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 太陽が輝く明るい空の下には、ノアたちと同じように目的地を持って歩いている人々が石畳を鳴らして歩いていた。牛に引かれた馬車にはどこからか調達された廃材が積まれ、持ち主の男の足元をとことこと犬がついていく。
「最初はルースのところに行こうか。ルースは機織り職人のサリーアさんに弟子入りして布を織ってるんだ。機織り機、見たらびっくりすると思うよ。すっごくでっかいんだ」
 しかしそんなノアの声も聞こえないくらい、リトスにとってはあらゆるものが興味を引く対象らしい。
 落ちている何か分からないものの破片も、子どもたちも、かれらの大声も、女性たちのおしゃべりも。くるくる回るように顔をあちらこちらへ向けて必死に目に焼き付けているみたいだ。気をつけて彼女の手を引いて歩かなければならない。
 屋根のひさしの下で巣を作る鳥に気付いたリトスが足を止め、何をしているのだろうとじっと見上げる。「あれはつばめ」と鳥の名前を教えると、リトスは「つばめ。つばめ。鳥、つばめ」と歌うように何度も口にして覚えようとする。
(あ、〈音〉が歌ってる……)
 つばめ。つばめ。鳥、つばめ。
 見えない〈音〉が音階を奏で、リトスの声をひとつの曲にする。ぽろりぽろりと溢れるそれはつい口ずさみたくなるような可愛らしさで。
「つばめ。つばめ……」
〈音〉に合わせて歌ってみる。周囲に光の紙吹雪みたいなものが見えた。きれいだな、と思ったノアは、ふとリトスの視線に気付いて、そのまん丸の目にぎくりと歌うのを止めた。
「どうして?」
「な、なにが?」
「ノアのうた、きこえる音とおなじ。ノアはきこえるの? ティアは『きこえないわ』って言った」
 今度はノアが息を呑む番だった。
「……きみには、聞こえるの? 耳で聞く音とは違う別の〈音〉……」
 リトスはきゅっと眉を寄せた。
 しばらく黙りこんだのはどうすれば自分の感じるものがうまく伝わるのか、言葉を探していたかららしかった。
「音は、ふたつあるの。ひとつは、ノアやみんなの声、いろいろ……。ふたつめは、声とはちがう。風じゃない。いきものじゃない。べつの音」
 ゆっくりと、不安が混じった難しい顔で説明しようとする。
 ノアの胸はそれに合わせてどきどきと高鳴ってきた。
「その音は……きらきら、りんりん……ぴかぴか?」
「っ、うん! ころころで、ぽろぽろだよね!? 今も聞こえるよね? ずっと遠くの方で鳴ってるよね」
 たまらず勢い込んで言うと、リトスは頷いた。
「うん。ずっときこえる。ちいさくて、とおくできこえる。とても、きれい。わたしも、おなじ〈音〉がするの。でも、みんなにきこえない。ティナは、ほかのひとにはないしょって言った。でも、ノアと、エリックと、ルースと、シャルルと、ティナには、言っていいって言った」
 だったらそれは機械の奏でる〈音〉なのだ。
(〈ロストハーツ〉はモノたちの〈音〉が聞こえるんだ……!)
 ノアは、大きく息を吐いた。心臓が興奮で鳴っている。目が熱いのは日差しが眩しいだけだからじゃない。落ち着かなければこぼれてしまいそうだ。
 初めて自分以外のその〈音〉を聞く存在に遭った。相手は人間ではないけれど、きっと同じものを聞いているはずだとノアは信じた。
 ティナがそれを口止めしたのは、リトスが〈ロストハーツ〉であることを他の人々に知られないようにするためだろう。
「ノア、かなしいの?」
「ううん……嬉しいんだ。リトスが、おれと同じ〈音〉を聞いていて、うれしい」
 世界できっとふたりだけ。
 ひとりだけじゃないってことはなんて嬉しいんだろう。ノアが顔を歪めて笑うのをリトスは瞬きもせずに見ているから、だんだんと照れくさくなってくる。
「あの、さ。おれもリトスと同じ〈音〉が聞こえること……みんなに内緒にしてるんだ。だからティナに言われたことはちょっと忘れて、おれ以外の誰かに言わないようにしてくれる?」
「〈音〉がきこえるのは、よくない?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
 奇異の目で見られる、その危険性をリトスは知らないのだ。自分の理解の及ばないものを排除しようとするのは、その人たちの心の余裕がないからだと分かってはいるけれど、実際その状況を迎えると誰もそのことに気付きもしない。だからこの街に落ち着いたつもりでいても、ノアは自分の力のことを誰にも話せていない。
(弾かれたら、ひとりになってしまう)
 斬りつけられるのにも似た痛みを受けて、この広い世界に一人きりで放り出されるのは嫌だ。そう思うから。
「……さっきの約束と一緒だよ。悪いひとが捕まえに来るかもしれないから内緒なんだ。みんなと離れ離れになりたくないからだよ」
