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「機織り上手だったね。いい〈音〉がしてた」
 リトスは嬉しそうに頬を緩める。ノアの手を握りながらふんふんと歌い始めた。さっきのつばめの歌の節だ。よっぽど気に入ったらしい。
 天気がいいので、空全体が甘い赤に染まっている。薄くて少ない雲は野花のような紫色だった。
 街の外へ向かう道は、だんだんと人の数が多くなる。この時間帯は、他の街へ移動する人々が移動手段を求めて集まってくるからだ。くるりと振り返れば〈動かない時計塔〉が見える。文字盤が日を受けて金色に光っていた。そろそろいい時間だ。
「ここは正門。外壁には自由に登っていいことになってるんだ」
 戦前に建てられた門だから石が落ちたり崩れたりしていたが、その度に補修されてきた。不安定に歪んだ石の階段を登っていけば、少し高くなったところから街を望むことができる。
 リトスの手を引いて外壁に出ると、風の動きが変わった。リトスの長い髪で遊ぶようだ。
「ほら、日が沈む」
 指し示した先で、緑の地平線に向かって太陽が駆けていく。真っ赤な硝子玉のような夕日は、リトスの瞳にきらきらした光を投げかけていく。
「まぶしい」
「太陽を直接見ちゃだめだよ。目が痛くなるからね」
 うん、とリトスは目をこする。
 ノアは地平を指した。
「あの丘を越えてずっと行くと、宗教都市シュパイアトルムがあるんだ。どの建物も塔になってる街なんだって。古い神殿と新しい教会があって、すごく綺麗な場所らしい。住んでる人たちはみんな神様を信じてるんだって」
「かみさま……かみさまって、なに?」
 改めて尋ねられると難しい。エリックのように賢くもないから、うまい答えが思いつかない。
 ただ、ルリアのことが浮かぶ。
 彼女は天使だった。だからたぶん、神様にとても近いのだと思う。
「うーん……神様っていうのは……心を守ってくれる存在……かな」
「こころを、まもる?」
 ノアは頷いて、あまりにも曖昧な自分の答えに苦笑した。
「願い事とか信じたいことを、みんな、神様に託すんだ。するとみんな安心する。心の中にある、大事なものを守ってもらえるって思えるんだ」
 リトスには少し難しかったようだ。ぎゅっと眉を寄せてしまう。
「ノアは、会ったこと、ある?」
 少し考えて、答えた。
「……ううん。でも、神様みたいな女の子には会ったことがあるよ」
「『神様みたいな』? どんな女の子? わたしも会いたい! どうやったら会える?」
 目を伏せてしまったのは記憶が揺れるから。
 どんなに大事な存在でも、その振る舞いが多くのものを救っていて天使のようだったとしても、ルリアは神様ではなかった。誰の手も届かないところで死んでしまったただの女の子だった。ノアたちは、食べて寝ろ、と叱ってくれた人を失ってしまった。
「……ルリアは優しくてしっかり者で、いつも微笑んでいる女の子だった。誰かが傷つくのがいやで、いつも誰かのことを心配してた。誰かを助けるっていうことに一生を費やして……死んでしまったんだ。だからもう会えないんだよ」
「しんでしまった? しぬって、なに?」
 息を詰めた。この子はそんなことも知らない。覚えていない。身を引き裂かれるような苦しみも、残された後の焼かれるような思いも。
 できればそれを知らないままでいてほしい、と願う気持ちと。
 悲しいほど憎たらしいような複雑な感情と。
 それらが渦巻く心を鎮めて、首を振る。
「死ぬっていうのは、もう生きていないっていうこと。死んでしまうと、もうその人と会うことも話すこともできなくなる。生きている間に一緒にできたことができなくなるんだよ」
「そうなんだ……だから、ルリアには、もう会えないのね。でも、会いたくなったら、どうすればいい?」
 ノアはなんだか泣きたくなった。
 きみに会いたい。ずっと会いたいと思っている。
 ルリア。この街できみと、みんなとずっと生きていたい。でもその願いは叶わない。もうきみはここにいないから。
「……おれには分からないんだ。もし分かったら教えてくれる?」
「うん! 会いたくなったらどうすればいいか……わかったら、おしえる!」
 下にある門をくぐった乗合馬車が街道を進んでいく。からからと車輪の回る音が、ゆっくりと遠ざかって、やがて聞こえなくなる。夕陽が作る長い影も夜の訪れとともに薄れていった。
 ひとつ息を吐いて、ノアは言った。
「……今度は、エリックの印刷工房とシャルルの働く郵便局に行こう。街の外にも行こうか。お弁当を持ってみんなで遠足に行って……。市が立つ日には買い物をしよう」
「ノアは? ノアは、どこにいるの?」
「あれ?」
 そういえば道順に入っていなかった。少し考えて、言った。
「今からちょっとだけ、見にくる?」
 リトスの顔がぱあっと輝いた。
「うん! いく。つれていって」
 分かっているがこの反応の良さに心配が募る。無邪気すぎて少し怖い。
(ルリアみたいになってしまいそうな気がする)
 自分の考えに息を詰める。
 リトスは危うい。正しいこと、信じるものを見つけてしまったら、自分を犠牲にしてしまいそうな純粋さがある。ルリアという少女の奥底にあったものと同じものが見えるような。
