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 機工都市ツァイトツォイクの朝は早い。絶えず燃えている工房の火が次第に大きくされ、細い煙が夜明けとともにひとつふたつと増えていく。薄黄色い太陽の光が、赤煉瓦の町並みを照らし出し、この街の象徴である〈動かない時計塔〉の影を伸ばしていく。
 起床したノアは身支度をし、乾いたパンと水だけの朝食を取ると、工房へ行き、店の掃除を始める。毎朝の日課だ。
 店の扉の窓を拭いた後、表を掃いていると、近所の工房の弟子たちが同じように掃除をしているので軽く挨拶する。
「時計祭、誰と行くか決めたか?」
「いつも通り、みんなと行くつもりだよ」
「お前ら、ほんと仲いいのな。女の子と二人きりで出かけるとかないわけ?」
 ざかざか箒を動かしながら、呆れたように言われる。
 時計祭といえば、機工都市の一番のお祭りだ。ほとんどの工房は閉められて、みんなが街に繰り出す。通りには露天や屋台が出て、酒場の前には椅子と机が並べられて、広場には楽団や芸人がやってきて、踊りの輪ができる。若者にとっては、気になる相手と距離を縮めるためのまたとない機会だった。
 さらに、今年は初めてこの街の市長を決める選挙が行われる予定だ。賑やかな気配とともに少し怖いような熱気も、みんな感じ始めている。
「うーん、別に、誰かに誘われてるわけじゃないし……誘いたい人がいるわけでもないし……」
「そりゃお前ティナがいるからふぐっ!?」
「女の子から声をかけるってやっぱり勇気いるだろ。気になる子がいたら声かけてみろよ」
 ノアは曖昧に笑って誤魔化した。いろいろと後ろ暗いことをやってきた過去なので、それを覚えているこの街の大人はノアたちをどこか警戒している。組合の会合などで顔を合わせる同年代の男女とも、あまり打ち解けられていない。
「……っていうか、なんで口塞いでるの?」
「むぐぐーぐぐー」
「こいつが余計なこと言って殴られないため」
 よく分からないでいると構うなと手を振られた。首を傾げながらも、それぞれ仕事に戻る。どこの工房も、親方が仕事を始めるまでに弟子がやることは山ほどあるのだ。
 店の扉を開けると、登っていく太陽の差し込みが変わって、受付の室内が明るく鮮やかに輝き始める。
 ――ちく、ちく、ちく。
 ――かち、こち、かち。
 ――こつ、かつ、かつ。
 針の音。歯車の噛み合う音。輪が回ることで生まれるかすかな風の音。それらがひとつになって、機械の声である〈音〉になる。
 ラクエンの受付の壁は、アダムが集めた様々な掛け時計が埋め尽くされていた。古いものもあれば新しいものもあり、形もひとつに定まらず、波を表現してみたり、機構をむき出しにしたものもある。
 それらに目を向けて、ノアは微笑んだ。
「君たち、今日もご機嫌だね」
 これらの整備は、アダムからノアが引き継いだ仕事だった。〈音〉を聞くノアはかれらの不調があれば耳で拾うことができるので、修理を始める時は不思議なほど早い、アダムは不思議がっているかもしれないがおくびにも出さず、ノアのやることに口を挟まないでいる。もともと口数の多い人ではないので、一応、及第点だということだろう。
 店の中も綺麗に拭いて、奥の工房へ行く。
 広い工房にはほとんど物がない。細かな部品を扱うこの時計工房ラクエンでは、万が一部品を落としたり紛失したりした時にすぐに発見できるよう、家具などは必要最低限にする、というのが、親方のアダムの方針だからだ。
