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 店のカウンターと工房を行き来していると、日は午後へと傾いていった。やらなければならないことは山ほどあったけれど、シャルルが言ったのは間違いなくあの少女のことだろうと思うと、気がそぞろになってしまい、小さな部品をピンセットでつまむことができず、舌打ちし、ついには「くそっ」と悪態までついて出ていた。
 アダムが帰ってきたのは、店の掛け時計が六時の鐘を打ってしばらくしてからだった。すでに店じまいしていたのでアダムは裏から入ってきた。濃い疲労の影をまとっていて、ノアは飛び上がるようにして席を立つと急いで鞄を受け取った。
 鞄を置き、外出していいか聞こうとした時、めずらしくアダムの方から口を開いた。
「ヴォーノの屋敷に入った新しい時計、あれは値打ちものだ」
 ずいぶん手の込んだ時計だった、と語られるそれは、間違いなく、昨夜ノアが少女を見つけ出したあの柱時計だった。
「時計以外の機構が組み込まれていたようだが、どういうものなのか分からん。それが入っていたらしい部分があるが、空洞でな。しばらく通って、確かめることになった」
 もうおれが触っちゃいました……と内心で小さくなりながら、ふと気づく。
 アダムは一流の時計職人。仕事として時計を診るアダムなら、もしかしたら、あの子にまつわる手がかりを見つけ出してくれるかもしれない。
 ノアは手を挙げていた。
「親方! おれもそれ、興味あります。何か分かったら教えてほしいです。っていうか仕事についていきたいです!」
 アダムは眉間にきつくしわを寄せた。けれどこれは怒っているのではなく、考え込んでいるだけだ。
「仕事で行くんだ。大人しくできるのか」
「できます! 連れて行ってください」
「雇い主の意向による。聞いてみるが断られるかもしれん。期待はするな」
 ノアは「よろしくお願いします!」と頭を下げた。
「一日留守番を任せて悪かった。今日はもう上がっていいぞ」
「はい。じゃあ、ちょっとおれ、今から出てきていいですか? ティナに用事があるのを思い出したんで」
 アダムは、ちらっとノアの顔を見た。そして一つ頷くと「遅くならないようにな」と言って、店に入っていった。受付簿を確かめるために明かりが入ったのを見届けたノアは、手早く机を片付けると、裏からティナの勤める小間物屋へと向かった。

 三角の屋根が連なる向こうに、夕日の色がかすかに残っている。たなびく雲の縁が同じ色に染まっていた。冷たく湿った風が、髪をそよがせるくらいに吹いている。
 どこかから、煮込んでいるらしいスープの香りがする。
 この街の工房はたいてい二人か三人の弟子を抱えている。食事の用意は弟子たちの当番制だ。だから、作るとなると材料を適当に放り込んだスープを煮込み、買ってきたパンや果物を食べるといったものになる。
 スープは工房独自のものがあり、ノアがアダムから教えられたのは、牛乳とたくさんの野菜で煮るものだった。だが乳臭くて苦手だったそれを香辛料で工夫したところ、旨いと褒められ、以来ラクエンのスープはノアの味になった。今日も作り置きをしてあるので、仕事を終えたアダムが台所の鍋を温めて夕食にすることだろう。
 風に飛ばされないよう、つばの短い職人帽を押さえながら歩いていく男たちは仕事帰りだ。くたびれた鞄を下げている者も、ズボンのポケットに使い込まれた手袋を突っ込んでいる者、道具を入れたバケツを揺らして歩いていく者もいる。みんな、目的の場所がある足取りだ。自分の家に帰っていくのだろう。
(この街の夕方が、一番好きだな)
 住民がみんな、それぞれの仕事を果たして家に帰る、という光景は、見ていて安心する。時計みたいだ。ひとつひとつの部品が生きて、動いて、大きな機構になってこの街を動かしていく。そしてノアは、自分もそのひとつだと思うことができる。
〈黒鎖団〉が解散し、それぞれの働き口に割り振られたが、何人かは逃げたしその後の行方は知れない。けれどこうして、ノアは時計工房へ、エリックは印刷工房に、ルースは機織り師に弟子入りし、シャルルは郵便配達人として街を駆け回り、ティナは子どものいない夫婦が営んでいる小間物屋の看板娘をやっている。
 この街の一部として、生きている。

 ――あたしが誰かに優しくすることで、この街が、世界が、優しくなると思うんだ。

 もういなくなってしまった彼女の声に、ノアは心の中で「そうだね」と頷く。
(だからおれは、この街にしよう、って思ったんだよ)
 ルリア、と、心の中で彼女を呼んだ時だった。

