<< ■ >>
夜空に、煙のような雲がたなびいている。地表にあるはずの影は曖昧になり、遠くに見える街の光はわずかだったが、目に痛いくらいに輝いて見えた。かすかにひりつく生ぬるい風に呼吸を整え、ノアは、街の高台に建つ屋敷の、整えられた芝を音もなく踏む。先頭を切るティナは、すばしっこい猫のように茂みから茂みへ走り抜け、続くノアに手を振って合図してみせた。
指示を受け、素早く建物の壁際に移動し、ぴったりと身を寄せる。そして、慎重に屈めていた身を起こし、近くにあった窓から室内を覗き込んだ。
鏡のようになった硝子には、口元を布で覆った、栗色の髪の自分が映っている。
誰もいない。気配もない。家人はみんな、すでに火を消してベッドの中なのだろう。
指先で窓を叩いて鍵の位置を探った。どうやら金具を下ろすだけの簡単な錠のようだ。ノアは、持っていた工具を隙間に差し込んでそれをずらしあげた。かたん、とかすかな音がした。
そっと窓を開くとティナが侵入する。相変わらずほれぼれするしなやかな動きだ。昔から〈黒鎖団〉の仲間で最も柔軟な動きをするのが彼女だった。団を解散しても、その身体能力は衰えていないらしい。ノアもまた、周囲の気配を探りつつ、同じく室内に降り立った。
扉を細く開けて、廊下を伺う。火が灯されていない廊下は、この屋敷の主人の音に聞こえるけち臭さを象徴するかのようだ。
部屋を出て廊下を進む。敷き詰められたふかふかの絨毯が、何もせずとも足音を殺してくれる。
途中には虎の毛皮が敷かれ、かと思えばその壁には雪国の絵が飾られており、隣には紫色の壺が置かれている。壁紙は途中から赤と白の水玉模様になって、じっとしていると気が変になりそうだった。ノアよりも先に悪趣味の展覧会のような品物を見るティナが、「うげー」と声に出さずに呻いたのが分かる。
ノアは笑いを噛み殺しつつ、目的の部屋まで来ると扉の鍵を確かめた。細い工具を差し込んで〈音〉を聞く。
――ぎぎぎ、ぎちち。
(いい子だから、ちょっと協力して)
不機嫌そうにぎちぎちいっていた鍵は、やがてなだめられるようにして静かになり、一瞬の間の後、かちり、とそれを開いた。
「さすが」
ティナの呟きに指を立てて、室内へ促す。滑り込んだそこが、暗闇に包まれ、誰の気配もないと知ると、かすかに緊張が解けた。殺していた声を少しだけ大きくする。
「それで、目的のものは?」
「シャルルの話だと、権利書関係は手持ち金庫に入ってるって」
壁際の引き出しを躊躇なく開けていくティナは、あっという間にそれを見つけ出した。
「開けて」
「はいはい……」
指先で叩き、鍵の〈音〉を聞く。どうやら頻繁に開け閉めされているらしく、またかとでも言いたげだ。
――こここ、くく。
やがて仕方なしに鍵を開けてくれる。
中に入っているのは書類だった。土地の名義人が記された契約書、売買成立の証拠や、帳簿も入っている。
「うわ、これ全部が不正の証拠? やばい量だな」
「ぜんぶいただいていきましょ。人を騙して、店や土地の権利を奪い取るくそ野郎が市長に立候補しようだなんて、厚かましいにも程があるわ。それで儲けたお金であの廊下でしょ? どうかしてるわ」
「面白いものもあるけどね。これとかさ」
ノアは、部屋の隅に沈んでいた、黒い柱時計を指した。
大人ひとりが飲み込まれそうな大きな時計だ。棺桶めいた黒々とした外観に、流麗な植物を模した金の装飾が施されている。だが、針も振り子も止まり、沈黙していた。
「あら、そんなところに時計があったなんて気付かなかった。ふうん……色の割に、なんだか可愛らしい時計ね」
「昔の音楽都市で流行った装飾だよ。こういう曲線は楽器によく使われてる。この時計、もしかしたらこの街の時計塔より古いかもしれないね。流麗装飾が流行ったのは、小さな塔をたくさんつける荘厳装飾よりも前のことだから」
「じゃあ、古すぎて動かないのかしらね。時計なのにただの飾りって、もったいない」
「いや、この時計、多分まだ動くよ」
「あら、そうなの?」
――りん。
細い金属の板を弾くような音――思い出したように、りん、と鳴るそれは、ノアにしか聞こえないらしい、この時計が生きている〈音〉だ。
だからこの柱時計は、修理すればきちんとその〈音〉をひとつの曲として歌い鳴らすだろう。
(きれいな〈音〉だな……)
空の果てしないところ、海の底、誰にも見つからない場所にあるものが、自分にだけささやきかけてくるような、やわやわとした喜びと緊張がある。
この街には数え切れない無数の〈音〉が絶えず鳴り響いているけれど、この時計が奏でる〈音〉は、それらのざわめきの間を縫って、心の奥深いところまで届くようだった。
「ノア、そろそろ行こう。誰かに見つからないともかぎらないし」
「うん」
そう答えつつも、一歩踏み出す前に再び柱時計を見つめていた。
(なんだろう、何か、気になる)
――……りり、ん。
「ノア?」
時計を見上げる。
(待って、って、言った?)