 店を背にする窓際に面しているのがアダムの仕事机。反対側、店の受付が見えるところに置かれている机がノアのものだ。ノアの机は広さがない分、棚がしつえられていて、そこに道具や部品を置いている。埃は厳禁であるため掃除は必須だ。だが、拭くのは自分の領分だけ。仕事机の上は、親方、弟子の区分なく、人のものは触らない、というのがここでの決まりだった。
 窓から差し込む日を見ながら、ふと、昨夜の少女のことを思い出す。
 冬の夜みたいな黒髪。印象的な瞳。黒い水の中に水晶を落とし込んだみたいな。
(きれいな子だったなあ……ああいうのを、神秘的っていうのかな。肌が白くて、髪がさらさらで、折れそうなほど細くて)
 ティナはうまくやっただろうか。彼女が住み込みで働いている、小間物屋のガルド夫妻は親切な人たちなので、頼れる者のいない少女を放り出したりしないだろうが、街の警備隊には通報するはずだ。無事に自分の家に帰ることができればいいけれど。
「手が止まってるぞ」
「わあっ!? おっ、お、おはようございます、親方!」
 低い声で呼びかけられて悲鳴のような声が出た。振り返ると、そびえ立つ巨人のような親方アダムがいた。
 アダムを表現するなら、岸壁に最も怖い顔の鬼を刻んだ、というのがぴったりだ。時計という繊細な機構を作り上げるとは思えないほど、ごつい肩、丸太のような腕、床を軋ませるたくましい脚、もちろん指は太くて傷だらけだ。
 けれど知る人ぞ知る職人で、遠方からも時計を作ってほしいという依頼が来る。また、修理の難しい戦前の品の修理を頼まれることもあった。
 だが、ぴしりと直立してしまったのは、考えていたのが昨夜の少女のことだったからだ。挙動に不審を抱いたのか、アダムの常時消えない眉間のしわが、さらに深くなった。まずい、とノアは雑巾を握りしめる。
(夜、動いてること、気づかれてないと思うけど……ばれたら、まずい)
 ノアたち元〈黒鎖団〉は、団を解散し、現在はこの街にある工房の弟子や店の売り子になっている。それが、アダムをはじめとした商工会のお歴々によるお仕置きだからだ。
 数年前、この街の治安が今よりももっと悪かった頃、浮浪児で構成されていた〈黒鎖団〉は、窃盗や詐欺で日々の生活を賄っていた。郊外の廃工場を住処にして、金持ちの家や工房から少しだけ金銭をいただいたり、わざと人とぶつかって怪我をしたと主張して治療費を請求したり、店の売り物を万引きしたりしていた。
 憂慮した商店や工房の人間で形成される組織、商工会の人々は、協力しあって〈黒鎖団〉を一網打尽にした。ノアたちは捕まり、大人たちから裁きを受けた。
 牢屋に入れろ、だの、通報しろだの、みんな好き勝手に言っていたが、それまでずっと黙っていた枯れ木のような老人――のちに最長老だと紹介される――の一声で、ノアたちは罪を許される代わりに、それぞれの場所に割り振られるようにして、受け入れ先の工房などで働くことになった。
 その時の約束が、この街に住むなら『二度と寄り集まって罪を犯さないこと』。
 もし約束を破れば今度こそ追放だ。もうこの街に入ることができない。だから、いくら義賊としてでも、不法侵入し書類を盗み出すなんてことは、ばれると相当にまずいのだった。
「きょ、今日は、急ぎの仕事はありませんよ!」
「いや、ヴォーノの屋敷に呼ばれている。本人は不在らしいが、昼までに来いと、執事から連絡があった」
 ノアは笑顔のまま固まった。
 そうだ、あの柱時計を点検するとしたら、呼ばれるのはこの街で一番腕利きの職人、つまりアダム親方だ。
(さわったの、ばれる、かな……?)