「わかった。わたしも、ノアとはなれたくない」
 神妙な様子でリトスが言うのに、ちくりと胸が痛んだ。
(こんなにおれのことを信じてくれてるのに、それらしいことを言って、頷かせて……おれって、悪いやつだな)
 気をつけなければ、リトスを自分だけのものだと錯覚しそうだった。

 ルースの働く工房は郊外に近い地区、機織り師たちの工房が集まった場所にある。この辺りの建物の見分けるには、扉の前にかかっている布飾りやカーテンに注目すればいい。光に照らされたときの布の輝きや色彩、糸の太さ、染め抜きの模様など、やはりそれぞれ個性があるのだ。
 その中でルースの師匠のサリーアは、同色の糸を使って微妙な濃淡を出すことで有名な機織り師だ。
 機織り師の工房はどこも扉を開けている。光が入って風通しのよい方が好きだとこの地区の職人たちは言う。街の喧騒が遠いからだろう。かしゃり、かたり、という音が反響している。
 扉にかかっている薄い緑のカーテンを掻き分けると、二台並んだ機織り機の前にルースとサリーアが座っていた。手を動かし足元のペダルを踏み変えるのが、先ほど外まで聞こえていた音だ。
 ルースがふとこちらに気付いて笑顔になった。サリーアも顔を上げたのでノアは頭を下げる。
「こんにちは! ラクエンのノアです」
「やあ、ノア。いらっしゃい」
 機織り師のサリーアは、白髪をあっさりと束ねた細身の老女だ。自分で織った布で仕立てた服を着て、作業時はその上から前掛けをしている。女性らしい服装なのだが雰囲気がどこか中性的で、この時もノアとリトスに笑いかける顔は、にっこりというより、にっ、という感じだった。
 ルースが作業の始末をして、奥から飲み物を持って戻って来る。サリーアも区切りがよかったらしく、ルースから飲み物の器を受け取っていた。
「仕事の邪魔してごめん。リトスにいろいろ見てもらおうと思って」
 そのリトスは機織り機に興味津々だ。さわっちゃだめだよ、と声をかけるが、頷きつつも機械から目を離さない。
「これ、なあに?」
「機織り機。布を織る機械だよ。完成するとこうなるんだ」
 ルースが完成品を持ってくる。花に似た模様が表れた布だ。色糸がいくつも使われていて、子どもが描いた「楽しい春の野原」のようだった。リトスの目が、作品と機械と織られている途中のものとを見比べて、きらきらと輝き始める。
「すごい! きれい。かわいい……」
「これ、サリーアさんの?」
 ノアが問うと、ルースはそばかすの散った頬をぱっと赤く染めた。
「ご、ごめん……ぼくが作ったんだ……」
 リトスはその意味が分からなかったが、ノアはえっと思わず声を上げた。
 ルースはますます首を竦めるが、肩を掴んで揺さぶってしまいそうなくらい、ノアは驚いていた。
「すごいよ! いつの間にこんなの作れるようになってたんだよ! 確かにルースはこういう細かい仕事が得意だし、センスがいいしなあ……」
 ルースは慌てたように首を振った。
「そんなことないよ! 細かい作業が得意なのはノアの方じゃないか。時計の部品や機構を診るなんて、それこそ集中力がないとできないことだよ。ぼくは時間をかけてやっとここまでできるようになったんだ。それでも、糸の処理とか緩みとか、課題はいっぱいあるんだけど……」
 かしゃり、とんとん。
 ――しゃらら、しゃら。
 ひとつの〈音〉が糸となって解けていくのが見えた。しゃらしゃらと、金属の糸が奏でる自鳴琴のような音色だった。
 振り返ると、いつの間にか機織り機の前に座ったリトスが、サリーアの指導を受けながらそれを動かしているところだった。
「あなた、筋がいいねえ。初めてなのに操作がおっかなびっくりじゃないのはめずらしいよ」
 かしゃん。とんとんとん。
 それは、きっとリトスが〈音〉を聞くせいだ。機織り機が持つ最も美しい〈音〉を奏でようとすれば、どう動かせばいいかが彼女には分かるのだ。ゆっくりだが、正しい操作で機械を動かしている。
 しゃっ、かたん、とんとんとん。
 ――しゃらら、しゃらら、たたんたたん……。
 しゃっ、かたたん、ととんとん。
 ――しゃらら、たたん、しゃらら……。
 リトスの手はどんどん淀みなくなっていった。初心者とは思えない手つきで、間違いなく機織り機を動かしていく。それを見ているサリーアとルースがみるみる訝しげな顔になっていた。声も出せないのはその光景が少し異様だったからだ。
 機織り機とリトス、それがまるでひとつ機構のようで。
(リトスがいなくなってしまう)
 ぞくりと背筋が凍るように突然そう感じて、思わず手を止めさせようと声を上げかけた時。
「――黙れ、じじい! それは話がついただろうが!」
 荒々しい気配と怒鳴り声が静寂を割いて響き渡った。リトスはびくりと手を止め、ノアとルースははっと顔をあげた。
「リトス……」
 恐る恐る声をかけると、リトスはぱっと笑った。
