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 いつもの掃除の時間をもうだいぶ過ぎてしまっているから、馴染みの徒弟たちの姿はなかった。
(ん……?)
 というのに、誰か立っている。
 長い外套を着て目深に帽子をかぶっている。やけにきらきらしているのは、その髪の色が月を磨き上げたような銀色をしているせいだ。箒を片手に立ち尽くすノアを鋭く見た瞳は、煙った紫水晶のようだった。
 ――……ろぉ……お……ん……。
「坊主。この店の人間か?」
 ぞくっと背筋を震えた。なんて低くていい声なんだろう。
「開店前で悪いんだが、ちょっと見てもらいたいものがあってな。これなんだが」
 言って黒の革手袋で差し出したのは、金鎖の蓋つき懐中時計だった。宝石などはついていないが蓋の装飾が細やかで、かなり高価なものだろうと推察できた。
 ――……ろ……ん……。
(綺麗な〈音〉だ……さっきから聞こえてるのはこの時計の〈音〉かな)
〈音〉を無意識に聞いたノアは、ちょっと考えて、その時計を預かることにした。
「拝見します」
 リトスの〈音〉に、ちょっとだけ似ている。〈音〉に性別があったら女の子かもしれない。とっても美人だけれど、不思議と歳をとらないような。ただ少し疲れているようだった。どうしてかと傾けて採光を変えると、文字盤を覆う硝子に傷が入ってしまっているのが分かった。
(あ、蓋の内側に何か刻まれてる)