「俺が戻るまでの間、店番を頼む。いつも通り、依頼を受けるかどうかはお前に任せる」
 ノアの内心の冷や汗に気づかず、アダムは鞄に仕事道具を詰めながら今日の仕事を指示していく。親方にとっても、ヴォーノの依頼は積極的に受けたいものではないが、相手は市長選に立候補するほどの富豪だ。断って機嫌を損ねるとまずい相手だということをよく知っている。
「今やってる掛け時計が終わったら、この前請けた、懐中時計をやれ」
「あの流麗装飾の? おれがやっていいんですか!?」
「お前は器用で覚えが早い。目利きも確かだ。とっくにあのくらいの時計は組み立てられるはずだ」
 ノアはごまかし笑いをした。ごく稀に、処分するしかない時計が持ち込まれる。それを分解して部品を集めるのもノアの仕事だが、その時にもう一度組み立てて機構を確認していたことを、アダムはちゃんと知っていたのだ。
「頑張ります。お気をつけて」
「行ってくる。悪さはするなよ」
 店側から表に出る扉を開けた時、小柄な影がちょうど細道を駆けてくるところだった。ふわふわした金色の髪を緑色の帽子に押し込み、身体の半分くらいある鞄を肩から下げている。
「アダム親方! おはようございます!」
「シャルル坊。うちに配達か」
「ううん、ノアに会いに来たんです。そろそろみんなで会いたいなあと思って」
 そうか、と言って、アダムはシャルルの頭を、帽子の上からぐりぐりと撫でた。撫でるというよりも押さえつけて揺らす感じだったが、シャルルはくすぐったそうに首を竦めている。
 店に入ってきたシャルルは、入れ替わりにアダムが出て行ったことを確認すると、はあ、と大人がするようなため息をついて、帽子の位置を直した。
「相変わらずアダム親方は強面だねえ。笑ってるのか怒ってるのかよくわかんない」
 ちょっと顔が恐くて、声がしゃがれていて低く、背は見上げるほど高くて肩には岩が入っているよう。怒鳴り声は雷鳴に似ていて、目が光り、全身が真っ赤になるせいで鬼のようだと言われていたとか。これまで弟子になった者たちは、その怒りを目の当たりにして、みんな号泣しながら逃げてしまったらしい。
 けれど、それをアダム親方が気にしていることを、ノアは知っている。ノアがラクエン工房に割り当てられた時、アダムが渋ったからだ。
 俺のところでなくてもいいんじゃないか、というのは、てっきり浮浪児を弟子に抱える面倒なんてごめんだ、という意味だと思ったのだが、続けてアダムはむっつりと言ったのだった。
『俺のところじゃ、辛い思いをするだけだ』
 頑健なおっさんにしてはやけに殊勝だったので、だったら一回行ってみるか、という気持ちで、ノアはアダムの弟子になった。その後もちろん全身がしびれるくらいの怒鳴り声を振らされることもあったが、まあなんとか続いている。
「見慣れると、普通の顔にしか見えないようになるけどね。それで、どうした、シャルル。何かあった?」
 やっぱり本題があったらしい。声を低めて、シャルルは言った。
「さっきティナのところに様子を見に行ったんだ。あの女の子、無事に潜り込めたみたいだよ。ガルドさんたちは警備隊に通報したみたいだけど、特に捜索願も出されてなかったとかで、しばらく預かることにしたって。ほんと、いい人たちだよねえ」
 どこか呆れたように言うシャルルに、苦笑いしながらノアも頷いた。この街の住人は、時としてお人好しすぎるきらいがあった。悪童だったノアたちを働かせる、なんてことを考えるのもどうかしている。普通は動けなくなるまで折檻されて街の外に投げ捨てられて終わりだ。そうしたい、と思っている者は、あの裁きの場にいたことだろう。
 だから、大人はあまり好きじゃない。力が強くて暴力的なのに、気まぐれに優しい。その優しさに一度心を許すと、次の瞬間、簡単に踏みつぶされる。壊される。
(きっと今だけ。その時が来たら傷つかないようにしておかなくちゃいけないんだ)
「それを知らせに来たんだ。ノア、なんかあの子のこと気にしてたみたいだからさあ。ああいうのが好みなの? 僕が知ってる限りでは、もっと、どーん、ばいーんって感じのおねえさんたちが……」
「むかしのことは言うな!」
 ぎょっとして大声で遮る。がちん、と時計の針が立てる音に我に返って、ノアは咳払いした。
「だって……不思議じゃないか。時計の中で眠ってた女の子なんて」
 それに――あの〈音〉。
 普段は、そこかしこに溢れている〈音〉を聞き流すようにしている。モノはこの世の至るところにあって、常にどこかで〈音〉を響かせている。子どもの頃はあまりにうるさくて、どうにかなってしまいそうになったこともあったけれど、聞かない、という地道な訓練の結果、普段から〈音〉を聞く能力を遮断できるようになった。
 けれど時にはっきり聞こえるものがある。意思を持つみたいに強く響く〈音〉があるのだ。
(あの子……もう一度会ったら、分かるだろうか)
 ノアの返答は言い訳じみていたらしく、シャルルはにやにやしながら、思わせぶりなことを言った。
「仕事がひと段落したら、ティナのところに行ってみたら? 面白いものが見られるかもよ?」
「面白いもの?」
「見てのお楽しみ。じゃあね、僕は仕事に戻るから」
 鞄を背負い直し、表に出て行く。またな、と手を振ってから、アダムが帰ってきたら外出できるか聞いてみよう、とノアは考えていた。

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