今までとは違う響きで、〈音〉はノアを呼び止めている。
「ちょっと、ノア!?」
制止するティナを無視して工具を取り出し、時計盤の風防を開けた。仕事柄、文字盤にねじまき穴があることは知っていたから、ねじの代わりに工具を差し込むことに疑問は持たなかった。
鍵を開けるとき、その解錠音には様々ある。秘密の場所を知られてしまった怒りの絶叫のように響くことも、恥じらいを含んだかすかな笑い声に聞こえることもある。
そしてこの時ノアに聞こえたのは、満面の笑みで訪れた者を歓迎する、感謝の響きだったのだ。
開いたのは、振り子のある柱部分。そこが扉になっていて、振り子の奥がなんらかの空間になっているらしい。何気なくそこを確かめて、ノアは動きを止めた。
――り、ん。
「どうしたの、ノア、何か……っちょ!? えぇ……?」
背後にいたティナが、同じものを見て戸惑いの声を上げている。当然だろう。ノアだって自分が見ているものが信じられない。
「ティナ。これ、何に見える?」
「何って、どう見ても」
異常性、異様さを目の当たりにしてしまえば、口が動かなくなるのも当然だろう。言い淀む彼女の言葉を引き継いで、ノアは言った。
「――女の子、だよね」
黒髪の、少女だった。自分たちより少し年下に見えるから十四、五歳だろうか。裸足で、膝を抱える腕は真っ白だ。自分の身体を丸めるようにして目を閉じている。
――り、りん……。
そのまつ毛が震えた。
息を飲むノアたちの前で、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げる。
ノアの耳に〈音〉が届き始める。かすかだった〈音〉が、ゆっくりと、規則性を持って奏で始められている。その発信源は。
(この子、は……)
「……っ、ノア! 人が来る!」
瞬時に我に返ったティナが、小さく叫んだ。
だがその声にもまだ醒めない少女は、下から順にぼんやりとノアを見上げている。細い首には小さな銀の板が一枚下がった首飾りがあり、少女の動きに応じて、ゆるやかに光る。
視線が、絡む。
黒い瞳は細かく砕いた水晶のような目。
気付けば、手を差し出していた。
「おいで」
少女は手を見て、さらに周囲を何を感じているのかよく分からない様子で見回し始めた。けれど時間がない。誰かに見つかる前に移動しなければならないのだ。
ノアは少女の手を引いた。引かれた少女は、静かに駆け出したティナとノアの後ろを、覚束ないながらもついてきた。
感じた気配とは別の方向に走ったため、どうやら気付かれなかったらしい。侵入した窓の近くまで無事に戻ってくることができた。ティナが先に外に出たので、少女を外に出そうとしたが、ふと「ちょっと待って」と止めて、自分の靴を脱いだ。
「おれので悪いけど、履いて」
少し間をおいて、少女はノアの靴に足を入れた。表情は変わらなかったけれど、真っ白な足が汚れないで済むことにノアはひとり満足して、少女を窓の外に促す。そして、ティナに「遅い!」と責められながら、人目につかない道を使い、屋敷を抜け出し、街の郊外にある廃工場地区を目指すのだった。
<< ■ >>