「ノア」

 ――りん、と響いた、その〈音〉。
 ノアは振り返り、目を見開く。
 翻る白い裾。長い黒髪。靴をぽこぽこ鳴らして、少女が駆けてくる。夜の空気の中に、彼女の輪郭が白く光って見える。その姿に見惚れて――ぶつかるように飛びついてきたのを受け止められなかった。
「うわっ!?」
 尻餅をついてひっくり返る。
「ノア」
 その呼び声は、すさまじい質量となってノアに襲いかかってきた。
 すさまじい〈音〉の量と種類が、虹色の破片となって視界を染めていく。夕暮れの世界が、真昼の、それどころか別の世界のような輝きに溢れる。
(う、ぐ……っ、なんだこれ……すっごい〈音〉……、洪水、みたいな……っ)
 鳴り響く〈音〉がうるさくて何も聞こえない。楽器という楽器を部屋の中で好き勝手に鳴らしているみたいだ。ひとつひとつは美しくて繊細なのに、重なりすぎて不協和音めいたものになって、頭痛とめまいを叩き込んでくる。
 こんな現象に襲われるのは初めてだった。無意識に感覚を閉ざして聞かないようにすることができなかった、子どもの頃のようだ。すべての〈音〉を拾わないようにしなければ、この世界に常に響く〈音〉のせいで、身動きができなくなってしまう。
「ノア!? ちょっとあんた、大丈夫!?」
 よく聞こえない。でもどうやらティナのようだ。
「ごめんなさい」
 途端、〈音〉が変わった。
 きらきらと光をこぼしながら、粒が舞い落ちて消えていく。
 視界に夜が戻ってきた。
「ごめんなさい。ノア、痛い……?」
 ノアがずっと眉を寄せて痛みを堪えていたからだろう、彼女は悲しそうに俯いている。そのまつげの一本一本が、艶やかに輝いているのがこの距離だと分かる。
 ――ろ、ん……。
(この子、まさか……?)
 ノアはじっと少女を見つめた。
 聞こえてくる悲しげな〈音〉。それを発しているのは。
 ぶるぶると頭を振る。〈音〉は静まり、視界も元どおりになっていた。周りの様子も分かる。痛みの名残で頭を押さえながら、ノアは言った。
「ああ……大丈夫だよ。受け止められなくてごめんね。怪我はない?」
 うん、と言いながら、ノアが身体を起こすのに合わせて、少女は地面に座り込む。そして、ノアの顔をじいっと見ると、不意に三つの音を口にした。
「リトス」
「……え?」
 細い少女の指先は、彼女自身を指している。
「リトス。わたし。リトス」
 ノアは目を大きくした。
「リトス? それが、君の名前?」
 少女――リトスは頷き、笑った。
 甘くて優しい、砂糖の花が溶けるように広がる笑顔。
(……………………かわ、いい……)
 言葉を失ったノアが瞬きを忘れていると、次の瞬間、後頭部を叩かれた。
「痛っ!?」
「さっさとリトスを離しなさい、この馬鹿!」
「お、おれが捕まえてたわけじゃないよ! っていうかティナ、どうしてここに?」
 ふんと両手を組んで、ティナはノアを見下ろす。
「あんたに会いに行くところだったのよ。リトスの様子が変わってきたから、みんなを知らせようと思ってね。そうしたらエリックが呼んでるらしくって」
 聞けば、すでにシャルルを通じて、みんなを呼んでいるという。待ち合わせ場所は〈動かない時計塔〉のある広場だ。さすがに二日連続で深夜外出して廃工場地区にいると怪しまれるだろう、というエリックの気遣いだった。
 すると、ティナは少しだけ後ろめたいような顔をした。
「……あんまり頻繁に会うと、おかみさんたちにばれそうで怖いのよね。ヴォーノがそろそろ戻ってくるらしいんだけど、もしリトスがいないと分かったら騒ぎになるでしょう? うちの店が匿ってるのを見つけられたら、あたしのやってることがばれたら、って考えるんだよね。迷惑、かけたくないし……」
 仲間たちの中で、最も受け入れ先に恩義を感じているのがティナだ。この街を追い出されるということ以外に、ガルド夫妻が傷つけられるのを何よりも恐れているのだった。その優しさにつけこんで、リトスを預かってもらえるように話を運んだことを少しだけ後悔しているのだろう。
「でも、まだ騒ぎになってないんだよね? リトスのこと、お屋敷の人たちは知らないのかな」
「うん、ヴォーノの屋敷に変化はないみたい。その辺りの詳しいことはシャルルが調べてると思う。あの子、聞き込みがうまいから」