「これ、とってもおもしろい! すてきな〈音〉がする」
 薄れていたリトスの意識はちゃんとそこにあった。けれどうまく笑えなくて、ノアはへにゃりと曖昧な顔をしてしまった。どうして彼女がいなくなるような気がしたのだろう。
 そう思っている間にも、外の騒ぎは大きくなっているようだった。
「ノア……」
 ルースと目を見交わし、ノアは頷いた。
 ヴォーノの手下かもしれない。
 この街で、機織り師はなかなか徒弟が得られない職人だ。そうした人たちの工房と土地をいつでも奪い取れるよう、あの男は配下を放って目を光らせている。
「リトスはルースと一緒にいて。サリーアさん、おれ、ちょっと様子を見てきます」
「あの声はヴォーノのところの子たちだね。気をつけなさい。くれぐれも喧嘩は売らないように」
 まるで見透かすような台詞に、冷や汗が流れる。
(うーん、絶対に騒ぎを起こすと思われている節があるなあ……)
 全員が揃っていれば『騒ぎを起こさないように』と言われるのだが、一人だけ注意されるとしたらノアなのだ。喧嘩っ早いつもりもないし、乱暴者というわけでもないと思うのだが、何かのきっかけはノアだ、とみんなが思っているような気がする。
 リトスは心配そうにノアを見ていた。その、彼女が自然とそこにいることにさきほどの恐怖めいた不安をぬぐわれて、心の中でほっと息を吐く。
 外に出ると、大声を聞きつけた人々が工房から出て様子を伺っていた。
 人が集まっているところに駆けつけると、壁際にお年寄りを追い詰めた男が二人、顔を歪めて脅しつけている。瞬間的に割って入りそうになったが、「こら!」と様子を伺っていた職人に腕を掴まれた。
「猪みたいに突撃するのはおよし。喧嘩しても向こうが正しいんだから」
「何があったの?」
「土地を売れって言われて、ミゲルさん、跡継ぎがいないからってこの前権利書を渡しちゃったんだよ。すぐに気が変わって『やっぱり売らない』って言ったんだけど、向こうに書類が渡ったから、返せ、返さない、でずっと揉めてるのさ」
「帰れ! この土地は絶対に売らん!」
 唾を散らす大声でミゲルが叫ぶ。
「そうは言ってもじいさん、あんたこの前、俺たちに権利書を渡してくれたじゃねえか。それでもまだここは自分のもんだって言うのか?」
 にやにやと、今度は優しく、しかし脅しかける口調だった。離れたところで見ていたノアはちょっと考えて、声を張った。
「揉めるんだったら商工会に入ってもらって話したら? ちゃんと書類を揃えて話をつければいいんじゃない?」
 男たちが一瞬ぎくりとし、ノアに向かって怒った顔を向けた。
(手元にその権利書がないから、言えるはずないもんね)
 ヴォーノの屋敷から盗み出したそれらは、現在厳重な場所に隠され、順次返却中だ。書類がなければ正当性は主張できまい。文書が偽造されれば罪になるし、商工会が間に入れば土地や店が安く買い叩かれることは防ぐことができる。
 にっこり笑うノアに忌々しいとばかりに舌打ちして「また来るぞ」と男たちは去っていった。ほっとした空気が流れ、それぞれが好き好きに噂を始める。
「あんまり見たことのないやつらだったね」
「最近新しいのを雇ってるって話だ。外の人間の出入りも多くなってきたし、街の雰囲気が変わってきたね」
「そういえばノア、あんたたちも新しい子とつるんでるって話じゃないか。ガルドさんとこに新しい女の子の居候がいるんだろう」
「さっき一緒に歩いていた子がそうかい? 見たことなかったが」
「記憶がないんだって聞いたけど、本当か?」
 人同士が密につながっている街だ。新入りには敏感だった。説明するまでもなく、職人たちはみんなすでにリトスの事情を知っているらしい。
「本当に何も分からないみたいだから、困っていたら助けてあげてほしいんですけど、でもできれば落ち着くまでそっとしておいてあげてくれませんか? 自分のことを話すのも精一杯で、いろいろ言われると混乱しちゃうと思うんです」
「事情のある子なんだね。分かった」
「気にかけるようにしておこう。お前たちも目を離すなよ」
 そう請け負ってくれる職人たちに一礼して、サリーアの工房に戻ると、入口のそばでルースとリトスが待っていた。ノアの姿を見た途端、リトスが不安そうな顔で駆け寄ってくるのに、大丈夫だよ、と笑う。
「エリックやシャルルのところにいくのは今度にしよう。今から連れて行きたいところがあるんだ。一緒に来てくれる?」
 ノアの予定では、もう他の場所に寄らず、このまま連れて行きたい場所に向かうのがちょうどいい時刻なのだった。
「うん。いく!」
 先ほどの騒ぎを仲間たちに知らせるようにルースに頼んで、元気よく答えたリトスを連れて、ノアはサリーアの工房をあとにした。

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