 でも、仲間たちにそれを説明すると「まったく似ていない」と言われそうな気もした。

 工房が軒先に明かりを入れると、通りの雰囲気は一変する。昼の光に満ちた穏やかな細道は夜の闇に染まり、点々と橙色の光が灯って、誘うように輝いているのだ。飲食店が並ぶ場所とは違ってひそやかな夜を迎え、建物の奥からは遅くまで作業する音がかすかに届く。
「リトス?」
 袖を引かれて、ノアは振り向いた。
「この場所、たくさん〈音〉がする」
「ああ、機械をたくさん持ってる工房が多いせいだよ。おれはここにいるのに慣れたから、もうあんまり気にならないんだけど……うるさい?」
「ううん。でも、なんだか、へんな〈音〉もする」
「それは修理待ちの機械の〈音〉だね。どこも修理を請け負ってるから。リトスに分かりやすく言うと、おれたちの仕事は〈音〉が狂ったものを正しく直すことなんだ」
 裏へ回り、工房の扉を開く。アダムが作業机に座っていたが、足音が二人分だったせいか顔を向けた。
「ただいま帰りました」
「おかえり。その子は……ああ、例の子か」
 さすがにアダムの耳にも入っていたようだ。仕事の手を止めてこちらに向かってきたアダムは熊のように立ちふさがった。リトスは小柄なので親方からすれば見下ろすようになっている。影になったその顔は、弟子であるはずのノアが息を詰めるくらい、こわい。
(な、泣かないかな、リトス。だいじょうぶかな)
 近所の子どもたちならば泣きながら家に駆け戻る強面。ごっつい手。今から襲いかからんとする光景にも見えてはらはらするノアの前で、アダムは、リトスの小さい頭に手を伸ばし――ぐりぐり、ぐりぐり、と撫でた。
「遅くなる前に帰れよ」
 重低音でそう言って机に戻ってしまう。恐る恐る反応を伺うと、リトスは普通の顔をしていた。視線に気付いて首を傾げる。そのことにびっくりしてしまった。
「ノア?」
「えっ、あ、ううん! なんでもない! あれがうちの親方、アダムさん。時計職人だよ。ここにある時計は全部親方が作ったものなんだ」
「ノア」
 低い親方の声にびくりとする。
「表でくっちゃべってないで、内に入れ。物には触らせるなよ」
 親方の許しが出たので工房の中へ足を踏み入れる。リトスは興味深そうにきょろきょろあたりを見回すが、やはり、飾ってある時計や修理中のものが気になるらしい。〈音〉が聞こえるせいだろう。
「ノア、これ。〈音〉が、へん」
 リトスが指したのは壁にかかっている振り子時計だ。
「あ、本当だ。この時計は古いから、部品が磨耗してるのかもしれないな。あとで直しておくよ」
 ありがとう、と言うとリトスはきらきらした目を細めて頷いた。「それから、これ。これも!」とびしびしと指を差すので苦笑いする。
 そんなノアも最後に指されたものには、えっと戸惑いの声を上げた。
 奥の机に見慣れない箱があったのだ。
 表面には何も刻まれておらず、側面に鍵穴らしきものがある。思わず手に取ってみると、ひんやりと冷たい金属の箱だった。こういった何の飾り気のない金属製のものは戦前の品の特徴だ。
「親方、これ、どうしたんですか?」
「鍵師が『お手上げだ』と言って持ってきた。俺に開けてもらいたいと言われたが、まだ見とらん」
 こういったものはよく機工都市に持ち込まれ、鍵師や錠前師、職人たちによって開かれる。しかしアダムの馴染みの鍵師といえば相当な腕前の持ち主ばかりだ。その人たちにも開けられない箱とは、かなり難解な代物ではなかろうか。
 なんとなくリトスと二人してそれを覗き込んでいたが、ふと、リトスの白い手が箱の上に乗せられた。
「リトス?」
 目を閉じた、少女の睫毛が震える。
 そして、ノアは聴いた――〈音〉が歌い始めるのを。
 触れられ、眠りから揺り起こされそうになった不機嫌な不協和音を奏でるそれが、リトスの手のあたりから響き始めた小さな〈音〉によって、少しずつ変化させられていく。足りない〈音〉を足し、ゆがんだそれを正し、複雑に絡まったものを解いていく。
 無機質な音が高らかな歌姫の歌声に変わっていく。
 ――らららら、ららら、ららららら。
 ノアがその〈音〉に浸っているうち――がっちん、と、箱の中で確かな音がした。
 目が醒めるような大音に我に返る。離れたところにいたアダムも「どうした」と振り返った。
 リトスが手をどけると、その箱は、ゆっくりと開いていった。
「これは……本と、手帳?」
 中に入っていたのは、綺麗に装丁された何冊かの本、あとは小さなノートだ。アダムが黙って手袋をした手を伸ばしたので、ノアも慌てて親方と同じく手袋をはめて、中身を確かめた。
 難しい言葉はよく分からないから、わかった範囲でいうならば、この本は戦前のもの。本は物語と絵本、ノートは短い一言が連ねられた日記帳らしい。『戦争が始まった』『疎開することになった』などと書いてある。
「これ、厄災戦争のことを書いて、……リトス!?」
 ――ぎっ。
 歯車に異物が挟み込まれたかのようないやな〈音〉が響いたかと思うと、ずっと黙っていたリトスが崩れ落ちた。慌てて助け起こしたノアは、何度も彼女に呼びかけた。
 彼女の音色は巻き戻るかのように、細く、かすかな不思議な響きをさせていた。

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