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 戦前に工場として稼働していた多くの建物は、戦後、すべて廃棄され、風雨にさらされるままになっている。この街の子どもたちはみんな、ここに来てはいけないと言い含められる。建物の壁はひび割れ、いつ崩れ落ちてもおかしくないものが多数あるからだ。取り潰して何かを建てられるほどの資金を誰も持たないので、木々が廃墟を覆い、薄暗く、不気味な雰囲気を漂わせており、ますます人が寄り付かない場所になっていた。
 そうした廃工場のひとつが、ノアたちの溜まり場になっている。
 建物の中の濃い闇の中に踏み入ってしばらくすると、不意に背後が明るくなった。
「その子、だれ?」
 ランプを手にした、シャルルの小柄な影が浮かび上がっていた。天使のよう、と表現される顔を小鬼みたいに思いっきりしかめている。
 さらに離れたところで二つ、光が灯る。その一つのそばで、低く静かな声がため息まじりに問いかけた。
「何を拾ってきたんだ、ノア、ティナ」
「ノアが手を引いたらついてきちゃったの! エリック、この子、柱時計の中で眠ってたのよ。信じられる?」
 両手を腰に当てたティナの答えに、エリックは眼鏡の奥の目を細めた。視力が低く、そもそもの顔つきが厳しい彼にそんな表情をされると、責められているように感じる。ノアは慌てて言った。
「だって、放っておけないよ! あのごうつく野郎の餌食にされるところだったかもしれないんだから!」
「それは否定しない。ヴォーノの欲深さはみんな知っている」
「あの……きみ、だいじょうぶ?」
 最後に、ランプを手にしておずおずと近づいてきたルースが、ひょろりとした背を屈めて少女に尋ねた。少女は、肩を縮めるようにして覗き込む彼に、何の感情も見えない眼差しを返すだけだ。それを見たルースは悲しそうな顔をして、エリックと顔を見合わせた。
「しゃべれないのかな……?」
「薬を使われたのかもしれん。ヴォーノならやりかねない」
 その時、シャルルがあっと声を上げた。
「ティナが言った柱時計って、昨日運び込まれたやつかも。じじいの留守中に執事さんが受け取ったって、厨房のおねえさんが言ってた」
 あの屋敷の持ち主、資産家のヴォーノは好事家としての側面も持っている。その感性は猥雑だが、時には趣味の良い品もあって、ノアたちが見つけたあの柱時計もそうやって買い付けられたものだと言うのだった。
「でも、女の子が買われてきたっていうのは聞いてないなあ。柱時計の付属品扱いなのかな?」
「シャルル、人をモノ扱いすんな。ルリア姉が聞いたら悲しむ」
 ノアが軽く叱ると、シャルルは肩をすくめた。
 しかし、親の存在がないままこの街に流れ着いた自分たちにとって、自分たちのような子どもが、ヴォーノのような強欲な人間たちに商品として売買されるのは、ごく当たり前の出来事だった。
 そういったものから逃げるために、自分の力で生きるための術を身につけてきた。盗み、ゆすりたかり、詐欺。時には徒党を組んで、売人や悪漢から逃げ回る。そうして、機工都市に集まった者で、いつの間にか〈黒鎖団〉を名乗るようになった。今はやっとそこから足を洗った――と言いながら、時々、大人たちの目を盗んで、義賊として活動している。
 ――すべては、いなくなってしまった彼女のために。
(ルリア姉だったら、この子を助ける)
 そう思うからこそ、ティナはノアがこの子を連れ出すのに反対しなかったのだ。売り買いされたり、道具のように扱われることを思うなら、助ける以外の選択肢はない。
「君は、だれ? どうしてあそこにいたの?」
 少女がノアを見る。綺麗な目をしていたけれど、感情の見えない瞳は、硝子玉を覗き込んでいるような気がする透明さだった。
「おれは、ノア。一緒にいた女の子はティナだよ。そっちの眼鏡がエリック。ひょろ長いのがルースで、小さいのがシャルル。君の名前は?」
「小さいって言うな!」
 抗議したシャルルは、ティナに静かにするよう指を立てられ、むっとしながら口を閉ざす。
 少女は、かすかに首を傾けた。癖のない髪がさらさらとこぼれる。
 ノアは自分を指差しながら、繰り返した。
「ノア、だよ」
「…………」
 唇が動く。言葉の気配に、全員の視線が集まった。
 そして、細く小さな音が紡がれる。
「…………の、……あ」
 ノアは一瞬息を飲み、飛びつくように勢い込んで言った。
「そう! ノア! おれはノアだよ! 君は?」
 だが、聞こえたのはそこまでだった。あとはやはり首を傾げたまま、こちらを見返すばかりだ。ノアはがっくりと肩を落とした。
「だめか……」
「その首飾り、その子のものなのかな……何か手がかりにならない?」
 ルースに言われ、顔を上げる。少女の胸元に金属板が下がっている。ごめんね、と断って、ノアはいつも持ち歩いているルーペをかざした。
「ノア、見るのは首飾りだからねー? 胸じゃないからねー?」
「誰がそんなことするか! ……ほんとだからね!? 首飾り見るだけだからね!?」
 少女の目が心なしか冷たくなった気がして必死に弁解する。気のせいか、ティナのまとう空気まで冷え冷えとしている。なのに「早くしろ」とエリックに急かされて、ノアは顔を赤くしたまま、再びルーペを目に当てた。
 ずいぶん質素な首飾りだ。装飾品としては無骨に思える。細めの鎖と金属板は、どうやら同じ素材でできていそうだ。全体に白っぽく、不思議な輝き方をしている。
「……見たことない金属だなあ。白金……に見えるけど、なんか違う気がする。この細い鎖、どうやって加工してるんだろ…………ん?」
「どうした?」
 ノアの戸惑いを察して、エリックがランプを近づけてくれる。
「板に何か刻まれてる。……〈ロストハーツ〉って読むのかな、これ」
 ルーペを外してもはっきり読み取れる。それを見たエリックも頷いた。
「確かに。〈ロストハーツ〉と書いてあるな」
「何、それ。ルース、知ってる?」
「え!? そんな、シャルル、みんなが知らないことをぼくが知ってるわけないじゃないか」
「首飾りに刻まれてるってことは、名前か何かかしら。でも、女の子につける名前じゃないわよね。通称だとしても趣味が悪いわ。『喪失心』なんて」
 ティナが憤然となって言う。ノアも頷いた。
 心がないなら道具と同じだ。けれど彼女はここにいて、ノアの名前をかすかだけれど呼んでくれた。心がないなんて言えるわけがない。
「話はまだ出来そうにないけど、このまま置いていくわけにはいかないよね。この子をどこかに隠そう。ティナの店に匿える?」
「おかみさんに頼んでみるわ。ふらふら歩いていたところを見つけて声をかけたとかなんとか言って」
 そうだな、とエリックが頷いた。
「ヴォーノの権利書をいただく目的は達成されたし、今夜はこれで解散にしよう。あいつが本当に人身売買に手を染めているなら、証拠を掴まない手はない。時計祭の市長選挙まであと少し。あの男を市長にしないためにも、情報収集はしっかりしておこう。その〈ロストハーツ〉という刻印も気になるしな」
 エリックのまとめにみんなが頷く。しばらくすれば夜明けだ。それぞれの場所に戻っていないと、大人たちが怪しんでしまう。この街の朝はとにかく早いのだ。
 崩れた建物の間や、放棄されたごみの山を越えていく。夜の風は、露と、錆びた金属の匂いがした。どこかで何かが崩れて、からからという音が響いてくる。この場所をノアたちと共有している、野良の猫や犬が目を光らせている気配もあった。
 その道すがら、ノアは覆面用にしていた襟巻きを外し、少女の首にかけた。
「これ、巻くとあったかいよ。きれいじゃなくて、ごめんね」
 白い一枚の姿で、寒そうだなとずっと気になっていたのだ。
 勝手にぐるぐる巻きにされても、彼女はやっぱりぼんやりしていた。先ほど名前を呼んでくれたのが気のせいだったのではないかと疑ってしまうほどだ。けれど、表に出ていないだけで内心は不安になっているかもしれない。
「あとのことはティナに任せれば大丈夫。ティナは優しくてすごく頼りになるから、心配いらない。落ち着いたら、君のことを聞かせて。どうして時計の中で眠っていたのか、すごく気になってるんだ」
 やがて、人の住む地区に入っていく。分かれ道で仲間たちと別れ、ノアもまた、自身の住む工房へ戻る。

