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 予定よりも早く発煙弾が打ち上げられてぎょっとしたのは、きっとノアだけではなかっただろう。
 素早く位置を確認し現場に急ぐ。半壊した建物の影を縫っていくと、発煙弾の真下にある空っぽの廃工場で声がしていた。間違いなく悪党の根城だ。考える間もなくノアは発煙筒の紐を引き、壁の間に投げ込んだ。
 同時にエリックとルースが左右に分かれるのが見えた。ティナたちがどこから逃げ出してきてもいいよう、また燻し出されてきた悪党どもに見つからないように身を隠す。その上でノアは屋根に向かって大量の小石を包んだ布を投げた。ゆるい結び目が解け、石が地上に降り注ぐ。中にいる男たちの悲鳴が聞こえ、一人、二人と飛び出していく。
 笛が聞こえた。ルースの笛の音だ。ティナたちと合流したのだ。
(よし、無理に戦わず逃げよう。そのうち警備隊が来るはずだ)
 次の瞬間悪寒を感じた。
 背後に迫る気配に気付いた時には遅い。
 思いきり蹴り飛ばされ、ノアの身体はボールのように地面を転がった。
「なぁにしてくれてんだ? このクソガキ!」
(しまった、仲間がまだ……!)
 見張りか、外に出ていた仲間が戻ってきたのだ。見つかるなんて運がない。しかも最初に蹴り飛ばされたせいで逃げるのが遅れた。そのまま踏みつけられ、腹部を捩じ切るように踏みつけられる。
「うぐっ」
「てめえみたいなクソガキには躾が必要だよなあ? ああ? 俺たちのところでたっぷり可愛がってやるからなあ!」
「ぐっ!」
 再び蹴り飛ばされ、身体を折る。痛みを叫ぶ意識の合間に、なんとか懐に手を入れる。
 そして、男が襟首を掴もうと手を伸ばした時。
「――!」
 懐から発煙弾を取り出すと、ばん、ばん、と二発続けて撃った。一発は男の頬をかすめ、もう一発はほぼ垂直に放たれた。空に煙が広がる。
「てめえ、くそ!」
 悪態が聞こえ、煙に手を振り上げる影が見える。その隙にノアは脱兎のごとく逃げ出した。
「ぅく……っ」
 動くだけで腹部から全身に痛みが走る。骨を痛めたようだ。吐き気がするのは、胃に衝撃を受けたからだろう。
 まだ土地勘があることが幸いしたのか、どうやら追っ手を撒いたようだ。ここで捕まると確実に逃げられないことが分かっていたから、ノアは地区の奥へ奥へと向かっていた。そうした場所は崩れやすく危険だったり、利用に不便だったりして誰も使っていない。行き倒れるとなかなか見つけてもらえないので、そういう名所でもある。
 瓦礫と崩れた柱の間をくぐりぬけ、人目につかない場所で座り込む。吐き気は頭痛めいたものに変わり、喉が渇いて咳をすると突き抜けるように痛んだ。
(ここ……どの辺だろ……みんな無事に逃げられたかな)
 痛みを感じる意識の裏側で、静かな自分が呟いている。
(――ルリアは、毎日こんな風に殴られたり、蹴られたりしてたんだよな……)
 でも、いつも笑っていた。
「この街が好き」だとノアたちにいつも言っていた。
 彼女が殺されたことが許せなくて、この街と大人たちを見限って出て行った子どもも何人かいる。こんな、くそみたいな街。そう吐き捨てて、自分たちは見放されたのだという顔をして背を向けていった。
 許せない気持ちをかれらとは逆に復讐に変えたほかの仲間たちは、ノアのようにこの街がきれいだと心から思っているわけではないと思う。
(でもおれはみんなで集まってくだらない話をして笑ったり、だれかががんばった成果を褒めあえたり、心細い時仲間に会いに行ける、その瞬間がこの街にあるって、気付いたから)
 いつかいなくなる人がいる。いつまでも一緒にいられないことは知っている。
 だからいまこの瞬間、この街にいることがかけがえのないような気がして。
(――守りたいって思ったんだ)