『わたしは永遠にあなたのそばに。リエラからリエルトへ』

 見てはいけないものを見た気がしたので、忘れることにする。笑顔を貼り付けて尋ねた。
「この風防の傷ですか? これならおれでも交換できますよ。急ぎますか?」
「今やってもらえるならその方がいい。頼めるか?」
 店の扉を開けてお客を招き入れる。
「一時間くらいかかるかもしれません」
「構わん。……ただ、硝子の交換以外はするな」
 強く命令する口調だったのでノアは動きを止めた。
 男は底冷えするような目をしている。
「何かがおかしいと思っても、内に触れるな」
 はい、と答えるしかない。どうやらわけありの品らしい。
 奥へ入って余計なことをしたと思われたくなくて、ノアは綺麗に掃除してあったカウンターに作業道具を広げた。店に入ってきた男は、カウンター前の待合にある椅子に腰を下ろす。
「すごい数の時計だな。手入れしているのはお前か」
 壁にずらっと並んだ時計は嫌でも目に入る。興味深そうにそう言われ、はいと頷いたが、思い返して「ん?」と思った。
(この人、よくおれが手入れしてるって分かったな……おれがこの工房の主担だって勘違いしてるのかな)
 年齢的には弟弟子がいてもおかしくはないので、言い当てたのはきっと偶然だろう。
 傷の入った風防をそっとはずし、さっと汚れがないか確認して、埃が入らないように細心の注意を払いながら新しい風防をはめ込む。
 時計そのものは、多少扱いが雑なのか細かい傷がたくさんついていた。家の中はもちろん外でも持ち歩いているのだろう。大事にしているのか適当に持って歩いているだけなのか、よく分からない。それでも値打ちものというのは、見た目からも〈音〉からも分かる。
(普通の時計とはちょっと違う。できたら中を見せてほしいんだけどなあ)
 それをすると何が起こるのか分からないので、頼まれた仕事だけを遂行する。
 最後に柔らかい布で表面を拭き取って、おしまいだ。
「お待たせしました」
 カウンターの待合に座っていた男に声をかける。
 受け取った時計を確認して、彼はにやっと笑った。
「見事なもんだ」
「恐れ入ります」
 彼はそれを慣れた手つきで上着の内側に入れた。
 すると、彼にぴったり沿うように〈音〉が響き始めた。ノアが目を見張るうちに、優しい音色と気配が男を包み込んでいく。懐中時計が望んで彼のそばに寄り添っているようだ。
 こういうことはめずらしい。よっぽど物を大事にする人間か、そのモノに一目惚れのように気に入られていなければ、こんな風に響くことはない。この街に住んでいてもそんな人に会うのは稀だった。
(この人、見た目は怖そうだけど実はすごく優しい人なのかな……?)
 リエラという人が時計を贈るくらいには、と思うと、つい言葉が転がり落ちた。
「大事な時計なんですね」
 びりっ、と。
 険しい視線が突き刺さり、ノアは失言を悟った。先ほど蓋の内側の文面を読んでいたのは、相手もとっくに知っている。口を結んで直立不動になったノアだったが、男は目を和らげ、ため息まじりに苦笑したかと思うと「ああ」と呟いた。
「いつも持ち歩いているせいで傷だらけでな。本来の持ち主より雑に扱うって、こいつに文句を言われている」
 そう言って、時計を指でぴんと弾く。
 前の持ち主から引き継いだのがこの時計らしい。雑に扱っていると告白したわりには大事に思っているのが感じられて、羨ましいような、ちょっと照れくさいような気持ちになる。
 こういう言動が大人の男ってやつなのかなあ、などと多少の羨望を抱きつつ、修理代金を告げようとすると、彼は懐から硬貨を取り出した。ぴかぴかと金色に輝くそれにノアは絶句する。
「両替できません!」
「いい。とっておけ。開店前に無理を言ったからな」
「それでも多すぎますっ!」
 時計を上着に仕舞い込みながら、男は「今は懐があったかいからな」と事もなげに言った。
「投資みたいなもんだ。頑張りな、見習い」
 出て行こうとするのを呆然と見ていたが、慌ててカウンターを飛び出す。男の背中に向けて「ありがとうございました!」と頭を下げた。
 しかしこの金貨。親方にどう説明しよう。
 そうはいっても起こった出来事を順番に話すだけなのだが、ちょっとだけ気が重い。大金すぎる。
(まだこんなにもらえるほど仕事ができるわけじゃないしなあ……)
 どうしたものかと思いながら店に戻ろうとした時、石畳みを駆ける慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あっ、ノアちゃん!」
 若者を「ちゃん」付けで呼ぶのは、この街のおばさんや年寄りだ。呼びかけに振り返ると見知った顔だった。ティナの働く小間物屋の近所に住む、肝っ玉母さんのハンナだ。
「うちの子見なかった!?」
「おはようございます」という挨拶にかぶせるようにしてと勢いよく尋ねられ、目を瞬かせる。
 確かこの家の子は十二歳と八歳の姉妹、セレナとミリーだ。
「今日はお姉ちゃんも妹ちゃんも見てないですけど……?」
「昨日から帰ってないのよ!」
 えっ、とノアは戸惑った。ハンナは真っ青になっている。
「あの子たち、昨日は友達の家に泊まるって言って出かけたの。朝になってそのお宅に行ってみたら二人とも来てませんよって。あの子たち、嘘をついて出掛けたみたいなのよ。近所の人に知らせた後、家の中をよく調べてみたら、毛布とか小型ランプとかナイフとか、そういう細々したものを持って行った形跡があって」
「外泊っていうか、野宿しに行ったってことですか?」
「きっとそう。最近あの子たちのお気に入りが冒険する鼠の話で。その真似をしたくて二人で抜け出したんだわ」
 ハンナがわざわざ訪ねてきたのは、ノアがセレナやミリーが潜り込みそうな廃工場地区を根城にしていた過去があるからだろう。確かに少し大きくなった子どもたちにとってあの辺りは格好の遊び場だが、夜には入らないという不文律があった。ノアたちのような浮浪児以外にも、悪事に手を染める大人が時々集まっているからだ。
「もう他の人たちには知らせてるんですよね? それでもまだ見つかってないんですね? だったらおれもみんなに声をかけてみます。シャルルあたりが二人を見たって人を知ってるかも」
「ああ、ごめんね。お店があるのに」
「気にしないでください。子どもがいなくなったんだから、親方も探しに行くなとは言いませんよ」
 それどころか、なんで動かない、と言ってぽかりとやられるかもしれない。親方に一言断りを入れて捜索を始めることにする。だがその別れ際ハンナは心配そうに呟いた。
「最近見慣れない人たちがたくさんうろついているから、何か変なことに巻込まれてないといいんだけど……」

