第3章 きしむ歯車

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 資料保管庫の外で、ひっきりなしに印刷機が動いている音がする。薄暗く埃っぽい部屋の中で少し遠いその音を聞きながら、エリックは大きく息を吸った。
 インクのにおいが好きだ。特に古い紙に乗せられたそのにおいが。戦前と戦後では原料が多少異なっているため、今の紙、今の糊、今のインクではその香りは出せない。戦火を生き残った古びた本たちだけがまとう、時間のにおいだ。機械の醸し出す金属とオイルのにおいもまた心地いい。
 エリックが勤めているのは印刷工房だ。職人や徒弟は全員が十歳以上年上の男たちで、寡黙で勤勉な人が多い。だから日中は機械の稼動音が響くだけで、とても静かな職場だった。
 エリックはまだ見習いなので、印刷物を作る職人たちに混ざることはできない。s仕事は活字を拾ったり、店のカウンターで来客対応をしたり、外に出て御用聞きにいったりなどする。中でも一番好きな仕事は、この工房にある資料保管庫の整理だ。
 工房が印刷、製本したもののほか、どこからか集められてきた本、画集、一枚ものの文筆家の覚書や画家のクロッキーなどが収められている。工房にやってくる画家が自分の絵を使って欲しいと飛び込みで作品を見せに来る、そういった名残だ。戦前のものだろう著名な作家のメモも残っている。分かりやすいように、カウンターの横に備え付けられた棚にはいくつか貴重な本が並んでいるが、それを手にとって何度も読むという人間は外からもこの街からも現れない。
 そう思ったのに、その日、エリックが店で来客予定を整理していると、見慣れない男が少し戸惑った足取りで入ってきた。
 彼はきょろきょろと中を見回し、「いらっしゃい」とエリックの挨拶にびっくりしたように目を見開き、ほっと笑った。
「こんにちは。あのう、すみません、ここにある資料……見せていただけませんか?」
「少々お待ちください」
 お決まりの台詞で応じ、親方を呼びに向かいながら、エリックは眉をひそめた。
 言葉に訛りがない。だが商人にしてはうだつが上がらなさそうだ。学者、聖職者。間違ってもあのなよなよとした感じは傭兵ではない。いったい何をしにこの街に来たのだろう。
 親方のモースを呼んでくると、男は本棚の前に立っていた。そして、まるで病気にもなったかのように、ぜえはあ息をしながら、のめり込むようにしてページをめくっていた。
「……エリック」
「少なくとも、さっきは普通でしたよ」
 だからおかしな人間を招き入れたわけではないと首を振り、声をかけた。
「お待たせしました」
「はっ! あ、ああ、すまない、つい……というか、この棚はなんなんですか!? ここにある本、聖皇都なら金貨十枚はくだらない貴重書ばかりなんですけど!?」
 男の興奮を見てもモースの答えはそっけない。価値あるものかどうかより、己の審美眼を重視する人だからだ。
「俺が趣味で集めた本だ。よそでどんな値を付けられていようが関係ないな。……で、あんたの用事は?」
「あっ、はい……実は、その……この街の歴史や地理が分かるものをお持ちではないですか? なんでもいいんです。街のことが分かるならなんでも。書店に聞いたら、古い資料を持っているならここだろうと言われまして……。拝見できませんか?」
(街の歴史について調べている? 学者か。もしかしてヴォーノが古い機構を調べさせている件の関係者か)
 エリックは帳面を繰るふりをしながら男を注視した。
「別に構わないが、あんた誰だ。この街の人間じゃねえな」
「はい。最近聖皇都からきました。地域史や戦前の遺物を研究しております、クレス・バートンと申します。この街の歴史と遺物について調査したいと思っています」
 遺物とは、戦前に開発製造された機械や兵器などを指す。大まかに言えば、この都市の廃棄された工場群は遺物だし、もちろん〈ロスト・ハーツ〉もそうだ。
(この男、やっぱりヴォーノに雇われてきたのか)
 モースはエリックと違ってあからさまに渋った態度を表した。
「……俺は長くこういう仕事をやってるから、そういう研究にはちょっとばかり理解が足りないんだが、あんたはそうした調査をして、何をしようっていうんだ?」
「私個人としては、過去が埋もれてしまう前に拾い上げ、なんらかの形で残すことで、私たちの生活がさらに発展すること、そして過ちを犯す前に踏みとどまれることを期待しています。この街の廃工場跡を見ましたが、戦前と同じものを作るのではなく、もっと別の形で利用できたならいいとは思いませんか?」
 滑らかに話し出し、最後には笑って問いかけられたので、驚いた。どうやら意外と雄弁らしい。
 そう語りかけられたものの、モースには響いた様子がなく、がりがりと頭を掻いていた。
「具体的じゃないし、あんたにその権限はないわな」
「はい……私はよそ者にすぎませんから。ただ、ここで知ることができたものがほかの都市をもっと豊かに、平和にするかもしれない。だから知ることは大事だと思っています」
 お願いできませんか、とクレスはもう一度頭を下げた。モースも、気が進まないものの嫌だというつもりはないようだったが、お目付役としてエリックが側につくように言った。もっともらしいことを言ったクレスだが、彼が詐欺師だったり泥棒だったりしないとは限らないからだ。
「見たいっていうもんを嫌だっていうほど、けちな人間じゃないつもりだ。ただ持ち出したり汚したりしないようにしてくれ」
「ありがとうございます!」
「どうぞ。ご案内します」
 親方の許可が下りたので、エリックはクレスを奥の資料保管庫に案内した。
 職人たちが住む一室程度の広さの部屋の壁沿いは、すべて棚になっている。床から下一段開けて本が刺さった棚が二つと、紙類がまとめられた棚が一つ。木箱の中にも古いものが入っている。
「おお……すごいな……う、うわっ! この無造作に置かれてるスケッチ……このサインって画家のアンジェラス!? わあ、図書館や資料館に収めるべきものばかりなんだけど!!」
「図書館も資料館もこの街にはありませんよ。管理できる人がいませんからね」
「もったいないなあ……! 実にもったいない。君みたいな人がたくさんいれば、管理もできそうに思うんだけれどね」
 何を言い出すんだ、とエリックは眼鏡の奥からうろんな目を向けると、不思議そうな顔を返された。
「この資料室を整理しているのは君じゃないのかい?」
(えっ)
 驚き問い返そうとした時には、クレスはすでに本に意識を集中させてしまっている。すごい観察眼というべきなのか、釈然としないものを覚えつつ、眼鏡を押し上げてため息をついた。
(仕方がない。こいつの様子に注意しつつ、俺も何か読んで待つことにするか)
 ほどほどに話をしてみよう。ヴォーノの動きについて有益な情報が得られるかもしれない。それに遺物研究とやらにも興味がある。外の街の人間と話す機会もめったにないのだから。
 横目で見たクレスはまるで本の中に飛び込もうとする虫のようで、子どもっぽく見えた。少しおかしくて、エリックは声に出さずひそかに笑った。