 ずく、ずく、と痛む腹を押さえる。壁に寄りかかっていたけれど、いつの間にか身体がずるりと傾いで横に倒れていた。
 壁が倒れたものであろう冷たい石はひんやりと心地よくて、つい目を閉じてしまう。
 大丈夫。たぶん見つからない。ほとぼりが冷めた頃にシャルルかエリック辺りが見つけてくれるだろう。それまで、この痛みをやり過ごそう。
 そう思っていたのに、ぱたぱたぱた、と聞き慣れない足音を聞いてノアは目を開けた。
 ぱたぱた。ぱた。ぱたぱた。迷うよう足取り。
 それは少しずつ近付いて、起き上がろうとしていたノアをあっという間に見つけ出した。
「ノア!」
「……リトス?」
 ノアを発見した途端に目を輝かせて、何のためらいもなく膝をつき、瓦礫の間をくぐりぬけてやってくる。まじまじと彼女を見てしまったのは仕方がないと思う。まさか一番に自分を見つけるのが、この街どころか廃工場地区の奥まで入り込んだことのないリトスだとは。
「どうしておれがここにいるって分かったの?」
「〈音〉がきこえたの。空に、ぱん、ってけむりが上がったとき」
 上着の胸元を押さえた。
 そこにある煙弾を打ち上げる小銃は、確かに機械だといえる。ノアもその〈音〉が聞こえるけれど、呼びかけられることなんてないし、居場所が伝えてくれるなんてこともない。戸惑っているとリトスは笑顔で懐を指した。
「その子ね、『ノアを助けて』って言っているの」
 ――ききき。ちちち。きちきち……。
 そっと小銃を取り出すと、鳥の警告の鳴き声のようにかすかに何か言っている。
 もしリトスの言葉を信用するのなら。
「おれを心配してくれてるんだ……?」
「うん! ノアは自分のことを大事にしてくれるから、好きみたい!」
 にこにことリトスは笑っていた。表情も、声も、〈音〉も。
 少しの暖かさと、わずかな痛みを覚えた。
 何の裏表もない純粋な笑顔を見られなくなってしまう。
(リトスは……おれなんかより、ちゃんと、機械たちの〈音〉が聞こえてるんだ……)
 自分にしかない力だと思っていた、モノたちの〈音〉を聞くこと。制御できなかった子どもの頃は、ただうるさいだけだった。
 まだ年端もいかない子どもの頃、どこかの街にいたノアは、常に聞こえる大音量に毎日泣きながら逃げ回っていた。
 何の〈音〉だったかは分からないけれど、その名前の覚えていない街や、廃墟の村の中、草原の中にある小屋でも、その〈音〉は聞こえ続けていたように記憶している。
 でもそのうち響きのいい〈音〉と耳障りな〈音〉があることに気付いた。きれいな〈音〉は人が使うものの多くが鳴らしていた。いやな〈音〉はがらくた置き場や掃き溜めに行くと大きくなった。
 でもノアは、みんなに聞こえないそれらから逃れようと、いつも耳を塞いで、あちらこちらを転々としていた。
 ある日どこかの廃墟に潜り込んで一夜を明かしていたノアは、不快な〈音〉が聞こえることに我慢しきれなくなり、その原因を探し回った。
 別の部屋にがらくたの山があった。ノアはそれを掘り出して、小さな箱を手に取った。そこから壊れた〈音〉がするのだった。
 ノアはその辺りにあるもので、自分なりにいい〈音〉が聞こえるよう手を尽くした。後から思えばあれは自鳴琴だったのだろう。結局設計された通りの正しい音が響くことはなかったけれど、不愉快な〈音〉ではなくなった。ノアは、自分の手で〈音〉が美しいものになるよう、手を加えることができることを知った。
 その方法で鍵開けを覚えて食いつなぎながら、やがてノアは機工都市に流れ着いた。意識すればあらゆる〈音〉が聞こえるけれど、いつの間にか、きれいな〈音〉だけを拾うように耳が慣れていた。
 そうして思ったのは――自分はひとりだけれど、モノたちが〈音〉で語りかけてきてくれる。寄り添ってくれる。この世界でたったひとり、かれらの声なき声を聞くことができるということ。優越感を含んだ安堵だった。