 アダムに、工房にリトスが寝ていること、起きたら自分が帰ってくるまで待っているように言ってくれるよう頼んで、ノアはまずルースのところへ向かった。
 ルースはちょうど仕事を始めようかという時間だったらしかったが、話をするとサリーアは快く送り出してくれた。彼女も姉妹を見ていないか聞いておいてくれるという。
 何か分かったら商工会に知らせてもらうことにして、二人でエリックを訪ねることにした。
「あのくらいの歳の子が入り込みそうなところかあ……いっぱいあるよね?」
「うん。建物が崩れて道が塞がっていても身体が小さかったら奥へ入り込めたりするから」
 そう言って、ノアはうーんと唸った。
「でもそんなに心配しなくてもいい気がするけどなあ。日が昇ったし、野営したんならそろそろご飯を食べに帰ってきそうなんだけど」
「ぼくたちを基準にしたらだめだよ……。ふつうの子は、廃工場で寝起きしたりしないよ」
 印刷工房のある地区に差し掛かると、景色はごちゃごちゃし始める。この区画は建増しの建物が多い上にあまり人が住んでおらず、工房や商店の倉庫になっている。遠くから響く機械音は、そうした場所でも動いている工房が発する鼓動のようなものだ。
 壁に囲まれた細い道を歩いていると、前方からやってきた男とすれ違う。この道を一人で歩いているとすれば、誰かを訪ねてきた場合が多い。倉庫に用事がある職人や商人だとふたり連れだったり荷車を引いていたりするからだ。
 やってくる男は、色が白くてずいぶん品の良さそうな、学校の先生のような風貌をしている。そしてノアが見た限り、あまり見ない系統の顔だった。
 彼は道を譲ったノアたちににっこり笑って会釈し、すれ違った。
 ずいぶん離れてからささやきあう。
「印刷工房のお客さんかな」
「かもな。あそこ、たくさん本があるし」
 しばらく行くと、店に戻ろうとするエリックが見えた。「エリック!」と呼び止めると、彼は夢から覚めたかのような顔をした。違う世界にいたような、めずらしくぼんやりとした表情だった。
「どうした、何かあった?」
「……どうした、はお前たちの方だろう。何かあったのか」
(気のせいだったのかな。何か考え込んでたみたいだったけど)
 それはともかく行方不明になっている姉妹のことを話し始めると、鋭い駆け足の音が響いてきた。振り返ったノアたちは、シャルルが息急き切って駆けてくるのに目を丸くした。
「ちょっと! ノアの馬鹿! どこに目をつけてんのさ!」
「は?」
 いきなり罵倒される理由が分からない。
 シャルルは足を踏みならして叫んだ。
「ティナとリトスがさらわれたんだよっ!」
 三人はぽかんと口を開け、「えーっ!?」と絶叫した。

 シャルルが聞いて回った話をまとめるとこうだった。
 ノアが外出した後、目が覚めたリトスは親方から伝言を聞いたが、ティナが迎えに来たので一緒に帰って行ったらしい。連れだって歩いていた二人は、顔見知りから行方不明になっている姉妹の話を聞き、二人を探し始めることにしたようだ。リトスが「さがしてあげよう!」と言い始め、ティナが折れたのが目に浮かぶ。ティナはほどほどに付き合うつもりだったのだろう。
 だがそれから戻ってこないというのだ。調べてみると、最後に見かけた人曰く、どうやら二人は廃工場地区に向かったらしい。加えてあの辺りを根城にしている柄の悪いよそ者がいるらしく、シャルルが予測するに二人は捕まった可能性が高い。
「まじか……だったら姉妹もそこにいるかもしれなかったり?」
「そうかもしれん。ティナにしてはめずらしくどじを踏んだな」
「ど、どうしよう! 早く助けに行かなきゃ」
「当たり前でしょ! だいたい調べてきたから、エリック、さっさと救出案作って!」
 いつも以上にせっかちなシャルルに、エリックが呟いたのが聞こえた。
「ティナが絡むと必死だな」
(そういえばそうだな……なんでだろ?)
 エリック早く、とシャルルがせっつく。ノアとルースはおとなしく、二人が内容をまとめるまで、作戦指示を待った。

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