       *


 ノアが目を覚まして最初にしたことは、客室で寝ているリトスの様子を見に行くことだった。
 昨夜、不思議な箱を開けて意識を失ってから、彼女はずっと眠り続けている。
 目を閉じた彼女の側で耳を澄ます。
 ――……り……ぃ……ん……。
 倒れる直前の軋む〈音〉はしておらず、寝息のようにゆっくりとした響きになっている。この〈音〉がなければ、彼女が死んでしまったのではないかと錯覚しそうだった。それほど眠るリトスの顔は白く、作り物めいて現実感がなかったのだ。
 分かっているのに一瞬そばかすの少女の顔が重なって、きつく目を閉じた。
(どうかしてるな。ルリア姉に見えるなんて)
 姿形も声もまったく似ていないのに、ふとした時に二人が同じに見える時がある。何がそんなにそっくりなのだろう。
(雰囲気? それとも目? 言うことが似てる……? どれも当たっていそうでそうでない気がする)
 窓の外で鳥が横切ったのを見て、ノアはそれをひとまず忘れることにした。工房を開けて掃除をしなければ親方が仕事に出て来てしまう。
 そう思って背を向けた時、布の擦れる音がした。
 リトスが起き上がっていた。
「リトス! 目が覚めたんだね…………リトス?」
 起き上がった姿勢のままぼんやりとしている。何も見えていないみたいようだ。
 その小さな唇がかすかに動く。
「――……り…………り、え……ん……たぁ……」
 ごおお、と暴風のような轟きが響き始める。
 うわ言めいた何かをつぶやいている彼女は、自身が発するその〈音〉にも気付いていない。
「リトス、リトス!」
 ノアが肩を揺さぶった途端、ぴたりとすべての音が止まった。
 顔をこちらに向けたリトスの瞳が揺れている。
「……の、あ……――ノア!」
 はっきりと名を呼んでくれたことにほっとしたのも束の間、飛び込んできた彼女を受け止めてノアは尻餅をついた。どすんと重い音が家中に響き、打った身体が痛んだけれど、腕の中にいるリトスの震えに気付いて呻き声を堪える。
「ど……どうしたの。怖い夢でも見た? それともどこか痛い?」
「……思い、出したの……わたしの、きょうだいのこと……」
 目を閉じ、彼らの顔を思い出そうとしているのだろうけれど、どうやらうまくいかないようだ。震えは大きくなったり小さくなったりして、一向に収まらない。わたし、と語り始めては言葉が止まり、辛そうな様子にノアは何度かもういいと言ったけれど、リトスは話さなければいけないという風に首を振って、途切れ途切れに話し始めた。
「わたしには、きょうだいがいた。七人きょうだい。わたしは末っ子……みんなの名前は、ぜんぶおもいだせないけれど……みんなは『せんそうがはじまった』って言った。せんそうがはじまった、かくれなきゃ……って。そして、みんな、どこにいるのかわからなくなったの。わたしもリリエンタールに言われて、かくれることになった」
「……リリエンタール? お兄さん?」
「そう。リリエンタールは、いちばんめ」
 歌うように言ったあと、リトスは目を伏せる。
「わたしは、みんながわたしを見つけられないとこまるだろうって思ったから、『ここにいるよ、ここにいるよ』って、ずっと呼んでいたの。でもいつのまにか、すごくすごく、ねむくなって……」
 こわかった、とリトスは呟いた。こわかった。かなしかった。そして、そのあとは何もわからなくなってしまった。
 そう言って、リトスはぎゅっと胸元を握りしめた。層を重ねて色濃くしていくように語られる記憶だったが、彼女自身もそれに戸惑っているようだった。気付いた時にはノアの胸の中で目を閉じ、再びうつらうつらし始めていた。
 機械人形のことはよく分からないが、忘れていたことを思い出した衝撃は、きっと大きな影響を及ぼしたのだろう。リトスを寝台に戻して、自分が仮眠するときに使う毛布をかけてやり、ノアは掃除道具を取り出して店の表に出た。

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