空気が変わった。ノアが庇っている少女が、本当に何も知らない、怯えている幼い女の子にしか見えなかったせいかもしれない。それが作り物だとしても、虐げるなんてことはできそうもなかった。
「リトスは本当に自分のこと、まったく覚えてないわけ?」
 それでも棘の消えないシャルルの言葉を受けて、リトスはおずおずと頷いた。
「首飾りに刻まれてる〈ロストハーツ〉って何か知らなかったの? 自分がどこから来たのかとか、ここに来る前に誰と会ったとか」
「しらない……。わからない」
 すると全員が口々に言い始めた。
「シャルル。リトスは本当に覚えてないわ。あたしが一通り聞いたもの」
「でもさ、ティナ。人間じゃないんだから、忘れるってことはないんじゃないの?」
「もしかしたら一時的に思い出せないだけかもしれないよ。昨夜と比べて、ずいぶんしゃべれるようになってるし……」
「ルースの言う通りだ。徐々に記憶を取り戻す可能性もある。それよりも問題なのは、彼女が危険な存在なのかどうか、そして、ヴォーノが〈ロストハーツ〉を手に入れようとしたならその目的は何か、ということだ」
〈ロストハーツ〉が世界を変える力を持つのなら――。
「――世界を変えるつもりなのか……?」
 ノアの呟きに、空気が張り詰めた時だった。
「ノア。みんな、なに話してる? わたし、わからない。むずかしい……わかるように、言ってほしい」
 リトスがノアの袖を引き、むうっと唇を結んで不満そうにしていた。
「ええ? ええ、っと……」
 弱った。きみの素性についてだと説明しても理解するのは難しそうだし、その論点が『危険なものなのかどうか』なんてのも言いたくない。
 考えた末に、ノアはこう言うことにした。
「みんな、リトスのことを知りたいんだ。きみが何者で、どこから来て、きみにはいったいどういう意味があるのか……」
「意味?」
 リトスは目を瞬かせる。
「ノアは、わたしの意味がわかると、うれしい?」
 傾けた首筋に黒髪がこぼれる。ノアを覗き込む瞳は、星空だ。きらきらと透明な星が踊っている。
「うれしい?」
 頷かなければ傷付くのだろうな、と想像できる無垢さだった。
 だから、ノアは「うん」と言ってしまった。
 そしてリトスは「わかった」と真面目な顔で答えるのだった。
「……危険な存在かどうかっていうより、ちょっと犯罪臭がするよねー。ノアと一緒だと、さらに増す感じ」
「ノア! あんた、リトスをたぶらかしたら承知しないからね!?」
「たぶらかす!?」
 シャルルが半目になって言ったからか、ティナが声を荒げる。ノアはぎょっと叫んだ。
「なに言ってるんだよ、ティナ! リトス、真に受けちゃだめだからね!?」
「『真に受けちゃだめ』?」
 犯罪臭などと言ったせいで、リトスから純粋な問いかけを受けたシャルルは、両手を広げて「自分で考えなよ」と回答を拒否した。リトスはまた大真面目に「わかった。考える」と頷いている。
 その時、エリックが咳払いした。わいわいと賑やかになってきていたが、全員が口を閉ざす。
「リトスのことは、ヴォーノがどう動くかも含めて様子を見よう。あいつがもし〈ロストハーツ〉を使ってこの街を手に入れようとしているなら、断じて許してはならない。俺たちが止めなければ」
 あの男はこの街を、それどころか世界を手に入れるつもりなのかもしれない、そう考えたみんなの心は一つだった。
(あの殺人者に、そんなことさせてなるものか)
『彼女』を殺したあの男を断罪するために、ノアたちは再び罪を犯して暗躍することを決めたのだ。
「ヴォーノが大金を使ってるのはほんとみたいだね。いつもの趣味の悪い美術品も買ってるみたいだけど、新顔を雇ったらしいってお屋敷の人が言ってた。何かするつもりなのは間違いないと思うよ」
「金貸しの暴利や用心棒たちの犯罪行為、このほかにもあいつの存在は街の人たちを苦しめてる。お金の力でなんでも叶えられると思ったら大間違いだ」
 早口でシャルルが集めた情報を伝え、頬を紅潮させたルースが強い思いを口にする。
「今もお屋敷であいつに暴力を振るわれている子がいるんでしょう? その子たちも守らなくちゃ。……ルリア姉みたいにしちゃいけない」
 ティナが苦しい顔をして呟く。
 ノアは、何も分からないまま、思いつめたみんなの顔を順に見つめるリトスの手をぎゅっと握っていた。
 親を亡くしたり、家族を失ったり、仲間と別れたり。そうした子ども時代を各々が生きて、この街に集まった。雨風に当たらず眠れる場所や食事、仕事があるという普通の人々と変わらない暮らしのありがたさは胸に沁みていた。
 それも全部『彼女』――ルリアが、くれた。
 でも、彼女はもういない。
 ヴォーノに殺されてしまったからだ。
「ヴォーノの野望を潰す。時計祭――聖皇都から来る神官に、ヴォーノの罪を告発するんだ」
 全員が頷いた。
「この街を、守るんだ」

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