 ――…………り…………ん。

 銀星の光る空の下、誰にも見つからないように足音を殺し、振り向きもしなかったノアは、少女がつかの間足を止めて、自分を見ていたことには気づかなかった。


       *


 かつて人は、火と電(いかづち)の力を用いて、都市を築いた。
 夜でも明るく眩い光と水を汲み上げる機構、速い乗り物を作り、人が住む高い塔を建て、空を目指す。これからますます豊かになろうという世界は、しかしある日、唐突に終りを告げる。
 最初は、火の雨が降ったという。
 空が紅蓮に染まり、星が降るようにして火の塊が落ちてきた。地は割れ、水が溢れ、嵐が起こり、多くの生き物が命を落とした。誰もが、なんらかの兵器が用いられたのだと思った。国が発展しても、どれだけ生活が豊かになり発明が行われても、戦争だけは無くならず、皆、心のどこかで世界を壊す兵器が存在していると考えていた。
 本当に兵器が使われたのか、真偽はさだかではない。国がひとつも残らない、そんな天変地異が幾日も世界を襲った。生き残った者だけが勝者だとされたこれを、のちに厄災戦争と呼び表すようになる。
 すべてを失った人々は、かろうじて残ったものを拾い集めて、都市を再興していった。再び王政を敷いた聖皇都ヴィンターシュヴァルツを始め、罪と罰を与える世界を信仰する宗教都市シュパイアトルム、学者たちが自治を宣言した学術都市ティーフヴァイスハイトなど、同じ志を持った者たちがそれぞれに寄り集まった。それらを繋ぐのは、商業都市ゴルトムンツェの商人たちと、住処を持たない旅人たち。富める者は生まれながらにして豊かに、貧しい者は這いつくばって生きる運命。親の顔を知らない子どもが溢れ、使い捨てのように働かされる若者がいて、身寄りなく死んでいく年寄りがいる――そのようにして、世界が形を取り戻そうと足掻いていた、この時代。

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