 可愛らしい容貌と人懐っこさ、そして子どもだからという思い込みがあるからか、裏事情を彼に話す人は多い。シャルル自身もそれを分かって、積極的に人の輪に加わって情報を集めている。
 それでも、人が本当に抱えている秘密は必要に迫られなければ絶対に口にしない義理堅さがシャルルにはあった。ただ、そういう秘密を抱えてしまうせいか、十三歳という年齢の割に、彼はちょっとすれた性格になってしまっている。
 そこまで考えてノアは身震いした。いつまでも座り込んでいたからか、身体が冷えていた。そうしてみて初めて、一張羅がだいぶと擦り切れて薄くなっているのに気付く。身長が伸びているのか丈も少し短くなっていた。
 そういえば、リトスが着ているのはティナのお古のようだ。野原で走り回る子どもが着るみたいなそのワンピースに見覚えがあった。
「行くわよ。そろそろみんな集まってるはずだから」
 ティナに言われて、歩き始めることにする。
「いろいろ話しかけるうちに、彼女、ちょっとずつ反応するようになったの。聞いた言葉を繰り返すことが多いけれど、リトスが名前だって主張し始めて、あたしのことや、おかみさんや大将の名前も覚えたみたい。でも、ノアの名前をずっと出すから、おかみさんに不審に思われそうだと思って、連れ出してきたのよ」
 言って、ティナは苦笑いした。
 重い。ノアの左肩は、さっきから下がりっぱなしだ。
「リトス……歩きづらいから、ちょっと離れてくれる?」
 リトスが、ノアの腕を抱えるようにして歩いているせいだ。
 優しい口調を心がけてお願いしたのだが、彼女は明らかにしょんぼりとした様子で離れていく。あまりにもそれが可哀想に思えて、ノアは手を差し出した。
「代わりに手をつなごう。ほら」
 リトスは大きく目を見開き、恐る恐る、ノアの手を取った。ノアが手を包み込むと一瞬びっくりしたように硬直したが、温められていくみたいにこわばりを解いていく。かすかな表情の中に安堵みたいなものが見えて、ノアは笑顔になった。
(かわいいな)
 思った瞬間、背中をばしんとやられた。
「痛って! な、何するんだよ、ティナ!」
「鼻の下伸ばしてるんじゃないわよ、このすけべ」
「すっ……! そういうの、リトスの前で言うなよな! 本気にしたらどうするんだよ!」
 すると、ティナはリトスの顔を覗き込み、ゆっくりと言い聞かせ始めた。
「リトス、人には、特に男には気をつけなさいね? 簡単に信じちゃだめよ」
「しんじちゃ、だめ……?」
 ノアとティナの顔を見比べるのは、困惑や不安の仕草だろう。どちらの言うことを聞けばいいのだろう、と思っているその様子は、ノアの胸に軽く衝撃を与えた。なんだ、このかわいい生き物。
「大丈夫だよ! 君はおれが守るからね!」
 ぎゅっと彼女の手を握った。
 つかの間の沈黙。
 リトスの薄い表情からは、ノアの言ったことを理解しているのかどうかは読み取れない。ただ、ノア自身は自分が口走った台詞の小っ恥ずかしさに、みるみる真っ赤になった。座り込みそうになるのを堪えて、呻く。
 ティナが声を絞り出した。
「ほんっと……ノア、あんたって、ほんっと……」
「……ティナ……今の、絶対みんなに言わないで……」
 顔を引きつらせているティナに懇願しながら、自分の口の軽さを悔いる。そういう恥ずかしいことをさらっと言うな、とこれまでに何度か仲間たちに注意されてきていた。
 赤くなってうつむくノアの頬に、冷たいものが触れる。
 リトスの手が、ノアを上向かせる。
 少しだけ下がった眉。こちらの表情を確かめようとする瞳の揺れ。お世辞にもはっきりとしているとは言えない、頬や唇が時折ぴくぴくと震える、上手でない顔だけれど、ああ心配してくれているんだな、と感じられて、ノアは笑った。
「大丈夫。心配してくれてありがとう。君は優しいね」
「やさしい?」
 うん、と頷き、手を引く。
「人や物を大事にできるってことだよ」
 少し難しかったのか、考え込むように首を傾げている。ノアはティナと顔を見合わせ、微苦笑した。

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