 ――おれは〈音〉が聞こえる。
 ――だから世界から見放されたわけじゃない。

 なのに、リトスはノアよりもずっと〈音〉が聞こえる。
 それはきっとおれより世界に愛されているってことなんだ。

 吐き気がする。暗い感情で目が見えなくなりそうだった。どろどろしているような、霧のように立ち現れるような。息が苦しい。
(おれ、嫉妬してる。リトスに)
 顔を覆った。その綺麗な瞳に、羨望と妬みを見透かされそうな気がして。
「ノア? どうしたの、痛いの?」
 ノア、と何度も自分を呼ぶ彼女の声は、心配しているし不安になっていると分かる。
 ――でも、機械じゃないか。
 ――この子は人間じゃないんだよ。人間と見分けがつかないほど精巧に作られた機械人形なんだから、心配する『ふり』くらいできるだろう。
「ノア。ノア?」
 触れた手。白くてひんやりとした少女の指。自分を覗き込む瞳。
 それは、醜く歪んだ自分には眩しすぎた。
「っ!」
 その手を振り払い、まだ鈍く痛む身体を引きずって奥へと足を進める。
「ノア、どこにいくの?」
 ぱっと立ち上がったリトスが後ろに続くが、ノアは振り返らなかった。
 斜めに倒れて屋根の上に落ちた柱の下を通り、瓦礫をこえて進む。緑の影が青く廃墟に差しかかっていた。街とは違うまるで別世界のような静けさの中、どこに行きたいのかも分からないまま、ふらふらと歩き続ける。
「――ついてくるな!」
 ずっと後ろにいたリトスがびくりと身体を跳ね上げて立ち尽くした。
「ついて、こないで。……しばらく一人にして」
 リトスは、けれど、首を振った。
 それにノアは苛立った。
「おれの言うことが聞けないの」
 再びリトスはびくっとした。
 そして眉を寄せ、唇を結んだ後、たどたどしく言葉を紡ぎ始めた。
「……ノア、へんだよ。ノアは、そういうこと、いう人じゃない」
「どうして分かるのさ」
「わかるもん。わたしには、わかるもの。ノア、ぜったい、あとで後悔するの」
 知ったような台詞に、ノアはかっとなった。
「お前に何が分かるんだよ!」
「わかるよ! ひとりにしちゃだめだって、わかるんだもん!」
 その叫びに。
 ノアは不意を突かれてよろめいた。

「わたしのこと、いやだって、ふつうじゃないって思うの、わかるよ。わたしも、どうしてみんなとちがうんだろうって、思うもの。でも、それでもいっしょにいたいの。だいじにしたいの。ノアだってそうでしょう? ティナたちだけじゃない、この街のことぜんぶ、だいじにしたいって、思うんでしょう?」

 こぶしを握って、両の足で瓦礫を踏みしめて。見たこともないような態度で声を荒げるリトスは――綺麗だった。
 こんな時に思うことではないと思ったけれど、ノアは、彼女から目を離せなくなっていた。
 それはリトスが機械人形だからというわけでなく、彼女自身の、彼女に宿る心が放つ強いきらめきが、全身に、声に、〈音〉に、宿っているからだった。
「……どうして……」
 おれの思っていたことが分かるんだろう、とノアは思った。
 この街のことぜんぶ、だいじにしたい。
 この場所で亡くしたものもある。理不尽なふるまいに対する怒り、大人たちへの不信はまだ燻っている。許せないと仲間たちが思っていることも知っている。
 けれど、夕焼けの空、夜の訪れに灯りを灯す家々に心を慰められることや、黒い鎖と呼んでいる繋がりで仲間たちとともにいられることを、ノアはすごいことだと思う。
 この街には、ぜんぶがある。
 リトスは、その複雑な気持ちを単純な言葉で言い表してしまったのだった。
 全身からふっと力が抜けた。そのまま崩れるように座り込み、驚いて駆け寄ってきたリトスに支えられる。あれだけきつい調子で拒絶したのに彼女はためらいなく、しっかりとノアの手を取っていた。
 そのことに救われるような気持ちになる、身勝手な自分がいる。
「ごめん」
 それしか言えなくて、ノアは目を伏せた。
 リトスは微笑んで首を振る。
「ううん。いいの」
 いいのよ、と言って、リトスはノアへ腕を回した。
 抱きしめられて、驚きのあまり何も言えないところに優しい声が降る。
「たすけにきてくれてありがとう、ノア」
 彼女を支えながらノアは、うん、と答えた。
 続く言葉は素直に言えた。
「当然だよ。だって大事な仲間なんだから」
 身体を離して、笑い合う。
 ――り、りん……。
(あれ……)
 なんだか、急に悲し気な〈音〉が響いて、ノアはまじまじとリトスを見た。彼女は笑っている。とても穏やかに、優しく。でも、どうして悲しい〈音〉が聞こえたのだろう。
 声をかけようとした、その時だった。
 低く、唸るような〈音〉が響き渡った。と思ったら、ずず、と瓦礫が滑る。
「なっ、なんだ!?」
 地面が揺れている。足元の瓦礫が崩れ傾斜を滑り落ちていく。周りが崩れ、柱が倒れ始めた。
 ノアはとっさにリトスを抱きかかえる。その途端、地面がなくなり、叫ぶ間もないまま、二人は真っ暗な穴の中へと吸い込まれていく――。

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